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言葉/ことば/コトバ/コト-”の”-ハ

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何度も読み返したいなと思った記事を、こちらに集めさせていただいております
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#哲学

読書するということ。

本というものをあまり読まない子供だった。 文字というものが少し苦手だったのだと思う。 文…

way_finding
1か月前
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〈愛の本〉、及び、〈ドア〉について、あるいは、榎本俊二、森泉岳土、デイヴィッド・…

2025/02/10/21:07 深く潜行する、あるいは、軽やかに、宙を飛行する。本を携えて。いつも、…

小学二年生の国語教科書を、深層意味論で読む

(本記事は無料で最後まで立ち読みできます) 小学二年生になる上の子の国語の教科書をながめ…

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way_finding
1年前
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文学者にとってのスピノザ 「閃光」としての哲学

 スピノザほど文学者に愛されている哲学者はいない。と、思えるくらいに、スピノザは世界中の…

Gutti グッチ
2か月前
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絶対無からの自己限定の中間領域を刻んでみる 木村敏の分裂病論とASDについてなど

木村敏『分裂病の現象学』を読み返していたら、恒例の西田絶対無円錐と同様の図によって分裂病…

ひづみ
2か月前
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「絶-対無」においてあって照らされる わたしの先端について ーレヴィナス・西田ー

井筒俊彦『神秘哲学』の序文冒頭である。 「ただ独りなる神の前に、人間がただ独り」絶対的な…

ひづみ
3か月前
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何のことはないここがそもそも「存在の彼方」であったと応えることが今ならできそう

『全体性と無限』を思い出しては読み直している。これがすごくおもしろいので、思ったことをあまり深く考えずに述べていきたいと思います。井筒先生もそうなんだけど、レヴィナスも、ほとんどそういう嗜癖物なんじゃないかなあ。 「結ぼれであるとともに解け」「存在の手前ないし彼方」といった、両義的表現に不断に注目したい。こうした「どちらでもなく、どちらでもある」ことは極めて重要であるし、そこを軸に読み進めていくと非常におもしろい。『全体性と無限』という表題すら、同じことを言っていると思う。

自己限定を淡く支える真空浮力は 「私」の「宇宙」を更新して 「私」は「私」であっ…

前回に引き続き(正直ずっとこれしかしていないのですが)、「絶対無の自己限定」周辺について考…

ひづみ
4か月前
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不動産機械は登記しゆく~『地面師たち』の狩猟シーンに添えて

Netflixで配信中の掲題作の中に、いずれも強い印象を残す3つの狩猟シーンがある。第1話冒頭の…

千葉雅也『センスの哲学』//、アポリアからのエクソダス、//孤独なる魂の痕跡として、…

2024/10/02/19:02:    .  /.    //.                               …

W・パウリ「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」における四数性と、思考の…

深層心理学で知られるカール・グスタフ・ユングと、「パウリの排他律」で知られる物理学者ヴォ…

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way_finding
5か月前
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いつまでも自己限定しきれない我々の「共通の根拠」を認めてみたいー木村敏の自己論を…

我々は普通、「私」が他でもない「私」であること、つまり、1=1は1=1でしかないことを疑いよう…

ひづみ
4か月前
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Q.「いかにして器官なき身体を獲得するか」A.「いかにしてもよい(曼荼羅を眺めながら…

ドゥルーズ・ガタリ『千のプラトー』の重要主題「いかにして器官なき身体を獲得するか」。この…

ひづみ
5か月前
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アルス・エクリチュール  流れの中で ソレからのエクソダス等

■ドゥルーズ後、アート ・デュシャン後のアートは、アートがアートそれ自体に言及する目的を有するようになったと言える(少なくとも純朴な美はこの時点で道具のひとつになった) ・そして、ドゥルーズ後のアートは、もはや、素朴にアートがアートを行為することさえゆるさないのではないだろうか ・ドゥルーズ後に問われるのは、アートそれそのものを道具にしながら、なんらかの、人間の〈在り方〉を示すものでなければならないのだろう ・次の、または、新しい、もしくは、特異な、人間の在り方につい