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<旅行記>出雲~安来~玉造~隠岐の島~姫路~三宮。日本を再発見する旅路(その1)

(注:長い紀行文です。一度に読むのは疲れるかも知れません。・・・かなり長いので、3回に分けて掲載することにしました!)

 2012年に日本からマレーシアのコタキナバル(ボルネオ島)に転勤し、その後2016年にヨルダン、2019年にルーマニアに転勤した。そして、今年3月中旬に10年ぶりに日本に戻り、月末には晴れて定年退職を迎えた。

 これまでは1ヶ月の一時帰国が数回あったが、毎回自宅の整備や運転免許更新などの様々な手続き、さらに家族・友人・知人との交友などで、長期に旅行をする機会が少なかった(といっても、2018年には伊勢志摩及び熊野を旅行しているが)ので、定年後の時間があり、また体力的にも可能な今このときしかないと考え、いつも旅行代理店のような計画を立てる妻とともに、4月中旬に旅立つことになった。

1.東京駅から出雲へ

 月曜の早朝、新幹線のぞみに乗るため東京駅に向かう。まだ出勤する人が少ない時間帯なので、キャリーバックをがらがら引くのはあまり迷惑にならなかったと思う。しかし、この時間帯でも出勤する人が多くいることを改めて知り、感謝の気持ちが湧いてくる。このような人たちによって、私たちの生活は支えられているのだと実感する。

 東京駅には早めに着いた。出発まで時間があるので、カフェオレとともにカツサンドの朝食を摂る。日本のこうしたファストフードは、どれも美味しい。新幹線用の待合室には、これから出張するサラリーマンに加えて、私たちのような旅行客らしい人の姿もあった。これから旅が始まるという一種の高揚感に包まれる。

新幹線車内。私はこの灰色のボールが人の頭に見えてしまう。

 新幹線は定刻通りに発車した。日本では定刻運行は当然のことだが、なぜか次の品川駅で30分以上停車してしまった。なんでも急病人が出たそうで救急車を呼んでいるとのこと。幸先悪い気分になったが、短い休暇日数のタイトなスケジュールを組んでいるわけではないし、なによりも日本語が使えるのだから(海外では、トラブルが発生した場合は、共通語である英語でめんどうな交渉をしなければならなかったから)と自らを安心させた。

 そして、急病人対応をようやく終えた後、遅延を取り戻すべく新幹線はスピードを上げたが、さすがに障害物のない飛行機とは違って、鉄路では短縮できる時間はごくわずかだ。そのため、乗り換えの岡山駅に着いたときには、出雲に向かう予定していた特急やくもはすでに発車していた。こういうことも想定して、あらかじめ変更可能なチケットにしていたこともあり、窓口ですんなりと次の特急に変更できた。

 予定では、岡山駅で20分程度の乗り換え時間を予定していて、出雲行き特急の車内販売がないということから、岡山駅で駅弁を買う予定だった。しかし、さらに30分以上滞在時間ができたので、駅構内の店でうどんを食べることにした。旅の楽しみの一つに食事がある。駅構内の店とはいえ、さすがうどんが中心の西日本だけあって、天ぷらうどんとかやくご飯のセットを美味しくいただいた。支払いは現金のみかと思っていたが、東京のパスモが使えたので良かった。長く日本にいない間に、こうしたデジタル化は相当に進んでいて、クレジットカードの支払いもかなり対応が広がっているのはとても嬉しい。

岡山駅待合室

 岡山発の特急やくもは、古いJRの車両で少し懐かしさを思わせる(学生時代、このタイプの特急で富山に行ったことがあった)雰囲気があった。そして、連休前のオフシーズンだから、かなり乗客は少なかった。発車して間もなく、数列先の斜め向かいに座っている老人が、駅弁を食べ始めたのが見えた。すると、500mlのビール缶を開けている。さらに続けてカップ酒も開けていた。たぶんこの路線の常連なのだろう。

 列車は(東京生まれの私は、汽車という単語を使い慣れていない。何も考えていない場合は電車と言い、少し気を遣う場合は列車と言ってしまう)、曲がりくねった山間部を抜けながら、車窓から春の日差しがやわらかく差し込んでくる。外の風景とともに、のどかな眠くなるような時間がこんこんと過ぎていく。これが、日本の田舎なのだと実感する。そして後で知ったのだが、石州瓦(せきしゅうがわら)という光沢のある瓦屋根の家が多く見えた。その瓦屋根の美しさは、ずっと大切にしたい日本の風景だと思った。

