【書評】1曲から織りなされる、網目のような繋がりの物語
どうして小説からは、音が鳴らないんだろうか。音の鳴る絵本はあるのに、音の鳴る小説はない。
しかし同時に、そのおかげで読者は自分の頭の中で好きな音楽を鳴らせるのだとも思う。
音楽にしろ、料理にしろ、芸術にしろ、全てを想像で賄うからこそ小説は面白い。
小説『凪に溺れる』(青羽悠/PHP研究所)は、たった1つの曲と、その曲を作った1人の人を軸に物語が繋がっていく。
始まりは2019年。
オフィスビルの受付で働く遥は、音楽が好きな派遣社員だ。好きな音楽は、下北沢の地下でライブをするような邦楽ロックバンド。かつてはライブハウスに通いつめ、追っかけをしていたこともある遥。しかし、転職活動をしながら派遣社員として働く毎日の中で、それらの音楽は動画配信サイトで聞くことが増えていた。
そんなある日。仕事から家に帰ると時刻は21時になっていた。スーツのままベットに倒れこみ、いつものように動画配信サイトで好きな音楽を垂れ流す。テレビでは東京オリンピックのCMが流れている。
「黒い海は凪ぎ ラジオはノイズを吐き出し
予感はまだまやかし 波打つ繰り返し」
遥は動画配信サイトで流れてきたこの1フレーズにふと息を呑む。びびびっと小さな電流が脳をさす。
誰? この歌は誰が歌っているの? 彼女はベットに投げ出していたスマホを慌てて引き寄せ動画のタイトルに目を向ける。
それは、すでに解散していたバンド、 the noise of tideの「凪に溺れる」という曲だった。歌っていたのはボーカルの霧野十太(きりのじゅった)。
静かで、だけどどこか遠くを見せるような曲の勢いのまま、彼女は恋人である健太に「海が見たい」と連絡を入れる。
仕事、恋人、将来、漠然とした不安を抱える遥に小さな光をこの曲は与えた。
ところが、
冒頭で書いた、1つ曲、1人の人というのは、「凪に溺れる」と「霧野十太」のことである。
どうしてこの曲が生まれたのか、第1章から2006年に戻り、1章進むごとに月日は進んでいく。そして、1章ごとに主人公が変わり、霧野十太の周りにいる人々が彼を語っていく。
小説の中で何度も何度もリフレインされる「凪に溺れる」。読めば読むほど、私はこの曲がどんな曲なのかがわからなくなった。それは曲調やリズムという、曲自体の話ではない。どんな音なのかは、著者青羽悠さんが登場のたびに書いてくれている。
私がわからなくなるのは、曲の性質に近いニュアンスの部分だ。
例えば、ポップな曲を聞けばそれを聞いた人は明るくなったり、元気が出たりするだろう。逆に、「今はそんな気分じゃないから聞きたくない」という気持ちにもなるかもしれない。
例えば、しっとりとしたバラードだとしたら、涙が出る、自分にぴったりの曲だ、という共感や共鳴が湧くかもしれない。
けれど、「凪ぎに溺れる」は、それらのどれとも違う。
第2章に登場する聖来(せいら)は曲を聞き、「霧野十太は神様だ」と崇拝するようになる。
時は2009年のことだ。彼女と霧野十太は、高校のクラスメイト。学園祭で霧野十太は一人で「凪に溺れる」を演奏し、体育館に集まった生徒たちを一瞬にして曲の虜にする。凪いでいるはずなのに、胸のうちに残る意味のわからない激しさ。誰もが止まっているのか動いているのかわからず、そのちぐはぐな気持ちに立ち尽くしてしまう。
その瞬間、聖来は、十太はすべてを見透かす人なのだ、と気づき彼を”神様”と呼ぶようになる。
第3章、 時は2015年に移る。主人公は十太と同じ大学に通い、the noise of tideのギターを担当することになった正博(まさひろ)だ。彼が語るのは、「凪に溺れる」を音源化し、バンドを組んだ4年間の出来事。
バンド解散の最後のライブ。「凪に溺れる」を弾き始めた彼は、「十太は自分とは違う。ずっと遠くの先を見つめている。だからお前は辞めるな。音楽を辞めるな。先に行け」とそうしなかった自分に後悔を募らせる。自分はこの後悔と一緒に生きていく。そう、苦しそうに決意を固めるのだ。
聞く人の心を乱し、だけども確かに何かの予感を感じさせる曲「凪に溺れる」。
霧野十太は何を思い、どんな意味をこの曲に込めたのだろうか。亡くなるまでの彼の軌跡を、彼の周りの人から追っていく。
もう1つ、この小説は『繋がり』が大きなテーマになっている。霧野十太という人物を中心に、彼が関わってきた人たちの目線から展開されるストーリーに加え、章ごとに出来事も連鎖していく。
前の章で起きた出来事が少しずつ少しずつ、小さなうねりを生み、気づけばそれは波になる。ひとつの出来事が繋がり、次の出来事を起こしていく。気づけば読者は、その波の中に飲まれている。
『繋がり』を取り入れているのは、著者である青羽悠さんが「複雑ネットワーク」を研究していることが影響している。
記事の中で、彼は「複雑ネットワーク」を研究したことで、小説のテーマにも変化が訪れたと話している。
私たちは、ひとりだと、恐らく自分という人間を自覚しずらいのだと思う。周りの人がいて、周りとの比較で、周りとの違いで、私たちは自分自身を少しずつ定義していく。
「自分はこういう人間だ」というのは、ある意味では「自分はこういう人間ではない」と言うのと同義ではないだろうか。
そんな繋がりの中に、私たちは存在している。
インターネット、リアルで会うこと、教室、SNS、会社。
自分から伸びるたくさんの繋がりという名の触手は、誰かにくっついている。その誰かからも触手が伸びていて、また別の誰かとくっついている。そうやってできあがるのが、もしかしたら社会であり、世間であり、世界なのかもしれない。
繋がりは、人に限った話だけではない。
私たちはインターネットやSNS、noteが生まれたことで、自分の過去にもアクセスしやすくなっている。
あのときの自分、このときの自分。そういうこれまで歩いてきた自分の残像たちにも簡単に触手を繋げることができる。
1つの曲が織り成す繋がりの物語。
読み終わったあと、私はあなたと話をしてみたい。あなたの中でこの曲は、どんな曲に聞こえたのだろう。どんな情景が思い浮かんだのだろう。
そして、この曲が現実にないこと、つまり共通言語がないことに、一緒に少しだけ落胆したい。