モダンかピリオドか―演奏の多様性についての考察
✳️この記事は2021年5月にアメブロにて投稿した記事の再編集版です
実は、このテーマは既に古いものになっている―過去数十年にわたり、音楽家たちが取り組んできたことだからだ。そして今はもはや「二元論」ですらなくなってきていて、「融合」が随分なされてきた。もう少しすれば、問題ですらなくなることだろう。僕には喜ばしいことに思える。
「モダン楽器」による演奏は「普通」のことだった。高性能で耐久性があり、グランドホールでも困らないほどの音量も獲得した。僕たちは一時期までこれらの演奏しか体験してこなかった。その範疇で意見を交わすことしか出来ていなかったのだ―それは当然のことだ。未知のことを語る「預言者」ではないのだから。「ゼロ」が存在しなかった文化があったように、特に不便も感じていなかったのだ。
これらの状況に変化が生じ始める―「ピリオド楽器」による演奏が台頭してきてからだ。20世紀前半でも「古楽」の動きは見られた。特に独奏楽器においてチェンバロなどが演奏されてきていたが、アンサンブルやオーケストラのレヴェルで演奏されてゆくのは1960年代後半以降となる。扱いの難しいピリオド楽器とその奏法に精通しなければならない。資料は膨大に存在するようだ。こうして時代考証がなされ、作曲家の生きた時代に鳴り響いたであろう「音」が再現されてゆく。しかし厳密にいえば、それは「フィクション」の域を出ない (実際には誰も知り得ないからだ) 。それでも、いくらかでも作品の精神に、その音楽の全貌に肉薄しようとする一種のドキュメントなのである。
ハーゼルベック/ウィーン・アカデミーによるベートーヴェン/「英雄」。ロケーション場所にまでこだわる。2017年に来日公演を果たしたようだ。
ベルリオーズ/幻想交響曲Op.14~第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」。古楽畑のマルク・ミンコフスキがモダンのマーラーCOとピリオドの手兵であるルーヴル宮廷音楽隊との合同演奏を実現した。このような試みはガーディナーの前例がある。ベルリオーズの時代は楽器進化の過渡期であった。
「ピリオド楽器」を「ピリオド奏法」で演奏する。
このことに拘らず「モダン楽器」を「ピリオド奏法」で演奏するとどうなるのか―。
おそらくこれを実行した最初の音楽家はニコラウス・アーノンクールではないだろうか。方法論の「逆転的発想」の鮮やかさ。「ピリオド」の意義は単なる「再生」ではない。音楽家たちにインスピレーションを与え、音楽と共に飛翔するのだ―。
グラーツ音楽祭でのライヴ。ベートーヴェン/エグモント序曲とシューベルト/交響曲第5番をCOEと演奏。アンコール付。
1990年、COEとの「ベートーヴェン・チクルス」が開始、録音もなされる。最晩年の演奏のCMWによる第5番フィナーレのコーダでティンパニを派手に打ち込む独自の解釈の萌芽が確認できる。
思えば、今の僕たちの時代はあらゆる種類の音楽を楽しむことができている。多くのジャンルがあるし、ジャンルを超えた、あるいはカテゴリーに該当しない、できない音楽だって「海の砂」ほどあるに違いないのだ。ネット社会となり、誰もが様々な音楽に接することができる。しかもその場にいながら、である。リスナーとしてはこれ以上の喜びはないくらいだ。自らの好奇心の赴くままに音楽を追い求めることができるのだから―。
では弊害はないのか―?
僕は「ある」と思っている―。
悲観的だろうか?そうかも知れない。
でも明らかに新鮮さは感じられなくなってゆく―。
更なる刺激を求めてしまう―結果、かつての音楽は忘れ去られてゆく。あと数十年すれば、またリヴァイバルするかもしれない―。結局その繰り返しなのだ。
ではどうすればよいのか―。
僕は「想像力」にカギがあると思う。その「キー」には幾つか種類があって、その1つが「ピリオド」だと思うのだ。それは想像力を高めてくれる。インスピレーションを受け止める下地を整えてくれるのだ。
モーツァルトはビートルズを知らなかった。バッハはAKB48を知ることは絶対にないだろう。ベートーヴェンはマーラーの音楽を知らないし、シューベルトはペンデレツキを知るまい。でも僕たちはこれらすべての音楽を知ることができる。だから、彼らがいた時代の音楽の新しさに、その驚きに共感できないのだ。もっと強い刺激を知っているから。一旦それらを「白紙」にする。「タブラ・ラサ」の状態で音楽に向き合う。
すると少しずつ見えてくる―。
当たり前だと思っていた「モード進行」が当時は異常なことだったことに。楽器の組み合わせが、音の配置があり得ないものであったことに。「常識」が「非常識」だったことに気づく。その「気づき」の呼び水となるのが「ピリオド」の発想なのだ―。
「モダン」と「ピリオド」の各要素を止揚し、縦横無尽に駆け回るようなアーティストが最近多くなってきたように感じる。「時にはピリオドでやってみる」くらいのライトな感覚が生まれてきているのだ。共演するアーティストによって、演奏する音楽によってスタイルをガラッと変えてみる。演奏者とリスナー双方に新たな発見がある。「時代」と「スタイル」を自由に行き来できるのだ。とても嬉しい傾向だと感じる。
「誰もが心にタイムマシーンを持っている」
多様性を極めつつあるこの時代―。
それでも「変わらないもの」があるとするなら、それこそが「本質」なのだ。
「未来」の音楽の兆しは確かに「現在」にある。
「本質」とともに―。
テオドール・クルレンツィスが「新世代」の音楽家であることは確かだろう。手兵「ムジカエテルナ」も作品によってモダンとピリオドに切り替える。話題となった「ドン・ジョヴァンニ」のメイキング映像。惹き込まれる。このアルバムは2017年度レコード・アカデミー賞銀賞を受賞した。クルレンツィスの本領は声楽&オペラにあると思う。
パトリシア・コパチンスカヤもそう。実に無邪気で破天荒で魅力的。アントニーニとの「化学反応」が凄いことになっている。楽しそうだ―。
クルレンツィスとコパチンスカヤ―2人がダウランドを歌い、奏でる―。