選択の果てに。
二十代の真ん中ぐらいで、ふと「今いる自分というものは、着ている服とか、普段やってる仕事とか、周りにいる人とかそういうものを、選択した果てにいるのだなあ」と思ったことがあったんだドグ。(*´ω`*)
ああ、選択の果てにいるなあって。
それとは気にせずとも、一度は自分で選んでここにいるのだなと。きっかけとか偶然は重なったにしても、続けていることというのは、選んでそうしているものだから。
知らずのうちに着ているこの服だって、一度は自分が選んだものだから。だから、家にいると一度は選んだ身の回りのものたちが少し、愛おしかったりするドグ。
それで、何か非常に合わないというようなことがあった時は、もう一度選択するべきか、努力で中身を変えるべきかを考える時期だと思うんだドグ。
自分で選んだことって、みんな受け入れやすいんだドグよ。でも恋愛とかって、自分で選べない場合があるじゃないドグか。
振られるとか。
「いやいや、それは自分の意志じゃないドグし!?」ってなるじゃないドグか。そう。我々は、選んでもいてなおかつ、選ばれてもいるんだドグよね。
だけど、不思議なことだけど別れた人のことを10年20年経って考えると、どれも「別れてよかったなあ」と思えることばかりなんだドグ。
直後は悲嘆に暮れるし、立ち直れないけど。3年経って、4年経ってってしていくと、自分が全然別の場所にいるんだドグよ。
付き合うとか付き合わないという以前に、自分は一人の人間なんだなって。そういうことって、すごく大事な気がするんだドグ。
今、アゴタ・クリストフの『悪童日記』の続編を読んでいるんだドグけど、あの前半とても重要だった人物が、後半になって死んだり、とんと出てこなくなったり、別の人が人生において大きい意味を持ち始めたり、その人も急にいなくなってしまったりというのを読んでいると、
人生ってこういうものなんだなって、すごく腑に落ちるんだドグ。
色々あるけど、お互いに選んで、選ばれて、また新たな選択肢が現れ、そして消えていく。
だから、この瞬間瞬間を、楽しんで生きたいなって思ったそんな午後でしたドグ。(*´ω`*)
ドグドグ。
選択の果てに、土偶になって巨大な縄文土器の前でカツオのフィギュアを抱きかかえるようになったドグ子。果たして、これは正しいのかどうか……。