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不動産機械は登記しゆく~『地面師たち』の狩猟シーンに添えて

社会は、まず、循環し循環させることを本質とする交換の場であるとはいえない。そうではなくて、それは登記の場としての社会体であり、記すこと、記されることを本質とする。循環が成立するのは、登記がそれを要求し、あるいはそれを可能にする場合だけである。このような意味で、原始大地機械の方式とは、器官に対する集団的な備給である。なぜなら、流れのコード化が行われるためには、これらの流れをそれぞれに生産し切断しうる諸器官そのものが、部分対象として囲まれ、構成され、社会体の上に配分され、固着しなければならないからである。

ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』,河出書房,Kindle版No. 3677

Netflixで配信中の掲題作の中に、いずれも強い印象を残す3つの狩猟シーンがある。第1話冒頭のハリソン山中の熊との遭遇からこのドラマシリーズは口火を切り、そして最終話のラストカットは雪山で銃を構える彼で締めくくられる。地面師詐欺師たちが繰り広げる物語のすべてが、狩猟という枠の中で動いている。ここで狩猟が出てくるのは、詐欺師とその被害者たちの土地を巡る「狩り-狩られる」関係の安直なアナロジーによる演出効果を狙ってのことではない。

銃は地面を切断する。狩猟という行為、その道具である手と銃は、自然における無垢で大きな流れだったものを、「狩猟されるもの」と「狩猟する者」とに切断する。自然の単なる拮抗、単なる終わりなき過程が、生産者と生産物、生産手段として組織され、配分される。原始的な社会〈大地〉において、「手」「石オノ」といった器官が集団的に対象化され、社会的生産としての労働が立ち現れる。

地面師たちが扱う「土地」というものは、元は単なる地表面であって、誰の持ち物でもない。それが詐欺の対象にまでなるには、人類史において農業の勃興にまでさかのぼる長い生産様式の変遷の過程がある。自然の賜物だった表面は、いつしか土地として認識され、記され、所有者を産み、それを巡って戦争をさえ生んだ。

人類の歴史は早い話、土地の奪い合いの歴史です。

ハリソン山中,本作

欲望の流れが切断され採取され、消費が配分される。ただの地面が、土地として登記される。登記されることで、私有財産として交換の場に華々しく登場し、商品として生産される。 

地面は登記簿によって土地へと切断され、土地は建材によって商業施設/マンションへと切断され、梁/床面でフロアへ、柱でテナント/各戸へ、分譲/賃貸契約書で区分へ、扉で各部屋へ、住むという空間機能、そして家具、生産と消費の諸形態が、果ては生活圏という価値が生じていく。生産物としての土地は再生産される。


地面師たちがターゲットとするのはつねに、流れが淀む土地、地主が売りに出していない土地である。そこに偽の地主を建て、架空の権利をデベロッパーに売りつけることで、生産の流れを新たに接ぎ木するのだ。いちど登記されたなら、流れが止まることは許されない。鬱積した刹那、偽装ID,権利証、鍵があらたな切断として生じ、生産と消費がすぐさま組織されていく。


かつてそうしたコードを編成し、人々の欲望を導くのは共同体の絆であり、族長であり、専制君主であった。共同体のなかで労働が組織され、規範に則って利益が分配され、生産物も、ひいては生産者も再生産されていく超コードがあった。

現代の資本主義社会は、そうした超越的な掟をもはや持たない。貨幣という抽象的量へと還元された流れは、私的所有という経路を通って個人的自我を生じ、もろもろの社会的過程が脱領土化-脱コード化される。

ゆえに地面師たちは、警察という特権的・象徴的な掟からいつも逃れていく。マネーロンダリングに対する無力が繰り返し強調され、地面師たちは追い詰める警官たちの手を結局は逃れていく。

地面師が悪とされるのはあくまでも社会的なコードとの関係においてである。結局は聖"地"を巡る登記の問題である今般の中東戦争も、複雑に絡み合った参加者の誰が法を犯した悪人であるかクリアに裁定することは極めて困難ではないか。

土地は奪い合われるものであり、地面師というものはその代行者の形象である。彼らは大地における銃である。それは優れて現代的な、超越的コードの警察力を巧みに逃れる銃である。作中では詐欺被害者となった大手住宅メーカーの石洋ハウスも、しかしこの意味ではまったく同列の存在であり、"まっとうな会社によるまっとうな不動産事業"という系列のうちにその社員たちの私的自我は安らぐが、 それはオイディプス的-神経症的安らぎに過ぎない。


無意識的な欲望の流れが切断され、登録され、配分される。個別具体的な「地面師」という個々の人物たちの役割と見えるもの―リーダー、交渉役、ニンベン師、等々―はその生産プロセスの隅々まで貨幣が横断しゆく際にきらめく残余。

最もフィジカルで最もプリミティブな〈大地〉機械に対して、最もフェティッシュなものはいまや最も疎外された労働形態としての貨幣そのものである。主体として係留された彼ら自身はそのことに気づきもしないが、それは器官なき身体の表面を縦横に滑走する絶え間ない採取-切断の端的な表現なのだ。

だからこそ、物語の最終盤、警察病院のベッドの上で「いつしか地面師という仕事にのめり込んでいった」と語る拓海に対して、捜査二課の倉持がこう応じることの空疎さがあり、それは事の本質から言って必然的な空疎さをはらんでいる。

仕事じゃないですよ。犯罪です。

倉持,本作

土地があり買主がいるところ常に犯罪があり、包括的人物としてのハリソン山中はいつまでも捕まらない。獲物が猟師に対して、猟師が獲物に対して現れるのは、必ず銃が発射されるときだからである。


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ばる|専業読書家(人文学)
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