深層意味論的神話分析「病の起源」神話 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(11) --媒介項の活動を八極への分節として言語化する
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人間が動物に変身する?
”媒介項”こそ、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で描き出す神話の論理の世界を読み解く鍵である。
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神話では互いに異なり対立関係にあるはずの二極のあいだで、一方から他方への移動や、一方から他方への変身が語られる。ここで二項は対立関係の両極にあるものとして分離され区別・分節されながらも、同時に一つに結びつけられる。一つに結ばれるといっても区別不能に一体化してしまうのではなく、あくまでも二のまま一になる。
神話では、例えば人間が動物に変身したり、動物が人間と同じようにしゃべったり、人間と動物が結婚したりする。そういうことは”現実にはない”ことであるが、”論理的には”語り得ることである。
動物 << 媒介者 >> 人間
現実の経験的区別を、現実には鋭く対立し互いに混じり合うことなく相容れない別々の事柄である両極を、”二即一一即二”の関係に置く。そして”対立する二極のどちらでもあってどちらでもない”事柄を出現させる。
この異なるものを同じと置く置き換え操作の軌跡こそが媒介項である。
そして、媒介項の活動を通じて、対立するはずの両極がひとつに繋がったり、また分離されたりする、接続と分離のパターンが神話の論理として記述されることである。
未分離・分離・結合
この間の一連の記事では、空海『吽字義』の”八項関係”とも読めるモデルをヒントにレヴィ=ストロース氏の『神話論理』を読んでみようと試みている。
この八項関係にある項たちは、もともと自性においてあらかじめ存在する何かではない。八項たちが互いに他ではないものとして分かれつつ、しかしワンセットで動くものとして結び合っている。この分かれつつ結ばれる動きが動く影のようなものとして、私たちの心にはあれこれの自性をもった項たちが、まるでそれ自体としておのずから存在するかのように見えてくるのである。
私たちにとっての”意味する”ということを引き起こしている二項の関係(二項が互いに異なるものでありながら、同じこととして置かれる関係)は、第一の項iと第二の項iiが”異なりながらもの同じもの”として分かれつつ結びつくことによって動いている。
i / ii
ここで第一の項iは非iとの二項対立関係の中の一項である。
また第二の項iiは非iiとの二項対立関係の中の一項である。
i / ii
/ /
非i / 非ii
この四項のセットこそが「iはiiである」式の意味するということを可能にしているのだけれども、この四項セットを結び合わせているのが、ちょうどこの図では「/」と書かれた四つの分けつつつなぐ=異なりながらも同じとする動きであり、この「/」の動きを象徴するのが/の両側の極に対する限りでの両義的な媒介項なのである。
媒介項について深く知ることには、人類が世界について思考する可能性を深める鍵になりそうな気配が満ちているわけである。
では媒介項とはどういうものなのか?
『神話論理I 生のものと火を通したもの』87ページに「M5 ボロロ 病気の起源」が掲載されている。
媒介項の例1"病"
ここで病気は媒介項である、とレヴィ=ストロース氏は書く。
病気は何と何の二極の対立の間にある媒介項であるかといえば、それはすなわち、生と死の間を媒介するものであるというのである。
死 >< 病気 >< 生
”病気”とは「生と死の中間状態である」とレヴィ=ストロース氏は書く(『神話論理I 生のものと火を通したもの』p.90)。
* *
私たち生きた人間たちが、「なぜ自分たちは生きているのだろうか?」と問うとき、まず、そもそも、この問いが問えるようになるために、生と死は別々のことだという認識がなければならない。
ここで生と死の分離を、予め出来合いの前提条件として要求するのではなく、もともと分離していなかった生と死が、どこかでなにかの弾みで分離するようになったのではないか、と考えるのが神話の思考である。
そして生と死という対立する二極を分離する操作・動き・作用の一つが”病気”である(他にも、前回取り上げた神話にある埋葬もこの仲間である)。
* * *
分離がなかったところに、分離が生じはじめ、二極が遠くに隔たる。
そしてその分離のした二極の間に超えられない境界が定まったり、境界が定まりつつかすかなコミュニケーションが保たれたりするようになる。
二極とその間の媒介の関係を語る神話は、上記のようなパターンを描くことになる。
