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自己限定を淡く支える真空浮力は 「私」の「宇宙」を更新して 「私」は「私」であってなく


前回に引き続き(正直ずっとこれしかしていないのですが)、「絶対無の自己限定」周辺について考えてみたい。
また、先日医学書院の「シリーズケアをひらく」から刊行された村澤和多里・村澤真保呂による『異界の歩き方ーーガタリ・中井久夫・当事者研究』という本を読んだので、それについても少し言及したいと思います。

自己限定は、私を他でもない「私」たらしめると同時に、自己限定の上に成り立っている実存への気づきによって「私ならざるもの」へと飛躍しうる接触面に瞬間生じる。その点で自己限定は「私」の契機であって、同時に「私」を徹底的に否定する裂け目でもある。
これはもちろん西田幾多郎による概念であるが、理念的に実体視されるようなものではない。自己限定は、各々によって生きられるべき唯一無二でプライベートな出来事でありつつ、普遍的に遍在する摂理でもある。自己限定によって析出された束の間の連続性は「私」であるとともに、私からしたら「他者」にあたる他のあらゆる「私」でもあり、その意味で「私」は唯一無二で凡庸、誰でもあって誰でもない存在である。

また、「自己限定」は「限定されている」・「限定されていない」のいずれか一極の状態で言い表されるような、スイッチをオンオフで切り替える明らかさで様態変化するものではない。
むしろそれは、曖昧さを包含したグラデーションスペクトラムとして表現されるのがふさわしい。その意味で「絶対無(分節)の自己限定」は程度問題として考えることができるのではないか。自己限定しすぎても疲れるし、しなさすぎても殺伐とした衆生を渡り歩いていくことができない。自己限定にもいい塩梅というものがあり、かつ自己限定の往還をうまく使いこなすことが肝要であろう。

さらに、自己限定の水準も一つではない。
身体的なレベル、社会的なレベル、言語的なレベル、自己意識のレベルなど当座の「私」を履行するために必要な各側面において、逐一限定されることによって私は「私」でありうるし、それによって「私」以外の展開余地を一時的に潰される。
あれでもなく、これでもなく、それでもない「私」がその都度ごとに絞り出されるのである。
ところが実際、自己限定の強弱がグラデーション的に捉えられるとしても、大抵は白か黒かの二極モデルに還元されてしまう。違和感なく自明に「私」と名乗ることができている場合はそれでもよい。しかし、私が私であることの自明性が当たり前に担保されなくなる時、自己限定の可/否の間に折り畳まれたグラデーション、じゃばらを看過することはできないし、直面せざるを得なくなるのではないか。

要するに、自己同一性の安定した構造とスムーズな自己限定は対応づいていて、「自己限定の甘さ」はそのまま「自己同一性の弱さ」になる。
自己限定がうまくできないと、「あれでもあり、これでもあり、それでもある」ことになってしまう。こうした状態を体現する例として、かつては統合失調症が問題にされていたが、とりあえず一様に従っておけばなんとかなる特権的な正しさが前提されない現代においては「発達障害」がこの点に関わってくるのではないかと思う。さらには、健常人が一時的に自己限定がズレる例としては「離人感」がそれにあたるかもしれない。安永先生も同様のイメージで説明されているが、ハイヒールを履いて自己矛盾なく闊歩していたところが(私=私の自己限定完了体)、急にヒールが取れることで自己限定蝶番(仮留め)が外れ、「ガクッと」コケる感じである。


さて、この「自己限定できなさ」、すなわち絶対無でキョロキョロウロウロ、所在なく漂っているような状態は「なんでもない」と同時に「なんでもある」状態といえる。いずれも同じことなので、どちらで捉えるかは好みの問題である。しかし、後者の方がずっと心穏やかにあることができると思う。
前者が苦しいのはなぜかというと、「なんでもない」は同時に「どれかを選べ」というメタメッセージを暗に主体に強いていて、さらには「(選ばないといけないのに)選べていない事実」の連想や、「選べている」理想と乖離があるネガティブな自己像が伴うからだろう。一方で、「なんでもある」ではそもそも選ぶ / 選ばないの二項対立を超越している。つまり、すでにこれ以上ないほど満ち足りている(そのせいで、個々の差異が見えなくなっているだけ)から、どれか一つを選んだり、個を立てるために躍起になる必要がない。真っ白いキャンバスを何も描かれていない (「何か描かなければならない、でも何を(焦)!」)地と捉える見方から、無が凝集した充溢する地と転換する。すると、「見た目はそのままで」堂々と何も描かなくて良くなる。これ以上、余計なはからいをせずとも空白にして十全、十分である。これに気づくと、胸のつまりがすっと取れて、ふかくやさしく息がしやすくなる。

