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わたしも「目を澄ませて」みた
ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。
つぶやきは時々していましたが、記事を上げるのは久しぶりです。
今回取り上げる映画は『ケイコ 目を澄ませて』です。
実はわたし、キャリアコンサルタントの先輩である鵜飼さんと一緒に、毎月シネマトヲ→クというオンラインサロンをしております。サロンといってもまったく堅苦しいことは無し、自由参加で、一つの映画作品について自由にあれこれ語り合う場です。そのシネマトヲ→クの6月の一本がこの『ケイコ 目を澄ませて』でした。
先天的聴覚障がいのあるプロボクサー、ケイコが主人公。2020年、東京。再開発の進む下町の片隅にある古びたボクシングジムが、ケイコの練習場。
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昼はホテルの客室清掃係として働く彼女にとって、このジムは大切な居場所。コロナ禍のあおりで会員が減り、会長の持病も悪化したり……とジムの経営は相当苦しそうです。
ケイコが生きる世界
ケイコのコミュニケーションの手段は手話か筆談、または読唇術。
映画の時代背景はコロナ禍真っ只中の2020年。
「新しい生活様式」の名のもとに徹底された、感染予防のためのマスク着用が、どれほど聴覚障がい者にとってコミュニケーションの障壁になっていたか。
聴覚障がいに限らず、外見から判断し難い障がいや持病のある人は、ただでさえ適切な配慮も受けられず、困りごとに直面するだけではなく、事情を知らない第三者の無理解に苦しみ傷つくことも多いだろうに、このコロナ禍では不自由なこと、ままならないことが格段に増えたことでしょう。
ケイコの世界を感じたい
初見は、普通に音声をオンにして観たのですが、2度目は音声をミュートにした状態で観て、3度目は再び音声オンにして観ました。
(何回も観ることができるのは配信の良さであり有り難さ!)
ミュートにして観たのは、音が聴こえないケイコのいる世界に身を置いてみよう、ケイコの世界の感じ方に少しでも近づきたい、という思いからの試みでした。
やってみて……あくまでも擬似体験に過ぎないので、ケイコと全く同じように世界を感じることはできないのは当然としても、普段当たり前のように耳に入ってくるはずの音声がない状態、音のない世界というのはこんなにも心許ないものなのだという気づき、それから「目を澄ませる」とはどういうことなのか、ほんのわずかではありますが理解できた気がしました。
とてもとても疲れるのです。目を澄ませるって。
聴覚に頼れない分、視覚に全集中。目を凝らす、熟視。
ただ目を「澄ます」のではなくて目を「澄ませる」。使役の表現からも、さらに意識的に「見る」という行為を我が眼に課している感があります。
会長がインタビューで、ボクサーとしてケイコが優れている点について聞かれて「ケイコは目がいい」と褒めるシーンがあります。これも生きていく上で必要に迫られてやむなくという面はあるとは思いますが、やはりケイコの不断の努力の賜物ではないかと思いました。
また、聞こえないことで把握できない情報はいくつもあり、聞こえない状態って、時に見えていない状態と同じように危険に晒されることもあるのだなと……特に街中の雑踏はただただ怖い!ケイコが浅草の街で平然と横断歩道を渡っているのも、見ているこちらの方がハラハラドキドキしてしまうという。わたしなら足が竦む……。
でもわたしが一番不安に感じたのは、なんといっても3戦目のボクシング試合のシーン!
なぜ闘うのか
ゴングの音も、レフェリーの声も、セコンドの指示も何も全く聞こえない、狭いリングの上。たった一人で闘う。目を澄ませて。怖い。不安。心細い。
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こんな孤独な闘いを、なぜしなければならないのか。危険と隣り合わせどころか危険だらけの中、たった一人で、自分の身体を武器に闘う。
「痛いのが嫌だ」と言ったケイコ。
本当は「殴り合い」なんてしたくないのかな。勝ってもしんどい、負けてもしんどいもの。
プロ2戦目で辛勝した彼女は「一度、休みたいです」という思いを伝えられないまま、3戦目の試合に挑みます。
会長に「つらかったら無理して試合出なくてもいいんだよ」と言われても、彼女は自分の意思で闘いの場に立った……。
彼女をリングに立たせたのは何か。勇気?勝負師としての意地?閉鎖してしまうジムへの、病床の会長への恩義からなのか?勝ちたいから?モヤモヤした自分の思いを確かめるため?区切りをつけたかったから?
ミュートにして全編観ていて、わたしが不安になり、そして最もフラストレーションが溜まったのがこの最終試合のシーンでした。
ケイコが相手に足を踏まれたことをレフェリーにアピールしても(レフェリーに通じず)全く取り合ってもらえない。むしろ早く位置について、と急かされる始末。納得しないまま試合続行……そしてレフェリーのブレイクの声が聞こえないからケイコは相手を打ち続けていて「ブレイクだから打つな」とレフェリーから注意されるとか……いろいろと不条理すぎる!!
