藤井雅実先生の『〈外〉への共振−哲学と芸術の限界とその〈外〉』考察を読んでの個人的な覚え書き


藤井雅実先生のにわかファンとなって、今日は一日、この考察を読んで、教えられたり共感したり、その上でさらに個人的に考える事が多かったので、忘れないうちに、覚書をしておきます。あくまで個人的な省察です。今までこれだけ明確に現代へと至る思想と芸術の関りを解説して下さった方に、お目にかかった事がなく、驚きの連続でした。

先生の言葉を自分なりに要約したのが、「・」の部分で、それに神学を学んだ者としての私見を挟んだのが「⇒」の部分です。あくまで個人的な雑感です。

・かつてアートは、凡庸な日常に対する非日常性というものを持っていた。しかしそれは商業主義によって、消費される日常となってしまった。アート性のある商品というものが量産されているという事だ。

・かつて美的なもがアートの対象とされていたが、今は「おどろおどろ」したものや、新奇なものや、「無音」さえもがアートとなっている。

・芸術も哲学も、人類未踏の地を探求するという意味では類似性があるが、哲学は言葉によってそれを表現し、芸術は言葉に出来ないものを表現する。

・フランスのポスト構造主義哲学は、詩的な言葉によって哲学を語る事により、緻密な哲学のなかに芸術の要素を取り込んだが、ソーカル事件により、メッキがはがされ吸引力を失っていく。しかしそれを全否定する必要はない。

・天才デカルトが、「我思う故に我有り」という一面の真理を発見したことにより、神に変わって、<この私>こそが世界の原点として発見された。
⇒デカルトが発見したのは、人が最低限断言できる小さな真理であって、その事から「神の否定」や「<この私>こそが世界の原点」という結論の間には、論理の乖離があるのではないか。

⇒例えば今後ロボットが、自我を認識したとして、<この私>こそが世界の原点だと宣言したとしても、開発者たちは「...」となるだろうし、胎児に意識がないときでされ、胎児は存在しており、親はそれを知っている。

⇒だからデカルトの言葉は、(何故かは知らないが)「我有る」ゆえに、「我思う」と言い換えたほうが精緻ではないか。


・主観が客観的世界に従うのではなく、主観の式に則して、世界が現れ経験されるという、カントのコペルニクス的な大発見。

⇒確かに私達の認識能力が今と異なっていれば、世界は全く違う世界として経験されるだろう。もしも私達がコウモリの鳴く超音波は聞き取れても、海の波打つ音は周波数が低すぎて聞こえないとしたら、世界は今とはずいぶん異なるものとして認識されるだろう。主体としての私達と、世界の様式がたまたま今の数値であるので、私達には世界が今のように見えているだけだというのは一面では正しい。
 しかし玩具メーカーが電車と線路の規格を合わせて、セットで販売するように、神が主体としての私達と、私達に認識される世界をセットで造ったと考えるのも矛盾はしない。神は美しい花と、それを美しと感じる事の出来る人を造られ、そして人が将来探求可能な微小なものや、深遠や、虹の外側の色などを、余白として与えたのだと


・二律背反(アンチノミー)、肯定否定のどちらとも決定しえない、

⇒反論理。不確定性原理とも通底する
⇒美的、情感的な経験。例えば失恋した時に見た日没が、ある種の深い情動を引き起こしたとして、それを言葉で語り尽くす事ができない⇒情感・美のアンチノミー
⇒神に関する信仰も同様で、信仰心を抱いた者は、それを言葉で完全に表現することは出来ないし、その外にいる人は「宗教は怖い」といった逆の情動を抱きやすい。ここに両者の歩み寄りと対話の努力が要求される。


・カントの崇高美 人は美しいものを見ると快を感じるが、大自然は時に、人を不安や畏れの感情と共に高次の崇高感を人に与える。ベートーヴェンやミケランジェロに影響を与える。

⇒日本ではそれを八百万の神としてきたし、唯一神を信じる者は、それらを神の栄光の反射物、リフレクションされたものだと捉える。唯物論者はこれを、脳のプログラミングされた反射的な反応だとでも言うのだろう。


・二十世紀哲学と芸術の脱構築とその限界、神に変わって、世界の原点として提示された人間、芸術において美的規範は必須ではなくなり、内容は全くの空欄「X」となった。

⇒こんなものが芸術と言えるのかと、人々が驚いたり怒ったりするものが、人の情動をプラスにしろマイナスにしろ動かしたという点において、評価された。それは便器でもかまわかった。


・非日常性の競争、より刺激的で、よりアブノーマルなものへ
⇒しかしそれはイコール高い芸術性だろうか?


・ありとあらゆる根拠の失効というニヒリズムの全面化であると同時に、時代の指針という幻想から解放された、完全な自由空間の解放

⇒自由からの逃走、自由が人の幸福度を下げる点も忘れてはならない


・とすれば、しかし、何をするのが良いのか?全ての指針を放棄した空白地帯では、コンサルタントや商人が人々を扇動する。
⇒欺瞞と経済優先主義、人がお金の奴隷となる危険


・もはや芸術や哲学は現実への実行力を喪失してしまったのだろうか?そうだろうか、私達が探求する現実はどう変容しようとも、常に決して汲みつくされない、その「外」がある。言語で語る哲学と感覚的造形で提示する芸術は、スタイルにおいて対極であったとしても共振し続け、既存の「外」を探求する

⇒知識の総量が海だとして、人類はスプーン一杯分も知っていないというパスカルの言葉を引用するまでもなく、私達は死ぬまで新しい地平を探求し続ける事が出来る。しかし問題は、それが人にとって幸福なのかという事でしょう。。。

『〈外〉への共振−哲学と芸術の限界とその〈外〉』(「Search&Destroy」第1号・東京造形大学電子マガジン
※ダウンロード無料)。
http://cs-lab.zokei.ac.jp/labtu/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%9B%B8%E7%B1%8Dsearch-destroy/

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