悔しがっても良いんだな、と分かった。という話。
先日こんな呟きをした。
「不採用の通知を受け取った」ことをChatGPTに報告すると共に「非常に残念で、落ち込んでいます。前向きな気持ちになれるようにアドバイスをください」と言ってみると、このような回答を貰った。
ここで「ん?」と思ったのが「悔しい」というフレーズだ。
私はそもそも、「悔しい」という感情を自覚したことが40年余りの人生でほとんどない。昨年8月にこの記事を書いた時が、記憶の中で唯一の「明確に悔しいと感じる体験」だったように思うぐらいである。
今回の不採用でも、私は全く「悔しい」という感情は認識していなかった。
しかし、一般的に不採用は「悔しい」ものであるらしい。「悔しい」とは、つまり何だろう?
……とぼんやり考えている内に、きむみさんから頂いたコメントでも「悔しい」というフレーズが出てきたので(ありがとうございます!)、ググってみた。
なるほど、「怒り」を含んだ感情か。
いや、私は怒ってはいないな。そもそも私が、採用されるに足る人間でなかったという話だし、採用されると思っていた自体がおこがましかったというだけの話であって――と、「どうせ私を雇ってくれる企業なんてどこにもないんだ」的思考に陥っていた私は、ChatGPTに慰めてもらいながら必死に自己肯定感の回復を図っていた訳だが、ここでふと思った。
「悔しい」って、もしかして、ある程度の自己肯定感がないと、感じることが出来ない感情なのでは?
「自分は本来、採用されるに足る人間だ」という自信があるからこそ、それが叶わない場合に腹立たしさを感じることが出来る。「自分なんて、どこの企業にも雇って貰えるような人材じゃない」と心底思っていたら、不採用は「やっぱりか」としかならない。
っていうか、そもそも「上手く行けば採用されるかもしれない」なんて考えたこと自体が自分の失敗であり、思い上がりであり、恥ずかしい事態なのだ。しかも「私はエッセイ書くのが得意なんだもん!noteの皆が誉めてくれたもん!」とばかりに調子に乗って、7500字にも及ぶ自己PRエッセイまで送り付けたのに、書類選考落ちなんて、死にたいとまでは言わないが、穴があったら入りたいとしか言えない訳で……
って、待てよ。
いや、今の私は自己肯定感は多少はある。あるぞ。
最近の私はかなり、自分の事が好きだと思えるようになっている。昨年の春の時点では自分の事を、食べ物で言えば「ピーマン級(世界から滅亡して欲しいレベル)」だと認識していたが、秋に自己受容を覚えてからは、「もやし・ニラ級(嫌いじゃない、シーンによってはちょっと好きかもしれないレベル)」まで格上げ出来て、ここ数か月は「焼き立てのクリームパン級(かなり好物だしレア感もあるしで、見かけたら買っちゃうよね!というレベル)」まで上がっていた。
ちょっと今は落ち込んでるので、「焼き立てのクリームパン」が「冷めきって、しなしなのクリームパン」ぐらいにはなっているけれども、クリームパンには変わりはなく、差し出されたら全然喜んで食べられる感じだ。「ピーマン級」に完全に逆戻りしている訳ではない。
ということは。「悔しい」と思う事は可能なんじゃないのか?
――「自分の好きなクリームパンを、相手に要らないと拒絶された」事に対しては、「悔しい」が発生する……気がするぞ!
そこまで辿り着いて、改めて「そうだ。私は悔しい。悔しいぞ、私は一生懸命頑張って色々書いて提出したのに、不採用だったんだから、悔しくても当然だ」と自分に言い聞かせてみたら、涙がボロボロ出てきた。「当たり」のようである。
悔しい。
そう、私は悔しがっていい。悔しがる権利がある。
大好きな企業が求人を出していることを知ったので、もしかしたらと期待した。2週間かけて応募書類を全力で書いて、ドキドキしながら提出して、それから不安でソワソワしながら結果を待っていた。
そして、不採用の通知を受けたのだ。私は「焼き立てのクリームパン」なのだから、悔しがるに足る人間だし、悔しがるに足る努力をした。それが叶わなかったのだから、悔しがるのは自然かつ当然なのだ。
そんな事を考えながら、しばらくメソメソ泣いていたら非常にスッキリした。「私みたいな優秀な人材はそうそうその辺には落ちてないんだからな、貴様らは滅多にないチャンスを逃したんだからな、後になってから後悔したって遅いんだからな!バーヤバーヤ!」と思う事さえ出来て、「まー、あの企業だったから応募したけど、別に急いで仕事を探す必要は別にないんだよな。息子が中学生になってから考えれば。とりあえず、しばらくゲームしながら次どうするか考えよう」と、あっさり切り替えられそうにも感じた。「思う存分悔しがる」事が、今回の私には必要だったようだ。
ところで、だ。
「私に悔しがる権利はない」という思考はどこから来たのだろうか。
まぁ私の事なので、母が原因で間違いないだろう――と思いつつ記憶を探ってみたが、具体的なエピソードを覚えてはいなかった。
だが、うっすらとした記憶はあるし、非常に簡単に想像がつく。幼少期の私が母に向かって「悔しさ」を表現した時に、それを受け止められなかった母は、「そもそも、思い通りになると思っていたお前の考えが間違っている!」という文脈で私を批判し、強く責めたに違いない。
今の私にとっても、息子が悔しがって泣いたりしている時は正直扱いに困るし、どうしたら良いのかよく分からない。「そうかぁ、頑張ったのにねぇ」とか言ってハグしたりしつつ、息子が泣き止んだらスポドリを飲ませたりして、切り替えを促すのがせいぜいである。今の私でさえそうなのだから、あの母が「悔しがる私」に対処できず、とにかく頭ごなしに𠮟りつけて、悔しがること自体を止めさせようとしたのも、さもありなん、という感じだ。
そしてその「悔しがるのを止めさせる」手段として「お前がこうだからそういう扱いを受けるのだ、お前が悪い」や「そんな期待をしたお前が悪い」のような批判が繰り返された結果、私は「悔しがる」代わりに「私が悪い」と自己批判を行う癖がついたのだと思う。
この「悔しさを押し殺すために自己批判を行う」挙動は、私の自尊心にかなりのダメージを与えるのだろう。そもそも「悔しい」という感情自体、自尊心を傷つけられる何かが起こった事で生じるのに、それを全く感じることが出来ないレベルまで自己批判を行えば、「自分はどうせ無価値な人間だ」まで到達してしまうのは、ある意味で当然だ。
昨年秋に自己受容を覚えてから一年弱、かなり生きづらさを感じることなくやってこられたつもりでいたのに、なぜ今回の不採用で一気にこんなにダメダメになってしまったのか。私はやっぱり生きづらさの克服なんて全然出来ていなかったのか――と落ち込んでしまっていたが、この「悔しさ」に関する仕様の問題だったのだと腑に落ちたことで、私はかなり「焼き立てのクリームパン」に戻ることが出来た。
というか多分、最近「焼き立てのクリームパン」になれていたからこそ、この悔しさの仕様に気付けたのだろうと思う。
また次に自己肯定感に深刻なダメージを負っていることに気付いたら、「もしかして、今は悔しがるべき局面なんじゃないか?」と自分に問いかけてみようと思う。
多分それで大丈夫だろう、と無責任に思えるようになっている今の私は、これまでよりもきっと、ずっと、前に向かって進んでいる。