(相手の足を踏むって意図的(反則になる)かどうかは判断が難しいとされていますが、この映画の中ではラストラウンドで追い込まれている相手がわざと足を踏んできたように見えました。だからこそケイコも申立てしようとしたのだと)
普段声を出さない、感情もあまり表に出さないケイコが、獣のような唸り声をあげて猛然と対戦相手に立ち向かっていく……不条理さへの怒り、やりきれなさ、これまでのモヤモヤやイライラ、鬱憤、溜めてきた思いが一気に沸点に達したかのように感情を爆発させたケイコ。冷静さを欠いたケイコは相手にアッパーの強烈な一撃を受けてノックアウト……。
なんていうかねぇ、この崩れ落ちたケイコの姿を見ていたら、もうやりきれなさと悔しさとでどうにかなりそう(わたしが)。ケイコならなおさら……。
第3の場所
聞こえないこととケイコの生きづらさはシンクロしています。生きていく上で聴覚に頼れない分、聴覚以外の五感フル稼働状態、第六感も発動しているかもしれません。
外界はいつも危険と隣り合わせ、常に目を配って気を張って落ち着かない、ある意味情報が遮断されている状態で、自分だけ取り残されているような、誰かと居てもひとりを感じる……家を一歩出ればひと時たりとも心休まらないのです。
ボクシングのリング上だけではなくて、いつも見えない「何か」に立ち向かっている。だからいつも険しい表情で、愛想笑いを浮かべてる「余裕」なんてあるわけもなく。
普段からケイコが日常に潜む危険と対峙し、不安や恐怖と闘いながら日々生きていて、そんなケイコだからこそ、彼女が安心安全と感じられる場所、リラックスできる場所が絶対に必要なわけで。
家でもない、職場でもない、第3の場所(サードプレイス)。ケイコにとって必要な居場所、それがジムでした。
ケイコにとってジムの閉鎖は、数少ない彼女の大切な居場所がなくなってしまう危機であり「受け入れがたい、許せない」ことでした。また、所属ジムがなくなることで、プロボクサーとしての今後の身の振り方も決めていかなければならず、ケイコにとって人生の転機に直面せざるを得ない状況になったのです。
最後の試合も終わり、ジムは閉鎖し、相変わらずホテルの仕事を黙々とこなすケイコ。以前と違って、ダメダメな後輩くんに仕事のコツを丁寧に教えている……ケイコの変化を感じた場面でした。
川の土手にひとりに佇むケイコ。対戦相手との偶然の出会い。その後のケイコのなんともいえない表情……。
物理的な居場所はなくなってしまったけれど、心の居場所はあるのだとケイコ自身が気づいたと感じさせるラストシーンに、安堵しました。
居場所とは「安心できる」「ありのままで受け入れられる」「必要とされている」という感覚から成り立っていると言われています。
安心安全が担保され、ありのままの自分を受容され、自分の存在が誰かのために存在していると実感できる、自分は一人ぼっちではなく誰かと繋がっていると確信できること、つまり他者との関係性を信じることができて、心の居場所が生まれるのだというメッセージをラストシーンから感じました。
バリアフリーとウェルビーイング
映画は一部字幕スーパーが入り、またケイコと弟の手話でのやりとりのシーンでは、サイレント映画の手法のように、会話の合間にセリフを黒背景の字幕で挿入するという演出がされていました。
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一方で字幕も説明もなく手話のみで展開するシーンもありました。
カフェでケイコが聴覚障がいを持つ友達と手話でおしゃべりを楽しんでいる……何を話しているのかわからないけれど、ケイコの弾けるような笑顔と屈託のなさから、伝わってくるものはあります。
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聴覚は使えなくても、コミュニケーションの方法はいろいろとあって、TPOに合わせて使い分けているようです。
「障害は個性」というような綺麗ごとはとても言えないけれど、障害の持つ特性を知り、それをカバーできる方法がいくつも(できるだけ多く)あることが大切で、それらが生きづらさややるせなさを少しでも解消できる助けとなれば……という思いに至りました。
この映画では先天的聴覚障がいを持つケイコが主人公としてクローズアップされますが、ジムの会長もまた、後天的ではありますが視覚障がいと向き合っていく人として描かれています。
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持病が悪化して失明の危機にある会長(既に視力はかなり落ちていてほぼ見えないらしい)が、ケイコの試合をPCの画面を見るのではなく、イヤホン越しの音声で「観戦」する場面がありました。車椅子の中で身を屈めて、一言も聞き逃すまいとするかのように、全身全霊でイヤホンの音声に耳を澄ませていました。
さまざまな後天的な事情により、誰にでも障がい者になる可能性はあって、決して他人事ではないー劇中の会長の存在がそう物語っているようでした。
後になって知ったのですが、監督はこの作品に字幕だけではなく、視覚障がい者向けに音声ガイドをつけていました。
そのことについて書かれている記事をnoteで見つけたので、リンクを貼らせていただきます。
この記事の書き手であるPalabra株式会社は、コンテンツ制作、特に映画、映像をすべての人が楽しめるよう「バリアフリー」対応ツールを開発したり、バリアフリー版制作、コンサルティングなどに携わられています。
【文化芸術のバリアフリー】、とても素晴らしい取り組みだと感銘を受け、もっと広がってほしい活動だと思いました。そして、映画を通じて多くの人にメッセージを届けたいという監督の心意気が表れているなと感じました。
すべての人がそれぞれに抱えるさまざまな困りごとや生きづらさから少しでも解放されて(バリアフリー)、自分らしい人生を謳歌できるように……それがwellbeingの第一歩。わたしがキャリアコンサルタントとしてできることは何だろう、と改めて考えさせられました。
今回はこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございました^^