『意識と本質』において井筒俊彦は、「真空妙有」「真空」側面に注目するか、「妙有」に力点をおくかの区別を指摘している。これは、私という現象を「真空妙有」とみた時、「なんでもない」から「なんでもある」へと認知をシフトすることによって、同じ現象が「真空」から「妙有」へと転回することと読むことができる。
認知行動療法は現実の解釈を操作することで「他の可能性」へと視野を広げていくことが基本にあるが、「自己限定できなさ」に対しても同様の視点の切り替えが可能であろう。私はかつて「真空」側面しか見えていなかったが (大半の場合そうなのだが) 、井筒先生を読んで「真空」が即座に「妙有」に転化するということ、無極而太極であることにこの上なく救われたのだった。

木村敏先生は「自己の個別化の障害」といった言い方をしているが、これは言い換えれば「自己限定の機能不全」ということでもある。
絶対無それ自体の絶対生強度を表層で生きざるを得ない例として、ドゥルーズ・ガタリ『アンチ・オイディプス』冒頭で引用される「分裂病者の散歩」の言葉はハッとさせるものがある。これを読むとわかるように、彼らの世界を一切の形態を持たず言語が脱落した無分節のおぞましい深淵、ドロドロとしたカオスと無下にすることはどうしてもできない。

「一切は機械をなしている。天空諸機械。天の星々や空の虹。・・・これらの機械は、レンツの身体のさまざまの機械と連結している。ここにあるのは機械のたえまなく唸る音。・・・あらゆる形態の生命と深くふれあうこと、石や金属や水や草木と交流する心をもつこと、またちょうど花々が月の満ち欠けに応じて大気を吸い込むのと同じように、夢の中にでもいるかのように自然の一切の要素を自分の中に迎えいれること」(ドゥルーズ・ガタリ『アンチ・オイディプス』, p.14)

自然の中の部品として、風や花、天体に、鉱物や大気に縦横無尽に接続される「葉緑素機械すなわち光合成機械」(p.14)として大地の中に身体を溶け込ませる。そこでは行為者としての人間、対象としての自然の対立が区別されることはなく、彼が歩みを進めるごとに、人間機械としての自然、自然機械としての人間が生産される密やかな過程が生きられている。ただそれだけである。
「木の葉を擦る風」「土が水を吸う音」「獣が枝を踏み砕く気配」すべてはただ「機械の唸り」に包含されて、唸りは微弱な振動となって歩行するリズムや空間の心拍と同調する。樹木に身体をシンクロさせて、ザアザアいう樹液の流れと血液の流れを協調させてみる。皮膚の薄さに葉脈が透けてみえるし、息を吸い込むと、肺胞の水分が凍ってピシピシ音を立てる感触すら、感ずる。「私と私でないもの、外なるものと内なるものとの区別は、もはやここでは何の意味ももたない」(p.14) のだから・・・。
世界に対してゆっくりと皮膚膜をひらいてゆくとき、物質は純な「存在の贈与」として原色光度で現前するだろう。そこで、まだなんでもない「兆し」が皮膚膜の浸潤に反応してゆるやかに目をとじ、そして目を覚ますたびに、束の間限定される「私」。うかつに自己限定できないことがむしろ、機械同士の自在な接続可能余地をひらくのである。


絶対伝わらないのを承知でいうけれども、西田の自己限定 (レヴィナスの「結ぼれであるとともに解け」でもいい) を想う時、いつも「水溶き片栗粉」のイメージがよぎる。厳密には、「水溶き片栗粉を揉む動き」。
というのも、幼児の頃など、片栗粉に適量の水を加え、揉み続けては固形と液体に状態変化する手触りをずっと楽しんでいた。自己限定の強弱とは、「ゆるく溶いた片栗粉を揉む遊び」のそれとよく似ている。