 中国山地を抜けた後、最初の大きな街である米子駅が近づいてきたとき、谷川岳のような急壁に残雪を抱いた秀麗な峰が、反対側の車窓から垣間見えた。大山だった。地図で確認すると平野部の中に屹立している富士山のような山で、古くから信仰の対象になっているのが良くわかる美しい姿だった。帰路に写真を撮ろうと思ったが、結局撮り損なったのが残念だ。またいつかお目にかかる機会があることを願おう。

米子近くから見た大山
列車から見た宍道湖の風景

 終点の出雲駅には夕方に着いた。到着するまでに、特急なのに駅で停車している時間が多かったうえに、様々な事情のため定時で運行されていなかったから、予定より到着が遅れた。その長旅の末にようやく着いた駅から、クレジットカードが使える条件で選んだ、旅館に向かうタクシーから見えた街の風景は、かなり閑散としていた。簡単な観光案内をしてくれた親切な運転手によれば、島根県では午後4時にほとんどの店は閉まってしまうそうだ。もちろん新型コロナウイルスの影響が大きいが、もともとの県民性により早寝早起きの時間帯で活動しているそうだ。そのため、出雲大社近くの庭が美しい由緒ある宿に着いたときには、周辺の土産屋などはみな店仕舞いをしていた。また、出雲大社内の古代博物館も閉館して、見学できなった。

神門通り

 それでも、午後5時の春の日は長い。数人の中国人らしい参拝客を横目で見ながら、出雲大社をお参りした。大鳥居から拝殿に向かう長い下り坂の道、そして両側に立派な松が植えられた参道が印象深い。また、途中にある庭園(トップ画像として掲載)も背景の山々と調和して、実に美しい。ただし、最近作った彫像の多くのオブジェは、観光対象としては必要かもしれないが、私には無用の長物に映った。できれば、余計なものを排した原初の姿を再現したものであって欲しい。参拝した後、宿で温泉につかり、運転手に教えてもらった地酒の玉鋼(たまはがね)大吟醸を愉しんだ。そして、小泉八雲が絶賛したという日本海から取れた塩がとても美味い。

出雲大社参道に入る鳥居
長く下る参道(帰路)

 出雲大社には翌朝も参拝した。朝早い時間帯だったが、けっこう参拝客がいた。みな考えていることは同じだと思った。私たちが本殿前に着いた時、ちょうど若い禰宜(ねぎ)や巫女(みこ)さんたちが集合していて、本殿へ祈祷する準備をしていた。それで、たまたま横に移動して本殿の後ろ側を見にいったところ、ちょうど塀の隙間から全員で祈祷をしている姿が垣間見えた。非常に清々しい光景だった。こうして日本と日本の心は守られていると思った。

出雲大社本殿右側から
出雲大社八足門(本殿へ入る門)

 出雲大社の本殿は、正面からは良く見えないが、後ろからはその作りが良くわかる。当然なのだが、伊勢神宮式(つまり、日本の神社の基本形式)とは明らかに異なる甍の形をしており、出雲の神様(大国主命(おおくにぬしのみこと)とされている)は、遠くの隠岐の島を経由してユーラシア大陸(地政学的に見ても、どう間違っても朝鮮半島ではない)から渡来したことがわかる。それは中国大陸から沖縄を経由して渡来した弥生人ではなく、環日本海に広く住んでいた縄文人だろう。そして、その縄文人は遠洋航海を得意としたから、恵比寿神信仰にも繋がっている(後で参拝する美保神社へつながる)。

 朝の参拝を済ませ、宿をチェックアウトして近くの出雲大社前のバス停から出雲駅まで行くバスを待っていたら、メモを取ろうとしてバックから取り出した紙で薬指の先を切ってしまった。すぐに出血は止まったが、これは何の前兆だったのだろうか。

