【第一回】 鎌倉幕府への反感「後醍醐天皇」 [歴史発想源/武心の大道・建武争乱篇]
現在『ビジネス発想源 Special』の「歴史発想源」では、室町幕府初期を舞台とする「信義の経国・室町幕政篇」を連載中です。
そこで、この「トップリーダーズ」では、その前日譚となる「武心の大道・建武争乱篇 〜新田義貞の章〜」の前半部分を期間限定で掲載いたします。
「室町幕政篇」を理解する上で、「建武争乱篇」を一緒に読めば、複雑に入り組んだ南北朝時代がより分かりやすくなるでしょう。
後醍醐天皇に呼応して鎌倉幕府を攻め落とし、建武の新政から離反し室町幕府を作る足利尊氏と激闘を繰り広げた、新田義貞が主人公の「建武争乱篇」。
現代の会社経営やマーケティング戦略のヒントが一つでも見つかると嬉しいです。それでは「建武争乱篇」、第1回をどうぞ!
【第一回】 鎌倉幕府への反感「後醍醐天皇」
■天皇家が二つに割れた「両統迭立」時代
鎌倉時代の始まりというのは、長い日本史の上でも、特に大きな転換期と言えることでした。
それまでは京都にいる天皇や貴族、いわゆる朝廷が日本の政治を独占していたのに、武士の源頼朝によって鎌倉幕府が開かれたことで、武士が政治を行なうようになったからです。
その後、室町時代、安土桃山時代、江戸時代と、武士の世の中は長く続いていくことになるので、その流れを決定付けた重要な時代だったと言えます。
さて、平安時代までは京都にあった政治の場が鎌倉時代になって関東の鎌倉に移りましたが、鎌倉時代後期になると、京都にいる天皇家は、政治の表舞台から遠ざけられているうちに非常にややこしいことになっていました。
文永9年(1272年)、第88代天皇である後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が、今後の代々の後継者をどの息子たちの一族に続けさせようかということを曖昧にしたまま崩御してしまったことがきっかけです。
後継ぎの候補であった二人の息子、第三皇子である後深草天皇(ごふかくさてんのう)と、第四皇子である亀山天皇(かめやまてんのう)の家系のどちらが天皇家の正統な本家であるかを指名しないまま、
「何かあったら行政府である鎌倉幕府に相談しなさい」
とだけ遺言して亡くなってしまったのです。
後深草天皇と亀山天皇の兄弟は揉めに揉めて、遺言どおりに鎌倉幕府にその判断を仰ぐのですが、鎌倉幕府はそんなことはもう面倒になったのか、
「あー、じゃあもう、今後の天皇家は、最初は後深草一族から、次は亀山一族から、その次は後深草一族から、その次はまた亀山一族から、その次はまた後深草一族からというように、交互に天皇に即位していけばいいんじゃないんですか?」
という妙な裁定を下してしまいました。
そして、その方法が本当に採用されてしまいます。
それぞれが院政を取っていた場所の名をとって、持明院にいた後深草天皇の家系は持明院統(じみょういんとう)、大覚寺にいた亀山天皇の家系は大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれました。
そしてそれ以降、天皇の座には持明院統と大覚寺統の人間が交互に即位するという、いわゆる両統迭立(りょうとうてつりつ)という異色の世襲体制になっていったのです。
しかも、その天皇即位を認める権限は鎌倉幕府にあるので、持明院統も大覚寺統も、相手側に天皇即位が決まれば次の即位は自分たちに回ってくるのだから、
「早く今の天皇を引退させて、次は自分たちに!」
と鎌倉幕府に対してやたら働きかけてきて、鎌倉幕府もすごく面倒になってきていました。
さて、そんな両統迭立時代の天皇家において、一人の革命児が登場します。
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