『神話論理』で扱われる神話たちは次のようなよく似たパターンを描く。
第一に、度を越した家族関係の短絡がある。
これをきっかけとして、分離が起きる。
分離された二極が二つに分かれたまま結合される。
このとき結合を引き起こすのが、両義的で中間的な媒介項である。
*
媒介項にはいろいろある。
ある何かが他の項と無関係にそれ自体として媒介項性を属性として持っているというのではない。二極の対立があるところ、その間にたまたま入っ裏混んだり、その間を結びつけた、その間に通路を開いたりするものは、なんであれ、媒介項になる。媒介項とは、あくまでも徹頭徹尾、”ある二極の対立に対する”媒介項であり、二極の対立がないところで、二極の対立と無関係に、媒介項なるものがそれ自体として転がっているわけではない。
◇ ◇
私たちの通常の言葉による思考は、ものごとがあらかじめはっきりと分かれていることを前提に、ある何かを既知の対立関係のどちら側に振り分けるかを試そうとする。
これに対して神話の思考は、ものごとがあらかじめはっきりと分かれているように見えるのはなぜかを問い、答えようとする。
この問いを問うためには、言葉が必要になる。
つまり、あらかじめ区別された物事の体系を使い回して、区別の始まり、区別以前からの区別の発生ということを区切りだそうとする。
人間/動物
天/地
生/死
食べられるもの/食べられないもの
経験的で身近な世界の対立関係について、なぜそこに分離が、区別が、分別が生じているのだろう、と問うわけである。
* *
そしてこの問いに答えようという時に登場するのが媒介項・媒介者である。
媒介者はまだ区別や対立が無かったところで(あるいは区別や対立が今とは異なった組み方になっていたところで)活動を開始する。そして未分離だった世界からその一部だけを切り分けるような行動をとるのである。
水、装身具、葬儀、病気
分離した二極を分かれたまま結びつける媒介項として、これまで登場したのは、空と大地を分けつつ結ぶ水、自然と文化を分けつつ結ぶ装身具、生者と死者とを分けつつ結びつける葬儀であり、そして今回ここに生と死を分けつつ結ぶ病気が加わる。
ここで、水そのものそれ自体、装身具そのものそれ自体について、水とはなにか、装身具とはなにか、というパターンで言い換え先となる項を探しても、迷うばかりである。
媒介項について知る鍵は、それが何と何の間にあるのか、を神話の語りから読み解いて行くことである。
*
未分離からの分離のはじまり
ある項が、ある二極に分離した二項の間で、媒介者としての位置を占めるようになる。その経緯を語るのが、媒介者の起源についての神話である。
媒介項「病気」の起源がどういう神話であるのか、詳しくみてみよう。
生と死の中間状態としての病気の起源を語る神話は、生を死から分離し、死を生から分離する話であり、この分離が可能になったことの由来、起源を語る。この点で、生きた人間にとっての全ての始まりに触れるような神話である。
未分離をあらわにする
病気の起源の神話は、むかしむかし、まだ人間が病気にならなかった頃から始まる。つまり病気という項が、他の項との関係の中に区切り出される前から話ははじまる。
少年とか母とか男たちが登場するので、今の私たちと同じ人間の世界の中で展開している物語だと思いたくなるが、よく注意したい。
この話は、まだ人間が病気にならなかった世界という、いま現に存在する人間たちの世界以前の、別の世界の話である。
そういう世界以前=非-世界から、今日の人間が生きる世界(それは人間が当然のように病気になる世界)が、区切り出され、分離され、分節され、分かれてくる。この分離のプロセスを丹念に描いていくこと、特に分離された両極の間を行ったり来たりする中間的で両義的な媒介者の活躍を通じて描いていくことが神話の課題なのである。
この観点からすると、神話の始まりがまさに”分離ができていないこと=未分離”になっていることがわかる。
”ほぼ大人の男性が、男の子どものように母親とともに居ようとする”
それはつまり、
子供 / 大人
男 / 女
という、この部族の人々にとって経験的に分離され対立関係をなすはず二つの極が、ショートしているということになる。
この未分離を出発点として強調したところから、非-世界/世界の分離へと、物語が展開し始める。
+ +
第二の未分離
話は、未分離からはじまらないといけない。
ところが、おもしろいことに、我々人類は未分離そのものということを唐突に考えろといわれても、どうもうまくいかないらしい。
未分離は、分離に対する未分離である。
未分離ということを宣言するために、まず分離があって、その分離が、二極を短絡するような行い、過ちによって、わざわざ未分離にされました、という筋書きにしないと、未分離ということを語りはじめることができない。
ここに人類のおもしろさがあるように思える
さきほどの神話の続きを見てみよう。
なかなか衝撃的な短絡が登場する。
まさかの、寝ている顔の上での毎晩おなら!