私とは、「水溶き片栗粉」のようなもので、絶えず揉み固められないと全身が溶け出して分子状に「ばらばら」になってしまう。外から圧力を加えることで、一瞬キュッとビニールが軋むような音を出してモル状の固形に「まとまる」のであるが、その形状は長く持たない。すぐに指と指の間から、ゆるい液体が漏れ溢れてしまう。
したがって、私は (その私とはおそらく「私」と「わたし」を高い位置で橋渡しする媒介者のような私なのであるが)ひっきりなしに絶え間なく、片栗粉を揉み続けなければならない。この片栗粉を揉み続ける努力が、通常では自然に可能な「自己限定」がままならないことに似ている。
西田が「なければならない」という怒涛の語尾を強迫的に繰り返すことにも、同様の実存を眉間の間の一点で繋ぎ止めるような、キリキリ殺気立つ感じを覚える(自分がバラバラになるのを必死で食い止めようとして、全身に写経する耳なし芳一とか、わかりやすい例では洗浄強迫のような感じ)。
そもそも、こうしてここにあるとされる私の身体はそれ自体で自立しているのだろうか。精神機能の面でも物理的な肉体としても、外界から触発されるその都度、その部分だけ、束の間「私」の領界がアクティベートされているのではないだろうか。
例えば、すごく美味しいもの(まずいものでもいいが)を口にしたとき。このときまず、「!?」という体験がまずある。それを外在化するために、手持ちの語彙リストから、「美味しい」を選んで、体験にあてがってみる。「!?」が「美味しい」に紐づけられることで、その時「美味しい」がっている「私」が生起する条件が揃う。しかし、その「私」も「!?」体験を一つの分化した記憶として体系的に枠づけするために便宜的に置かれた程度なのではないか。そのままではバラバラになって、全く性質の異なる記憶情報と混ざってしまうのを食い止めるために、書類を束ねるホッチキスやクリップみたいな必要都合上の役割である。

基本的に私は透明なのだけれど、刺激に触発されるたびに、インクを垂らしたようにそこだけ色がつく。インクが円形に滲んでゆく範囲が「私」である。そのように考えると、急に名前を呼ばれたり、触られたりするとびっくりするのは、何も構えがない状態で、強制的に主体を起動させられるかもしれない。

私が好きなものは私を触発してくれるもので、私を触発してくれるものを私は好きであるけれど、それは、私を「私」させてくれるからでもあるからだろう。


「片栗粉揉み」では、「固める」ための行為が、同時に「溶けて溢れ出る」ことも等しく体現している。この構造は「呼吸」「瞬き」と同じである。「生きる」「死ぬ」でもいいと思う。西田が「死して生きなければならない」などとというのも、こういうことであろう。
息を吸うことと、吐くことは、分けて捉えられるものではない。吸うことは吐くことであり、吐くことは吸うことである。私が「私であること」「誰でもなく」「誰でもあること」は一続きの現象の中に含まれているのである
固まった形から、ゆるゆると液体に姿を溶かしてゆく片栗粉は、自己限定のグラデーションを遡行しているように見える。そこに、縛りを解かれる四肢の軽さや、救われる感じを覚えるのはなぜなのだろう。


さて、この辺りで、冒頭で述べた『異界の歩き方ーーガタリ・中井久夫・当事者研究』に話題を移そう。
本書では、ユニークな当事者研究で知られる「べてるの家」での実践と中井久夫先生の臨床知、そしてフェリックス・ガタリの思想を、我々の身近に控える「異界」への旅路をめぐるものとして接続し、そのような観点から次世代のケア論を考察している。
村澤らのいう「異界」とはなんだろうか。
それは、科学的認識的には非理性的、原始的であるとして近代世界から排除された世界である。認識機能では直接感じ取ることができない領域であるとともに、神や自然の声を聞き取り、憑依現象や超自然的、神秘的現象が息づく世界である。それはかつては「宗教的直感」として捉えられてきた、目で見て触れてわかる「存在」の背後に控える「実体」のリアリティであるともいわれる。村澤によれば、現代は「存在」が世界を占拠し「実体」の手応え、すなわち「異界」との接点が奪われているのだという。
しかし、合理性や客観性が覆う日常からは一見退いているが、「異界」は見えなくなっているだけで、すぐそばにある。そしてこうした「異界」との接続性を取り戻すことこそが、精神療法や芸術、哲学が行ってきたのと同様、ケアが担う役割でもあるという。