2.安来の足立美術館から玉造温泉へ

 出雲駅からJRローカル線に乗って安来駅に向かった。二両編成のディーゼル列車で、止まる駅によっては駅員がいないため、ワンマン運転の運転手に運賃を支払う形式になっていた。東京生まれの私には初めての経験だが、それでも日本語のアナウンスを理解できるので、何も不安はない。そうして、のどかな火曜日の朝、通勤・通学の少ない人たちに混じって、しばしの列車の旅をした後、安来駅に着いた。

 土地の名前のとおり、安来節の元になったドジョウ掬い踊りが有名な安来である。しかし、駅舎にはそうしたキャラクターの宣伝があっても、人通りの極端に少ない街の風景には、あまりドジョウ掬い踊りの面影は感じられない。私たちは、駅にあるコインロッカーにキャリーバックを預けた後、目的地である足立美術館の運行するシャトルバスを駅の外でしばし待つことにした。

 JRローカル線とは異なり、美術館の運行する無料バスは定刻通りに来た。私たちの他に2~3組の乗客(同じような老年カップルばかりだ)を乗せて出発した。向かう途中運転手の趣味なのか、はたまたラジオ番組がそうなのか、視聴者からリクエストされた古い歌謡曲を次々に聞かされた。久々に聴く日本の古い歌謡曲だが、さすがに村田英雄「王将」が流れた時は、車窓のひなびた田園風景とのなんとも言えないミスマッチ感が強く感じられた。まさか、昭和40年代にタイムスリップしたわけではないが・・・。

 おおよそ駅から30分くらいだろうか。山と畑以外なにもない道路を走ったのち、その広い畑の中にポツンと目指す足立美術館はあった。また、美術館の隣の敷地には、安来節の実演をする大きなドジョウ料理屋があった。たぶん大型観光バスのコースとしてセットになっているのだろう。この珍しい美術館は、なんでも、地元の陶芸家兼実業家の足立さんが、自分の趣味と地元への貢献を考えて作ったもので、日本庭園と日本美術を中心にした美術館ということだ。

 館内に入ると、見事な日本庭園の他に、足立さんの友人でもあった北大路魯山人の陶芸作品が多数展示してあった。陶芸も少し嗜む妻としては、魯山人のモダンな作風は好みでないようだったが、私は20世紀初頭の現代美術のエッセンスも取り入れたその作風が、非常に面白かった。なにか、ピカソやマティスのようなイメージを感じる。もし経済的に余裕があれば、魯山人の作品を2~3購入して、自宅に展示したいと思ったくらいだ。

足立美術館池庭

 広い美術館の庭園をめぐる間に、ランチタイムの時間になった。それで、館内のこぎれいなレストランで食事をすることにした。すでに、私たちと同じような老夫婦やにぎやかな高齢女性グループが食事をしていたが、レストランに入るなりいきなり鼻についたのは、カレーの強い香りだった。インド圏ならいざしらず、ヨーロッパなどではこのような臭いがするレストランはまずないから、どこか懐かしい感じがした。そして、日本人はほんとうにカレーが好きなのだと実感した。妻は地元のものをつかった笹の葉寿司を注文したが、私はレストランお勧めのビーフカレーまたはシチューではなく、ハヤシライスを頼んだ。というのもハヤシライスを前回食べたのは、もう10年以上も前になることと、カレーの臭いに刺激され、懐かしいものを食べたいと思ったからだ。

 しかし、この美術館の美しさに負けたのかもしれない。レストランの料理は可もなく不可もなかった。食後のコーヒーも同じだった。けっして不味いわけではない。どこか懐かしい小学生時代にデパートのレストランで食べたような感じがしたのは、あながち偶然でもないと思う。つまり、古い良き昭和時代の味なのだろう。

足立美術館枯山水

 いくつかのとても美しい日本庭園、そして最新の日本美術作品(函館の夜景、競馬の風景、バレエの作品などが私には印象深かったが、一番面白かったのは、昔訪ねたニースの市場にちょっと似ている風景画だった)を見た後、妻がおきまりの土産物屋でのお楽しみ時間(女性の多くは、買い物をしている時間に一番幸福感を感じられるようだ)を過ごした(当然、その間私はベンチに座って呆然と時間をつぶしている。春風がそよそよと心地良い)。そして、再びシャトルバスに乗って安来駅に向かった。今度は演歌のBGMはなく、車内は静かだった。

