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ときめきが止まらないのは年一くらいでお願いします(お題:朝)
朝は私にとって、苦しみの時間。何度も朝型生活にしようと思うのだけれども、うまくいかない。貧血で頭が回らないのに、できていない仕事のことで頭がいっぱいになる。
あのメール返さないままもう3日が過ぎている。
朝一の打合せの資料がまだだ。
月初の申請業務、今日の午前中が締め切りだ。
スケジュール的にプレスリリースのドラフト作り始めないとやばいけど打ち合わせの合間の1時間では手がつけられなさそう。
1ヶ月後の開示のためにそろそろ事前アプローチもしないといけないし。
そういえば3ヶ月後の案件のスケジュール出せって言われてたっけ。
なんでこんな中でKPI進捗報告しなくちゃいけないんだ。
あの部長に取材依頼の件、相談したいけどまたごねられるんだろうなぁ。
あぁ、成果出せなかったらどうしよう。
もっと頑張らないといけないのに。
でも、頭が回らない。動きたくない。何もしたくない。出勤したくない。
私じゃなければ。もっと体力があって優秀な広報の人がこの仕事をしたら、もっといい結果になるんじゃないか?
考えすぎて最終的に、闇に落ちかける。これ以上うだうだしたら遅刻するという時間になって強制的にネガティブ思考を止める。
だから、1時間早く起きたところで憂鬱な気持ちが長くなるだけのような気がしてしまう。その時間で何か有意義なことができるわけでもなく、むしろ早起きしたにもかかわらず有意義な朝を過ごせない事実にさらに凹んでしまう。
誰だ、「早起きは三文の徳」だなんて言った人。
これは間違った考え方なのだろうけれども、夜の方が1人で部屋にいる分には、刺激が少なく平和で、無意識に感じてしまうプレッシャーが減るから息がしやすい。
連絡を返さなくても、「寝てた」で済ませられる。寝てしまうのがもったいなくて、実際にはなかなか寝ないのだけど。
だから「朝」を貴ぶカルチャーはそんな私の在り方を咎められているような気がしてしまって苦しい。
そんな朝嫌いの私が、この朝ばかりは「くせになる」と思う瞬間が稀に訪れる。
自分がリードする100人規模の記者発表会の朝だ。
イベントが終わったら劇的に疲労するんだろう、と薄々悟りつつも、あのアドレナリンが出て、やる気がみなぎる感覚には、他では得られない快感がある。
前日まではできていないことで頭がいっぱいで憂鬱の極致なのだけれども、朝になるともう無駄な抵抗は無理だというあきらめもあり、とにかくやるだけやるんだ、やりきってやるんだという想いが勝つ。
直前の鬱っぽさがひどいほどその高揚感が高まる傾向があるので、軽い躁鬱的な病気かもしれないけれども。
前夜はもちろん、その直前までの一週間、睡眠時間はろくにとれていないのに、自然と目が覚める。
カーテンを開けて、まだ朝焼けの空に、イベントの成功を祈る。
Amazon Musicのこういう時だけのためにつくっている「気合を入れる朝」というプレイリストを再生する。
いつもより入念に化粧水と美容液を顔にぬりこむ。
毎朝のルーティンの遂行はあんなに困難なのに、この朝の行動だけはいつも同じだ。
会場へ向かう電車の中。出勤中の憂鬱そうな方々を横目に、この人たちにとってはいつもの朝で、私にとっては勝負の朝なんだと、そのギャップに違和感を覚え、ついにやにやしそうになる。
私、仕事が好きなんだなと、このドキドキ感は好きな人とのデートでもそうそう味わえないな、と思ったりする。
進行マニュアル最終版を再読しながら、取材ポイントとタスクを整理する。グループチャットを確認して、無事起きたことを連絡したりもする。
荷物が搬入され、舞台ではステージの準備が進む。たった1時間のお披露目の場に、たくさんのお金と人が動いていると思うと、良い意味の緊張感で武者震いする心地になる。
展示を一つ一つチェックし、ステージのバミリとカメラ位置の確認をし、オフィシャルカメラマンを連れ回していい写真が撮れそうかをフィードバックしてもらう。
テクニカルリハーサルやランスルーで登壇者の動きの細かい部分を決め、ナレーションの方に話していただきたいポイントを指示する。
「そこの一列目の椅子ははけましょう」
「この製品の上の照明をもう少し右にずらせますか?」
「製品はこのMCの方の呼びかけでアンベイルします」
分刻みの準備スケジュールの中で次々、決めるべきことを決めていく。
たくさんの人に呼び止められてさまざまなことをきかれ、トラブルの相談を受け、その都度、即決即断を求められる。内心テンパっていても、周りを不安にさせないように、落ち着いているように振る舞う。
そうしていよいよ受付オープン、100人近い記者の方々を前に、自分でも驚くほどに堂々と、当日の段取りを説明する。
そうして発表会という半年がかりで準備してきた晴れ舞台は幕を開ける。
こういう日の私は朝から輝いていると思う。
初対面でも物怖じすることなく、まるで特殊な仮面をかぶったかのように、自信にあふれた表情をしている。
後から、この日手伝いに来てくれていた会社の方に、「いつもと印象が違うし、自分だったらあんなにてきぱき対応できないから驚いた」と言われたことも少なくない。
そして、イベントが終わって、事後対応が終わって、最寄り駅についた途端に、朝予想をした通りに、スイッチが切れるのがわかる。
すべての力が抜けて、頽れるような、一歩進むだけでもしんどいような状態に成り果てる。
なんとか帰宅したら荷物を投げ出して、スーツを乱雑に脱いで放り、部屋着でベッドに飛び込む。
もう無理。もう頑張れない。
本当は私はこんなにダメな人間なんだとうっすらと思う。でも今日ばかりはがんばったんだという気持ちが私を過度に絶望させない。
誰も褒めてくれないけれど、自分で自分を抱きしめるようにベッドの温もりを存分に味わい、誰かが温かいごはんをつくってくれるわけでもないから、好きなものを出前する。
この気楽さが、その瞬間は何よりの癒しだ。
時々、緊張の糸が切れた安心感から涙が止まらなくなったりもする。大の大人が声を出して思いっきり泣く。こんなところは誰にも見られたくない。
そう、そんな1日を過ごす朝。
こういう朝が1,2年に1回くらいある。
正直、これ以上の頻度で起きたら命がもたない。
当日までのあの苦しい日々があったからこその朝なんだから。もうこんなしんどいイベント準備は御免被ると何度も思っていた。
でも、愚かにもこんなときめきが止まらない朝を、時々は過ごしたい、と思ってしまう。
誰の毎日にもそういう、勝負の朝、みたいなものはあるのかな。
このコラムは、「コーヒー」「待つこと」「ゆらゆら」といったさまざまな共通の言葉に対して、背景も活動分野も異なる4人がエッセイを書く「日常の言葉たち」をリスペクトしつつ、同じテーマで自分も書いてみようという試みを実施するものです。
今回のテーマは「朝」でした。
正直、朝は私にとって良いものではないので、その中でも数少ない尊い朝の思い出を書こうかと思ったものの、そんなきれいごとで済ませたくもなく、「広報」という仕事をしているからこその勝負の朝について綴ってみました。
いい加減、いい大人なんだから、感情の浮き沈みに振り回されたり、考えすぎて朝から病みそうになったりすることから解放されたい…ものの、その愚かさもまた人間らしいと言えるのでは、といい大人だから自分でその愚かな自分を正当化して受け止めるしかないのでは、とも思うのでした。