本書での「異界」という用語は、中井やガタリのいう「宇宙」と同様の概念として用いられている。この点について、本書で引用される中井久夫の言葉を見てみよう。

「「こころ」というのはその人を取り巻く(治療者も含む)無数の人や物と交流の中で息づいているものだと思うんです。・・・「ここ」にいる人のうちに何らかの「実在」というのかな、が目に見えないかたちで宿ったもの、局在化したものということができるかな。その人の住んでいる世界とか、むしろ宇宙と呼んだ方がいいいんだろうけど、そういうものがその人のうちに局在化したもの、と言うべきかもしれない。そのようなかたちでしか「こころ」は生命あるものとしては存在できないんじゃないかと思うんです」(p.247)


『フェリックス・ガタリの思想 生の内在生の思想』(伊藤, 2024)でも同様が指摘が見られるが、近年ガタリの「宇宙」と中井久夫の「宇宙」が並べて語られている点が興味深い。そこで、ガタリの『カオスモーズ』から目についた箇所をいくつか引用してみる。太字にしたところが、宇宙(ガタリの表示ではU)と実存(T)が著しく接続している感のある部分である(変な説明ですみません)。

「治療者が、カオスモーズ的なことがらに症状や情感の側からアクセスできるのは、治療者自身がなんらかの仕方で非言説的な強度を感受できる器官なき身体として、自らを発明しなおしたり、作りなおしたりする限りでしかありません。・・・変身する諸々の参照宇宙へのアクセスと新たにされた他者のあり方という機能域への参入の可否は、同質発生的内在に向けて各自が行うダイビングにかかっているのです。」(p.138)

「感じと情の動きからなるブロックは、美的な構成を通じて、横断的なひとまとまりの中に、主体と客体われと他物質と非物体前と後を混在させています。・・・いつの間にかドビュッシーの宇宙に、ブルースの宇宙に入り込み、プロバンス地方のまぶしさになることの中にある。共存性への閾を越えてしまった。・・・わたしは以前のわたしではなくなり慣れ親しんだわたしの実存のための領土を超えたところに運ばれ、別のものになることへと引き込まれている」(pp.148-149)

感覚できる有限性のなかに身を投じながら新たな無限を作り出すこと、・・・他の異なった言表のアレンジメントや、別様に記号論的な参照をおこなうことを恒久的に促進することを求めるもの全て、人種差別的でも民族差別的でも、男根主義的でもなく、発生の場において他者を捉えること、強度的かつプロセス的になること、未知なるものに対する新しい愛・・・」(p,186)

とりわけ3つ目の引用、「発生の場において他者を捉えること、強度的かつプロセス的になること、未知なるものに対する新しい愛・・・」という言葉が好きである。レヴィナスのエロス論も(そして西田も川本真琴も私の日常も)こういうことだろうなあ、早いとここれになりたいなあ、とうっとりしているわけだが、今回の趣旨とは思い切りそれるので深入りしない。
(なお、ガタリは同書で「創造的プロセスの自律性とオートポイエーシスを確立するとき、在ることは他者なるものの責任性としてみずからを肯定します(レヴィナス)」(p.135)とさらっと核心的なことを言っているので目が離せない)


村澤らは「存在」と「実体」が二分化された近代のモデルを示している。
これは前半部で論じてきた西田自己限定モデルと解釈することができるだろう。

『異界の歩き方ーーガタリ・中井久夫・当事者研究』p.212 より筆者書き込み


「この世界」では分節された固定的な存在者しか見えなくなっており、実体の無分節世界との関係が断絶している。これまでの説明にのっとれば、徹底的に自己限定されきってしまい、同一性が固着した世界「存在」の領域で、自己限定未然の絶対無が「実体」つまり「異界」といえる。この文脈からいうと、分節と無分節の往還を橋渡しし、水先案内人としての機能を果たすもの「ケアをすること」であるという見方もできるだろう(個人内の危機治癒プロセスでそれが生じる際は、「創作活動をする」ということになる)。