 安来駅に着いたとき、妻が事前に調べていた情報では、間もなく次の目的地である玉造温泉駅に向かう列車が出る予定だった。しかし、駅舎から遠い側のホームで待っていたら、親切な駅員が「次の便はしばらく出ませんよ」と教えてくれた。なんでも、新型コロナウイルス感染防止策の関係で減便しているため、1時間後でなければ次の列車は来ないという。

 海外と比較して、日本の鉄道は定時運行で時間に正確だと思い込んでいたから、初日の新幹線の遅延は仕方ないとしても、出雲に向かう特急がしばしば長く停車しているのには正直言って少し閉口したし、さらにローカル列車では時間が必ずしも正確でないことがわかったのは、意外な驚きだった。とはいえ、実際の地元の空気に触れてみると、駅舎で待つ1時間は長く感じられなかった。つまり、東京で暮らす時間と時間の身体的な感覚の幅とでもいうものが、場所によって少し違うのかも知れない(アインシュタインの相対性理論ではないが、時空が曲がっていることの実例か??)。

 駅舎で、安来節の宣伝ビデオを見て時間をやり過ごしているうちに、次の列車が来る時間がやってきた。しかし、地元の人は列車の時間をよくわかっていて、列車が到着する10分前くらいになると駅舎で待つ人が少ずつ多くなってくる。むしろ、駅員からの案内より、地元の人の行動ぶりの方がよほど良い情報源になっていると感じた。

安来駅構内の安来節キャラクター紹介コーナー

 二両の短いディーゼル列車が来た後、次の玉造温泉駅にはすぐに着いた。駅からホテルまでは歩ける距離だというが、荷物もある上に腰痛持ちの私を考慮して、タクシーで向かうことにした。高齢の運転手は、ギアチェンジが面倒なのかもしれないが、カーブを曲がるたびに合っていないギアでエンジンがカラカラと音を立てていた。

 今度の宿は、旅館ではなく大きなホテルだった。本当は団体客を想定して作られたのだろう、広いロビーと大小の各種宴会場が整備されていた。そして、海外からの客を想定しているのだろうが、和洋室という不思議な作りの部屋に案内された。部屋自体は広いのだが、ドアを開けて入った居間は、壁も畳も黒く塗られていて、ここには希望すれば布団を敷けるようだ。そこから奥の大きな窓に面したところに、一段上になった場所があり、そこにベッドマットだけが二つ並べて置かれていた。それはダブルベッドではないし、かといってシングルベッドが二つあるわけでもない。そして、ベッドマットから出るときは少し下に降りて、さらに一段下の床に降りる動作となり、これは存外不便だった。ただし、スマホなどの充電に使えるコンセントが、寝室内に沢山あったのは重宝だった。

 その晩は、またも島根の地酒と酒肴で夕餉を楽しんだ。やはり日本の地元のものは、なんでも旨い。満足した食事の後に、無料のコーヒーをもらいにロビー近くの機械に向かった。普通、温泉旅館の夕食後は、皆浴衣などで館内をぶらぶらしているものだが、なぜかスーツを着ている中年男性とそれよりは若い同じくスーツを着ている中年女性がいた。女性は男性の腕にしっかりと自分の腕を巻き付けている。妻と「あれは不倫カップルね?」と目配せして、自室に戻った(別の知人女性の見方によれば、「再婚した夫婦か不倫カップルのどちらか」だそうだ)。

 ロビーには、玉造の由来となった水晶が展示してあった。古代、この水晶から勾玉(まがたま)を作っていたのが地名の由来という。現代では勾玉の需要はとっくに無くなっているが、一方で温泉の需要はしっかりと残っている。ちなみに、勾玉の形は人魂(ひとだま)のように見えるが、私は胎児を模したものであり、そこから強い生命力をイメージしていると考えている。同じような形のものが、NZマオリのグリーンストーン細工にもある。私は、縄文文化が環日本海から南太平洋まで広がっていたことの証拠でないかと思っている。古代人は、遠いNZまで、島伝いに遠洋航海したのだ。

玉造温泉駅外にある説明

 コーヒーを飲んだ後、再び温泉に入る。温泉の湯が、私の長年の酷使で疲弊し、故障が生じている腰(背骨)を癒してくれる。また出雲大社のバス停で受けた指の傷も、温泉で治ってきた。温泉の効果は偉大だ。

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