意味分節理論とは(1) -深層意味論の奥深さ
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井筒俊彦氏の『意味の深みへ』に「意味分節理論と空海」という論考が収められている。全集の第八巻と岩波文庫版で読むことができる。
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空海という方は、たいへんに偉大な人で、その偉大さはまさに「遍照」、至るところに多様に顕れるのだけれども、私のような一凡夫が個人的に特に驚異的だと思うところは、その「言語」についての思考である。
もちろん言語といっても通常の言語ではない。私たち人間が意識できる意味のある世界の発生プロセスの総体を、”言語”として読み、そして人間にも分かる言語に翻訳する。例えば、「声字実相義」や「吽字義」ではそうした思考が展開されている。
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私にとって、この「空海×言語」への扉を開いてくれたのが、井筒俊彦氏の「意味分節理論と空海」である。この論考で井筒氏は意味分節理論の観点から空海を”創造的に”読むことを試みている。
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意味分節理論のおもしろいところは、言葉の"意味"を織りなす分節構造を、即ちそれぞれの言葉で呼ばれる事柄の間を区別する無数の境界線を、もうそれ以上、決して動いたり変化したりすることのない既成の完成品と考えるのではなく、分ける動き、線を引く動き、どこへ向かうのか事前にプログラムされてはいない未決定で未完の動きとして考えるところにある。
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井筒氏は「意味分節理論と空海」で次のように書かれている。
意味に既成のものはなく、時事刻々「あたらしい世界」が「開ける」とある。
ここでまず「意味」と言うのは仮に、レヴィ=ストロース氏の定義に従って、ある言葉を別の言葉に置き換えること・言い換えることだと考えておこう。
次に既成のものというのは出来合いのもの、完成品、つまりそれを作り出す動きはもう完了し終わった後の何かである。止まっていること、これが既成であるということの重要な意味である。
これに対して時事刻々、新しく開けるというのは動いている出来事である。
意味が既成のものではなく時事刻々開けるものだと言うことは、ある言葉の意味、つまりある言葉の言い換え先となる言葉が、次から次へと入れ替わり立ち替わり交代するということである。
ここで事によっては「清浄」と「汚穢」のような互いに対立する関係にある二つの言葉が、同時にあるひとつの項の置き換え先に収まったりする事態もある。
言葉Aの意味は汚穢でありかつ正常である、などという具合にである。
意味するとは、分節するとは
意味するとは、言葉Aと言葉Bを互いに区別しながら同じと置くことであり、言葉Aと言葉Bを異なりながらも互いに言い換えられるものと置くことであり、言葉Aに言葉Bを分けつつつける=憑依させることである。
○ =/= ○
この区別しながら同じと置くこと、異なりながらも互いに入れ替えられるものと置くこと、分けつつつけることが「分節(意味分節)する」ということである。
同じにするとかしないとか言うためには、その前に二つに分かれている必要がある。互いに異なるものとして二つに分かれているからこそ、それが同じだとか異なるとか、言うことができるようになる。
AはBを意味する。AがBを意味する。Aの意味はBである。
などと言うと、AとBとを同じと置く動きが前面に際立つ。
なるほど、意味するとは異なるものを同じと置くことだ!と。
人生は旅のようなものだ。
例えばこのようにして「人生」という謎めいたことを「旅」に置き換える。人生と旅を同じと置く。そうするとなにやら「人生」の意味が少しわかったような気がしてくる。
これが意味するということである。
ところで、ここで意味分節理論がおもしろいのは、「人生」でも「旅」でも、「A」でも「B」でも、なにかそれらそれぞれのものが、それ自体としてあらかじめ転がっているとは考えない点にある。
あらかじめ「人生」なるものそれ自体と「旅」なるものそれ自体とが、それぞれ転がっていて、その二つの転がっているものを拾ってくっつけた、というお話しでは、意味するということの正体を浮かび上がらせることはできない。
「人生」や「旅」が「人生」や「旅」であるのは、それが「人生」と非-人生、「旅」と非-旅とが、区別される=切り分けられる=区切られる=分節される限りにおいてである。
「人生」は非-人生と区別される限りで「人生」である。