「べてるの家」の人々は、「異界」を拒絶せず、むしろ積極的に分け入っていく。例えば、統合失調症における幻聴を「お客さん」と呼ぶことで、当人にとってつらい症状を排除するのではなく、厄介ながらも尊重すべき客人(マレビト)として仲間と共にもてなす。村澤らによれば、「お客さん」は、苦痛を言語化することでその人自身から切り離す「外在化」の側面があるとともに、それによって他者とつながるきっかけになっているのだという。
自分の苦労を語り、コミュニティの中で経験を響かせる。異質な多数の旋律が、互いを排除することなく、受け入れ合う。かといって、すっかり調和の取れた均質な全体に集約されてしまうわけでもない。それはシンフォニーではなくポリフォニー(多声化)というのが相応しい。集団の秩序を一つの正しさに求めない点が、重要である。
多声音楽においては唯一の主旋律や正しいメロディーラインを必要としない。多重に響き合う声は場全体に溶け込むことで、その人自身からの局所的な帰属を解かれてゆく。個人の「お客さん」であったはずが、「どうぞどうぞ」ともてなされているうちに、誰の客人かわからなくなっていく。そこにおいて、「誰がどうした」「何をどうした」といった時系列や因果関係の厳密さが拡散してゆくとともに、症状を受け入れる新しい物語の素地が作られてゆくのではないだろうか。

たとえば、治療者と患者、その家族や関係者が対等かつ開放的な枠組みの中対話をする「オープンダイアローグ」は、上記のようなポリフォニックな集団力動を治療空間で実践したものといえる。また、ポリフォニー空間とは、ガタリの言葉でいえば、共立平面において別々の要素が機械状に繋がりあい即興的な自由度でその都度その都度場を織り成していく運動と捉えることができるだろう。そこで人々の立場や役割は初めから決まっているものではなく、関係性の中で暫定的に定まってゆく。
共立性の平面で言葉を交わすことで、それぞれがその都度の主体を創発し・されているのである。これはそのまま「自己限定」の問題と読み替えても構わない。

さらに、共立平面で交わされる言葉は、正しい文法に則った言語である必要は全くない。むしろ、言語とも呼べない音声や繊細な空気の振動、ノイジーでウィスパーな気配に本質がある。咳払い一つや衣擦れの音、鼻を啜る仕草や壁にかかった時計の短針と長針がずれて進む小気味悪さ、カーテンの上で渦巻くペイズリーの変な柄、すべてが機械の部品であって「私機械」をゆるやかに組成、限定している。

そこは、断定すること、決定すること、何か意味のあることを言うこと、端的に言えば「「私」という一者であること」に対して主体を強制的に自己限定しなくてもよい空間である。私であっても、私でなくても、それを含めて私と受け入れてよい空間は、とても居心地がよい。

ガタリは、勤務先であるラボルト病院の「調理場」を、患者の領土を解放し、新たな主体感を生み出す機構として極めて重視していた。病院の風景を切り取った写真集『ソローニュの森』で「病院の食事が外注の弁当に変わるくらいなら、ラボルト自体も無くした方がいい」と言っていたのはガタリか、それとも精神科医のウリ先生だったか。

日々の食事が作られる調理場はいろいろな情報であふれている。
大鍋で野菜が煮える音、吹きこぼれた水がコンロに当たってシューシュー音を立てていて、食器の金属音がせわしない。何やら有機的なにおいが混ざり合うなか、絶えずいろいろな人が出入りし、賑やかさに誘われて意味もなく覗きに来る人がその辺で立ち話をしている。そこには常に誰かいて、何かをしている。何かしてもいいし、何もしなくてもいい。

「・・・ここまで来れば調理場もちょっとしたオペラの場面に姿を変えます。雑談をする者もいるし、踊る者もいる。水や火、パン粉やゴミ箱など、あらゆるものを楽器に見立て、権威と服従の関係を演じるのです。食べ物を作る場所としてみるなら、調理場は物質、信号の流れと、種々雑多な報酬が行き交う交換の場となる。しかし、このような流れの代謝に転移の価値を持たせるには、装置全体が精神病の患者に特有の前ー言語的構成要素を汲み取る受け入れ機構として働いていなければなりません」(『カオスモーズ』, p.113)

「前ー言語的構成要素」とは、「前ー自己限定構成要素」としても読むことができると思う。

気が向いた時に「なんか手伝うことあるー」とその辺の人に尋ねれば、適当なやることを振ってくれる。
そこではきっと、誰でもあるという意味で、誰でもないという余裕があるからこそ、身構えることなくごく自然に、前向きに「何かする私になる」ことができるのではないだろうか。


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