とんでもない話である。
昭和の終わり頃のテレビで見たような見ないような(?!)、お上品とは言えない笑いのようだが、しかし、この毎夜の毒ガス攻撃のせいで、母の小屋に閉じ籠り中の若者は死にそうな病気になるのだからたいへんなものである。
それまでなかった病気が、この祖母と孫の関係から生じはじめる。
この笑い話のような一節もまた、レヴィ=ストロース氏によれば、冒頭と同じく分離の短絡を殊更に描くことで、未分離状態を告げるものである。
孫と祖母、つまり”若者/老人”の対立、”男/女”の対立、”口/尻(食べるところ/出すところ)”の対立、あるいは”食べられるもの/食べられないもの”、”食べられるもの/毒”といった経験的対立関係をなす二極が、この顔に放屁するということにおいてごちゃ混ぜになっている。つまり、短絡している。
若者 / 老人
男 / 女
口 / 尻
食べるところ / 出すところ
食べられるもの / 食べられないもの
食べられるもの / 毒
↓
両極の混同・短絡
↓
病気(生死の中間)
生死を分離しながら結びつける病気という、生死の中間の起源について語るために、そのための舞台装置として、まず二極に分離しているべきだと考えられているものたちがショートして未分離になった姿で登場する。
家族関係は親と子、あるいは若者と高齢者という世代間の差異、男女間の差異によって区切られつつ、同じ家族という点では結びついている。
神話の語りの冒頭で、登場人物たちのインセストによって短絡される「家族関係」もまた、ひとつの分離されつつ結びついた項たちの関係である。
こういう、もともとある分離し結合する関係が、分かれつつつながる関係が、主人公によるインセストタブーの侵犯や家族メンバー間の暴力によって破壊されることで、未分離性をあらわにする。
* * *
そしてこの未分離状態を暴力的に破壊するところから、別の第二の、分離と結合の関係が発生してくる。このとき、もとの壊れた家族のメンバーたちは、この第二の分離と結合の関係を織りなす項たちに対して、両義的で中間的で媒介的な関係に立つようになる。
続きを見てみよう。
分離をショートした未分離状態を、改めて分離する
なかなかヒドイ話になるが、これは一度分離を短絡して作り出した未分離状態を、改めて分離するくだりである。媒介項とその両極の対立関係を拾って行く上で、この上ない好例といえるだろう。
まず、屁によって象徴される毒は、これは実は、水中での魚の漁に利用される食料獲得の手段でもある。
これに対して矢は、陸上での狩猟に利用される食料獲得の手段であろう。
水中用の狩の道具の乱用に対抗するため、陸上用の狩の道具を乱用する、という対立関係があるように見える。
毒 / 矢
||
水中の漁 / 陸上の狩
||
水 / 陸
||
死 / 生
そして水中というのは、この部族の人々にとっては死者の骨を沈める埋葬の場所であり、死者たちの世界である。
毒と矢が鋭く対立するということは、つまり生と死が対立するということ、つまり生と死が対立するほどに分離している、ということ告げている。
*
この毒/矢の分離、生/死の分離の結果として、放屁の犯人である祖母=主人公と未分離の媒介状態に入っていた祖母はやられてしまう。それも”毒の出口”から”毒と対立するものが入って”しまうことでやられる。
出口が入口になるという短絡が生じている。この祖母はあくまでも対立する二極が短絡しているという未分離を示し続ける。
そしてこの祖母の遺骸はまた、正式な葬法に従って水中に葬られることなく、生きていたときと同じ場所に密かに埋められる。ここでも生と死は未分離のままにされる。やはりこの祖母においては対立する二極が短絡しているという未分離を示し続けるが、ここに不思議な”四”(四匹のアルマジロ)が登場することに注意しておきたい。
* *
続々と二項対立を並べては、新たな分離のはじまりを強調する
ここで場面が変わる。登場人物たちも、がらりと切り替わる。
ここで先ほどと同じく”毒と矢”の対立、”水中の漁と陸上の狩”の対立が反復されているが、先ほどは、祖母が若者を殺そうとして用いた毒と、若者が祖母を殺すために用いた矢とが、原初の家族関係の分離と結合の関係を未分離状態に放り込むために使われていたのに対して、こんどこちらでは部族の人たちは漁という日常的な人間の世界内の通常の用事のために毒を使っている。
濫用 / 正しい使い方
話の順序からして、ここは分離が進行し始めるところのはずである。
人間の生きる世界とそうでない世界との分離が生じはじめるはずであり、この分離のために、分離した二極を分かれたまま結びつける媒介者が登場してくるはずのところである。
第一の媒介のポイントは、例の祖母の孫娘が自分の子供を漁に連れて行き、つまり”家族の家”から連れ出し、そして一人で木の上に置いておく、というところである。置かれた子供はアリ塚に変身してしまうのであるが、ここで親と子の間には、もう二度と再会できないほどの強烈な分離作用が働く。
家族の家の内 / 家族の家の外
親 / 子
生 / 死(アリ塚への埋葬)
若者と祖母によって引き起こされた”家族の家の中”の未-分離状態から、改めて分離を引き起こす必要があり、この分離のくだりを神話に挿入するために、この子供の家からの引き離しと、アリ塚への変身という、家からの分離、親子の分離、生死の分離の話がくる。