「旅」も非-旅と区別される限りで「旅」である。
意味するという場合、区別するという動きが「同じと置く」動きの手前で、というか同時に動いている。
意味分節理論は、意味するということを、区別する動きと同じと置く動き、分離する動きと接合する動き、引き離す動きと結びつける動きとい、二つの逆方向に相反する動きが二でありならが一、一でありながら二になることとしてモデル化する。
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井筒氏の分節理論の重要なところは、静的な分節と、動的な分節を、区別することである。
静的な分節を仮に「分節体系」と呼び、動的な分節を仮に「分節化」と呼んでおこう(あくまでも仮である。無理に呼ばなくてもいい)。
意味分節理論は分節を静の相だけでなく、動の相でも捉えようとする。
浮遊状態、一瞬一瞬姿形を変える。
留め金を抜かれる。アミーバー、伸び縮み、境界線の大きさと形を変える。
続々と言い換えながら井筒氏は、完成に対する未完、静に対する動を強調していく。
なぜこれほど繰り返し比喩を用いて諭す必要があるのかといえば、私たちは日常素朴には、言葉の意味というものを「止まったもの」「決まったもの」だと思って生きているからである。常識を装うドクサをひっくり返すには、比喩から始めざるを得ない。
静と動も、区別されつつ一つである
分節という言葉が連想させるイメージには、静的なものと動的なものがある。
分節は一方でかっちりと固まった境界線の織りなす安定した構造としてもイメージされるし、他方では今まさに切り分けようとする動きとしてイメージされることもある。
分節には静と動、二つの意味がある。
物事を区別する分節のシステムは、常に未完で動き続けているのだけれども、その動きは激しく活発であることもあれば、不活性な「惰性的に固定されて動きの取れない」状態にあることもある。
このどちらもが分節という一つのことの二つの顔なのである。
分節は動いていると同時に止まっており、止まっていると同時に動いている。
動いていることが分節の正体で、止まっていることが仮の姿、ということでもない。動いているのもの止まっているのも、どちらも分節の正体である。正体は常に二つなのである。
表層に対する深層、深層に対する表層
ここで深層と表層の区別・対立という比喩が重要になる。
深層と表層は一体あるいは双面的である。深層があるから表層があり、表層があるから深層がある。深層は表層に対して深層であり、表層は深層に対して表層である。深層がなくなって表層だけが転がっているとか、表層がなくなって深層だけが転がっているようなことは、ない。
分節が静止した安定構造という姿を見せているのが表層で、分節が自在に新たな境界線を引いたり消したりしているのが深層である。
私たちは日常、ある常識の中で生きている限り、どちらかといえば深層よりも表層を頼りにしている。
日常的に分節といえば組織の中の上下関係とか、値段が安いか高いかとか、そういう固まった切り分け方のことだと思われるし、意味には正しいものと間違ったものが区別できるべきだと思われている。
ここで「意味」である。
言語的な意味というのは、分節を多重にすることで発生する。
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例えば、なんでも構わないのだけれど、仮に第一の分節として「私」と「他の誰か」を分節し、第二の分節として「年収が低い」と「年収が高い」を分節してみよう。
なんのことはない、たまたまそういう広告をネットで見たのであるが、私たちはこういう「意味づけ」に日々苛まれたり呼吸をフリーズさせられたりしているのだから、結構重要な例だと思う。
この第一と第二の分節を重ね合わせる。
私 / 他の誰か
: :
年収が低い / 年収が高い
こうすることで「私」について、「年収が(他の誰かよりも)低い私」という意味が発生するのである(逆でもいい)。
同じように、貯金が少ない/多いとか、体重が多い/少ない、とか、通勤時間が長い/短いとか、さまざまな分節を「私」と私ではない「他の誰か」の分節に重ねていくことで、「私」についての意味づけが続々と発生していく。
そしてここに「価値が低い」/「価値が高い」という分節が重なる時、私たちは「私」の存在は小さく、おぼつかない、弱いものとして意味づけられ、区切り出され、分節され、そして強弱の二項対立関係の片一方の項として、大きな強者と対峙させられる。そのことに意味的に戦慄せざるを得ないことになる。
あるいは「私」と「他の誰か」の間にあまり差がないと思っている人、「私」の方が「他の誰か」よりも総じて高い能力を持っているはずだと思っている人は、私が年収の低い側に分けられているのは何かの間違いだ、私は間違ったラベルを貼り付けられてしまっている、正しい分別がつく会社に転職しよう、となるわけである。
