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ため息、諦め、パラドクス

お酒はあまり飲まなくなったが、一方でタバコを吸いたいと感じる瞬間が増えてきた。ただ、僕の趣味はランニングだから、ランニングの心地よさを減じてしまうようなタバコにハマるわけにもいかない。

というわけで、今は友人が喫煙者だった場合に数本もらうという状態で落ち着いている。

(以下、本記事の内容はとてもネガティブなものです。したがって、「幸せになるために人は生きている」という信念を抱いている方には読むことを勧めません。他の楽しそうな記事を読んでいただければと思います。)



ふつう人間は息をするだけで心地よく感じるようになっている(ブレスについて意識的に捉え直してみるとよい:メタ認知)。この生物学的事実こそが、「生きていることはすばらしい」という思想の根幹なのだろう。

なのにもかかわらず、ネガティブな意味を伴う息遣い――ため息が出てしまう。呼吸をすることに対しての煩わしさ。このため息には「生きていても仕方ない」という気分(Stimmung)が伴っている。

呼吸(生存)への倦怠感こそが、僕にタバコを吸わさしめるのだ。(生理学的にはニコチンの作用だと指摘できるかもしれない。けれども、それは近因の説明であって、存在的な(ontisch)な説明だ。僕が指摘しようとしているのは、存在論的な(ontologisch)な、つまり人間存在の構造から原理的に生じてこざるをえない原因についてなのである。)


いくら生存を嘆こうが、心臓は脈を打ち続けるだろう。このことに気づいてしまった。すなわち、心臓は主観的意識がどのように思惟しているかなどお構いなしに動き続けるのである。


「生きていることが幸せだ」と言明する者にとっては、生存は重荷でしかないと論理的に説得することは不可能である。なぜなら、これは論理ではなく感情の問題だからだ。(脳神経科学的には不安を司る扁桃体の活動の問題)。

そのような「生存への意志を疑いなく持ち続ける個体」がどうやらホモ・サピエンスではマジョリティらしい。彼らには、「生きている意味などないと叫んでいるにもかかわらず、必死に命にしがみつく存在」はわからない。理屈ではわかるが(認知的には納得できるが)、共感できないのだろう。


ここで、諦めの溜息。


あの人たちには絶対にわからないとようやくわかってきた。しかも、彼らのほうがよほど理にかなっている。なぜなら、生存がそれ自体ネガティブであると捉えないほうが、生存と生殖に有利なのだから(適応度が高い)。つまり、彼はよりよく生きようとしているのだから、僕がそれに水を差すようなことはできない。


他者への共感を期待せず、僕はただひたすらに存在の重荷(Last)を背負い続けなければならないらしい。存在の重さを取り去ることはどのような策を講じても不可能だ。

何かに救ってもらうことを諦め、生存への嫌悪感からため息をつく。にもかかわらず、生き続ける。

思索(Denken)は続く。


思考の材料

参考文献



その他

↑ キタニタツヤ それでも僕らの呼吸は止まない

↑ RADWIMPS おしゃかしゃま


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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うぇい@哲学
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