* *
分離しつつ 回路を保つ 媒介者
未分離状態を、改めて分離すること。
ここで分離される一連の事柄のワンセットとして、生と死の分離もある。ここで生と死の分離を引き起こすのが、この神話では「病気」という分離的媒介者なのである。
病気はどのように登場してくるのだろうか。
毒によって漁られた魚たちを貪る。ここにもひとつの濫用がある。
さきほどの祖母と若者が食べ物を獲得する手段を濫用したのに対して、今度は、食べ物そのものが濫用される。そしてさらに、孫娘自身が、”毒=病”という媒介者に変身し、村人たちに死を与えることになる。
ここの生と死の分離が完成する。
彼女の兄弟である母の小屋に閉じ籠る息子は、
男性ー小屋に閉じ籠るー毒をもられるー痩せる
という系列の中にいる。
この息子は分離したところに未分離を持ち込む、いわば分離短絡型の媒介者であった。
これに対し、その妹の方は、
女性ー小屋外に出るー毒を撒き散らすー食べすぎ
とい系列の中にいる。この娘は、未分離を分離する、分離分割型の媒介者である。
若者の方が過度な未分離状態を引き起こしたのに対して、彼の妹は分離状態を引き起こす媒介者となる。
分離を未分離へともたらす媒介者と、未分離を分離へともたらす媒介者。
分離を未分離へともたらす媒介者 / 未分離を分離へともたらす媒介者
この短い神話に、これだけのクリアな対立がおもしろいように盛り込まれているのである。
*
これについて、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
水への埋葬を拒否すること / 水を乱用すること
|| ||
過剰な分離 / 適度な分離(と結合)
||
大地 << >> 水
生 << >> 死
若者とその妹は、どちらも媒介者である。
両者のペアは、媒介者同士のペアである。
媒介項もまた、孤立しているわけでも単独で自立して存在しているわけでもない。媒介項もまた、他の媒介項たちと二項対立関係の対立関係を組まないことには存在できない。
そうして媒介項同士の二項関係のうち、もっとも基本的な関係は、分離し引き離す方向で媒介することと、結びつける方向で媒介することとの対立であろう。
分離不可得と未分離不可得との対立、といってもよいかもしれない。
+ +
いま、病気という媒介者は、生から死への通路を開いている。
病気という媒介者は、生と死を分離するが、しかし遥か遠くに遠ざけてしまうわけではない。両者の間に、区別を引きつづ、一方から他方へ移動できるように通路を開いておくのである。
ここで最初の病者となった孫娘自身は、結びつける役割を果たす側で中間的で媒介的な存在である。
+ + + +
媒介者たちを表層の意味分節の四項関係から排除する
そして神話では最後に、この媒介者が生きた人間の表の世界から排除されることにより、生きた人間たちの領域とそうでない領域との付かず離れずの分離と結合が完成する。
生きた人間たちの領域 / 死者たちの領域
媒介者となった病気の孫娘は、自身の二人の兄弟によって頭と脚を切断され=切り分けられ=分離される。
頭と脚、つまり両極を二極をはっきりと切り分けられる。
そうして切り分けられた両極が、それぞれ対立する方角、西と東にある水の中に葬られる。
この水中への埋葬は、生者と死者が分離されていること、生者の世界と死者の世界が分かれていること、文化が自然から分離していること、そして人間にとって意味ある世界が、西と東のような、はっきりとした空間的分節として固まっていることをも告げている。
頭 / 脚
東 / 西
文化 / 自然
生者の世界 / 死者の世界
神話は、「文化」と「自然」、「生者」と「死者」のように、現に生きている人間たちにとっての意味ある世界がどこから始まったのか、その起源を問おうという思考でもある。
自然に対する文化の起源を語るために、まず今日の人間の世界とは似ているようで大きくずれた太古の人々の世界から話が始まる。
上の神話で言えば、母親の小屋に閉じ籠る主人公やその主人公にオナラをかけるお婆さんたちが織りなす世界である。
この前-人間界で互いに区別され対立させられるべき関係にある事柄たちがショートし、未分離状態が生じる。
この未分離状態がきっかけになって、そこに改めて分離を引き起こすような破壊的な力が爆発する。
その破壊的な力が作用した弾みで、現に生きている人間たちの世界がそうでない領域から区切り出される。
+ +
ここで”分離と未分離を区別=分離すること”が、神話の論理を動かすための最も基本的な分節ということになりそうである。
分離 / 未分離
絶対未分節 / 分節(化)
そしてこの分離と未分離の区別は、分離しながら未分離へと短絡しようとすることと、未分離からあえて分離しようとすること、この二つの対立関係から、生じてくるのである。
分離(a) / 未分離(b)
/ /
分離しながら未分離へと短絡しようとすること(i)
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未分離ながらあえて分離しようとすること(j)
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