いずれにしても「私」たちは「私」を強制的にどちらか一方へと反復的に分類しようとする言葉と言葉の分節に、絶えず追い立てられ、脅かされ、苛まれ、あるいは奮い立たされもする。
寝ても覚めても、私たちは「意味」に囚われ、苛まれる。自分の存在をどう意味付けるか、どう言語化するかは、生きた人間にとって(そして死者にとっても)大問題なのである。
<<深層意味論>>
ここでこういう意味の呪縛を振り解くには、第一の分節と第二の分節を重ねる向きを逆にできるかどうかが重要になる。あるいはまたそもそも第一と第二、それぞれが分節する二項たちの存在の自性を空にする、といったことも重要な鍵になる。
第一の分節と第二の分節と、その重ねる向きを固定して動かないようにしたものが表層の意味である。それに対して、分節を発生の相に送り返し、重ね合わせの向きがクルクルとひっくりかえり続けるままにしておくのが深層の意味である。
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ここで、特定の意味分節、言葉と言葉の重ね合わせに拘ることを「妄念」への執着であり「我執」である、として退け、すべては「空」であると観じることで息の詰まる人生を少しでも風通しの良いものにしようというのが大乗仏教の教えということになるのだろう。
大乗仏教のおもしろいところは一切が「空」であるとする点にある。
私たち人間の意識が、あるとかないとか、増えたとか減ったとか思って拘っていることのすべては、人間という一生物種の「心」が作り出した虚妄であって、正しく覚ればそれらはすべて「空」である。
ただし、ここで気をつけるべきことがある。
空は有に対する空(非-有)ではない
空を、”有に対立する空”だと考えてはならないのである。
空有の二項対立を前提として有とは異なる・有とは別のものとして「空」を考えてはいけないという考えが空海さんの教えの核心にある。
一切が空ということは、有もまた空なのである。
ややこしいことになってきた、と思われるかもしれないが、ここが大事である。
空と有の区別もまた、あくまでもそのように区別するということであり、つまり分節である。
ところで、大乗仏教が「空」という言葉でもって呼ぶ事柄は、有と空を分けたところに、この対立するペアの片方として区切り出される項としての空(非-有)のことではない。
「空」という言葉で記述されようとしているのは、分節”しない”ー区別”しない、ということである。
区別しない、区別がない。
…と、ここで注意しよう。この「区別しない」は「区別する」に対する「区別しない」ではない。
する/しない、の区別もない。
ある/ない、の区別もない。
有と無も区別しない。有と無の区別もない。
”無分節”。分節と無分節の分節もない、仮に言い換えれば「絶対無分節」。
それにしても絶対無分節ようなことを言葉で呼び表そうと言うのは、非常に無理のあることである。あらゆる単語は、あらゆる形態素は、すでに「区切られた」あとの項、分節作用の結果である。そういう分節されたあとの項たちを並べていくことで、意味するという作用を引き起こすのが言葉である。
そういうわけで、言葉で言ったり書いたりしてしまう限り、その営みは「区別以前の絶対無分節」のようなことを呼ぶのだとしても、あくまでも分節済みの項たちの配列コードの内部に閉じ込められてしまうのである。
ここで、あらかじめ分節されたものごとの「内」にありながら、内と外の境界を区別できないようにしてしまう特別な言葉づかいが必要になる。
例えば、般若心経のこちらの箇所などは、まさにそういう言葉づかいである。
色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
ここでは色と空が区別され、対立し、別々に異なる事柄としてあらかじめ与えられる。
そこで、色は空と「不異」、異ならず、とある。
色は空は異ならず。
色は空と「同じだ」とは言わないところが重要である。同じで、区別がない、区別できない、区別しません、とは言わず、あくまでも「異ならず」である。異ならずと言えるのは、まず異なるということがあるからこそ、それを否定できる。
異なっているが、異ならず。非同非異である。
おなじ / 異なる
区別がない / 区別がある
区別できない / 区別できる
色 / 空
こういうのはことごとく二項対立である。
言葉を用いる以上、”項”を持ち出さざるを得ない。そしてあらゆる項は、他の項と、最小で二項対立関係をなしている。この二項対立関係をそのまま成立させつつ成立させないために、非同非異のような、対立する二項を二つのまま一つに、かつ一つでありながら二つにする特別な言い換え=置き換えを行う。
「不異」は、対立する両極を対立させたまま一つにする特別な言い換え=置き換えのための言葉であるが、この「不異」を、すかさず「即」に言い換える。「不異」でも「即」でも、いずれかの言葉、いずれかの項、いずれかの項と項の対立関係で止まってしまうことがないように、言い換えをとどまることなく循環させていく。
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このことを弘法大師空海は、分別を離れ、無分別も離れる、と書く。
素朴に「空」というと「有ではない」ということ、空有の対立の片方ということになるが、今問われている「虚空」としての「空」は、分別、対立、区別を離れている。分別と無分別の分別すら、対立と非対立の対立すら、区別と非区別の区別すら、離れている。
ちなみに、仏教がなぜこのような空有の区別以前の”空”を重んじるかと言えば、区別することこそが人の迷いや苦しみの始まりにあるのだと考えるためである。
絶対無分節は、有に対する無ではない。充満に対するカラッポでもない。この虚空、虚空蔵求聞持法の虚空蔵菩薩の虚空は、私たち人間の五官と意識(六識)でも「分かる」ように分節言語の手を借りて書くならば、「カラッポでありながら充満し、カラッポでもなく充満しているでもない」と仮に言えそうな事柄である。
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空海の『吽字義』には次のようにある。
ここに書かれた「法界」は、互いに区別されるあらゆるモノゴトすべての「本体」である。
互いに区別されながら付かず離れずに結び合うすべての物事の本体は、同じひとつの「法界」である。
厳密に言えば「同じ」とか「ひとつ」という言葉も使わない方が良い。同じと言ってしまった途端にそれは差異=違うことと区別される同じであることになるし、ひとつと言ってしまった途端にそれは多に対する一ということになるが、他に言いようがないからよしとする。
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区別があることとないことが区別されないのが「法界」である。
このことを空海さんは因と果、因果の区別に託して書かれている。
即ち、法界が「原因」で、すべてものもの森羅万象がその「結果」なのではない。
法界ということを、原因と結果という区別分節の中の片方の項に押し込めることはできない。原因と結果を区別する分節自体が、法界そのものの顕れである。
法界は、区別が未分の無分節でありながら、かつ互いに区別される森羅万象でもある。区別がないのでもなくあるのもなく、区別はありながらなく、区別ないのだけれども区別ある、という双面的な事態を考えなければならない。
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しかしこれを言葉で考えるのはなかなか難しい。
私たちの言葉は日常的に明晰であればあるほど、原因と結果のようなことがはっきりと分かれていることを前提にして、その上でロジカルに議論を運ぶようにできている。
しかしそういう言葉で持って、あえて因と果が"分かれていないが分かれていなくもない"と言ってみるのである。
「心」の分節理論、森羅万象の分節理論
ここで言語的意味分節理論は、単に「言語」の領域に限定された話ではなくなる。人間の心に捉えられる限りでの"森羅万象"は、これすべて人間の五官と意識-無意識が(五織と第六の識たる意識、第七の識たる末那識、第八の識たる阿頼耶識が)あるとかないとか、存在するとかしないとかを多重に分節しては、心に顕現させたものなのである。
「人間」であれ「宇宙」であれ「時間」であれ、人間の意識にとって存在すると思われる「天地万物」全てのものは、分節理論が記述するような分節する動きそれ自体であり、分節する動きの動的側面と静的側面が表裏一枚になったもの、ということになる。
ここで意味分節理論は、言語という所与のものについての一理論という境位を離れて、人間の心にとって存在する天地万物森羅万象の発生理論に化けるのである。
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安藤礼二氏は2021年現在、雑誌『群像』で連載中の「空海」に次のように書かれている。
ここで多様な「識」というのは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識と、意識(第六識)、末那識(第七識)、阿頼耶識(第八識)のことであるが、この「識」はすべて互いに他とは異なりつつ絡まりあった分節システムなのである。
そして人間に固有の分節システムの重なり方を発生させる、一番底にある分節システムが「アーラヤ識」ということになる。
このアーラヤ識もまた分節システムである以上、動的にして静的、静と動の双面性をもつのだけれども、ここから派生する次元を落とした他の分節システムに比べると、その動性が際立つ。
アーラヤ識の網目構造は、物質的なものとしてはどこにあるものとして記述できるだろうか。それは、個人の個体の脳の中に閉じ込められているものではない。
阿頼耶識は超個的である。物資の検出可能、観察可能な差分のある所、何でもこの網目構造の媒体になる。インクのシミの濃淡でも、電圧の高低でも、発光素子の出力の強弱でも、空気の振動のムラでも、神経パルスでも、なんでもいい。
ここで差分だけでは網目構造を成すには足りない。
差分が反復的に繰り返し”(あるシステムによって)観察”されるようでなければならない。
さらに、反復的に観察される物資のムラのあるパターンが、別の同じく反復的に観察される物資のムラのパターンと、異なるが同じ、区別できるが区別しない、となる必要がある。
この物資のパターンのムラ間の区別的非区別は、超絶技巧で多重に重なっていく。「不異」や「即」の論理で、互いに区別される項たちがもつれていく。これの物資のパターンのムラたちのもつれからマンダラ状の構造が発生する。
それは特定の媒体も、特定の生命個体もはるかに超えて、広大無辺な時間と空間にわたって広がっている。そして生命も物質も、時間も空間さえも、この構造の表現のひとつに他ならない。
(グレゴリー・ベイトソンの情報概念などはここに迫っている)
このアーラヤ識の差異を生み出し続ける動き、動性ゆえに、森羅万象はそれ自体の即自的な本質によって固定された不動の何かでなく、あくまでも「空」である、ということになる。
ここで空は、空っぽの静まりかえった何かであるとイメージすることもできると同時に、喧騒が充満する何かとしてもイメージされなければならない。
ダイナミックな「空」においては、一にあらず多にあらず、「すべて」が「同時に肯定」されるのである。こうなると日常の常識的な表層の言語の安定した構造を示す分節体系に基づく意味の論理は成り立たなくなる。
そこでなお言語を線形に繋ぎ続蹴ようとすれば「レンマ」の論理のようなものが必要になる。
ここで互いに区別される森羅万象を「不生不滅」であると同時に「生滅」させるのが先ほどのアーラヤ識である。アーラヤ識こそが「不生不滅と生滅を「一」でもなく「異」でもないというかたちで和合させる」のである(安藤礼二 「空海」, 群像2021.10. 256)。
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空においては何かと何かの二項が区切られつつ、極端に接近したり、彼方に分離したり、つかず離れずの適度な関係になったり、また離れたり近づきすぎたりと、とにかく定まらないのである。この定まらないダイナミックな運動の中には、確かに、いつでもどこでも安定的に他と区別できるような「もの」は存在しない。
二元論のどちらか片方として分節化されるあらゆる存在、森羅万象は、それ自体として端的にあるとはいえない。それらはあくまでも人間という生物種の「心」において、そのように分節した、ということに他ならない。そうであるから「ア」字は「本来生ぜず」なのである。
すべては一にあらず、多にあらず、互いに区別新ながら一つにつながっている。
小括
言葉の意味というのは、分節を多重に重ねることで発生する。
人間の「心」もまたそのような多重の分節システム、分けつつつなぐ動きの渦のようなものから発生したのではあるけれども、日常その表層においては「惰性的に固定」した、動きを止めた事物たちを貼り付けられて、身動きが取れなくなっている。
主観と客観、自然と人間、野生と文明
物質と精神、私と他者、あるとない。
このような根源的だと思われる(宇宙のはじめから分かれていたかのように信じられている)二元論、二項対立関係さえ、これを区切りつつつなぐ=分節することによって、都度都度新たに区切り出されて生まれ続けているのである。
その分節は無数に連鎖し、ある一つの分節が、他の分節の静と動のバランスに影響を与え合っている。いくつもの分節する動き同士が互いに区別されつつ繋がっている「薫習」の関係にある。
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ここからいかにして、他なるものへの欲望と我執という形で分節体系に縛り上げられ苛まれ続けたまま死んでしまうののではなく、分節しながら分節しないという自在な「虚空」を生きることができるようになるのか??
そのあたりは空海さんが『秘蔵宝鑰』にも書かれている十住心論に説いているのだけれども、それはまた別の機会に。
>本記事の続きにあたる話を下記に載せています。よろしければどうぞ。
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