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【毒親育ち】自分の中の「インナー毒母」の存在に気付いたという話。

自分が毒親育ちだと気付いてから大きく変わったことは色々あって、ダントツ一位は母との関わり方だ。だが実は同じぐらいの変化量で、「夫の発言を、自分がどう受け止めるか」も変わったな、と感じていたりする。

例えば、数日前。
息子と二人で出かけていた夫が、帰宅してから「昼食に食べたトンカツ専門店のトンカツ定食が美味かった」という話をしてきた。
お代わり自由のキャベツの千切りが超細切りのふわっふわで、いくらでも食べられそうなほど美味しく、息子の分のキャベツも全部食べて、更にお代わりもしたらしい。

へー、美味しかったら良かったねぇ。

……という相槌を私は打ち、話は終わったわけだが、思い返せば思い返すほど、この話を本心から「夫が美味しく昼食を食べられて良かった」という結論に持って来て終わりに出来た自分自身を、私はしみじみと褒め称えている。

何故ならこういう、どこからどう見ても平和で、見解が別れる余地などなさそうな話でさえ、数年前の私ならまず間違いなく、内心めちゃくちゃな修羅場に陥っていたからだ。

例えば、こんな感じだ。


キャベツなんて普段全然食べない癖に、千切りが細ければそんなに喜んで食べるのか。どうせ私は千切りを上手には切れないし、正直トンカツは好きではないからスーパーの総菜で済ませていたけれど、そんなに不満があったのか。やはりたまにはトンカツを揚げなくてはいけないのか。嫌だし面倒臭いし、上手くできる自信がない。揚げ物をした挙句にキャベツの千切りも切らねばならないのも、手間がかかりすぎる。せめてどちらか一方ならばマシなのに、何でそんな組み合わせで食べたいなどと思うのだろう。レタスならちぎるだけで済むのに。
キャベツの千切りをお店レベルに切れるようになるために、どれだけ練習すれば出来るかなんて分からない。私が千切りを上達するまでの間にどれだけのキャベツが無駄になる?調理師だった父の千切りは確かにとても繊細だった、教わっておけば良かった。母は私よりは上手に千切りを切れるはずだが、教わらなくてはいけないのか。嫌だなぁ……。

っていうか、そんなにキャベツが美味しく感じたならば、実は夫が野菜不足に陥っている可能性も考慮しなくてはいけない。ここ数日の献立で、野菜が十分だったかどうか自信がない。今夜の献立に、何か野菜を足さねばならないだろうか。いや、今日はキャベツを大量に食べてきたのだから良いとして、しかし明日以降は何かもう一品足すことにしなければ。でも何を作ればいいのだろう。茄子の揚げびたしは息子は食べなかったしなぁ……。


自分で言うのもなんだが、暗いし面倒臭いし、いかにもストレスのたまる思考である。
だがこういう思考は間違いなく今の私の中にも存在して、ただ最近の私は、この「暗くて面倒くさすぎる思考」から距離を置くことが出来るようになったのだ。

夫は、私に「お前もふわふわにキャベツを切れるようになれ、そして専門店のようなトンカツ定食を食卓に出せ」とは、全く、微塵も、一言たりとも言っていない。そういう発言を過去にしたこともない。単に「キャベツの千切りが美味かった」と言っているだけだ。学校帰りの息子が「今日の給食は美味しかったよ!」と言っているのと全く同じである。

――という、この単なる事実を、そのまま最上位に持って来る。
ただそれだけのことなのだが、私はこの「ただそれだけ」を、ここ数年でようやく出来るようになった。
出来るようになったのだ。一旦は面倒くさい思考が浮かんで、次にそれを「よそに置く」という工程がまだ必要ではあるが、それでも大いなる進歩である。

それにしても、そもそもポジティブなはずの情報を、自分にとってネガティブな情報に変換し、自分自身を責めてプレッシャーをかけてしまう、という私の思考回路は一体何処から来ているのか。
何から、誰から、自分を守ろうとしているのか、もしくは過去に守ろうとした結果なのか――と考えると、私の場合、答えは大抵一つである。
母だ。

先日も書いたが、幼少期の私は、あらゆる情報を母に対して報告しており、ポジティブな報告でもネガティブな報告でも、必ずと言って良いほど常に母のダメ出しを受けていた。
そこで私は恐らく、自分の内側に「インナー母」とでも呼ぶべき存在を作り出し、その「インナー母」に向かって、あらかじめ様々な報告をしてダメ出しを受けていたのだろう。事前に母のダメ出し内容を予測しておくことで、実際の報告内容を調整したり、本番のダメ出しで受けるダメージを軽減する、という方法を取っていたのだ。
そういう仮説を立ててから記憶を検証してみると、確かに思い当たる節があった。いかにも私のやりそうなことだ。

そして私の内側には今も「インナー母」が存在し、私は常にインナー母のダメ出しを受けた思考をしている。そう考えると、非常にしっくり来た。
私の思考は、本来はきっと、こういう形なのだ。


私「夫、トンカツ屋さんのキャベツの千切りがふわふわで美味しかったんだって」

インナー母「お店の千切りは細いからね。ワタリはそんな細かい千切りは切れないでしょ?あんなに太くちゃ駄目なのよ。でもまぁ練習すれば段々上手くなるんじゃない?お父さんから教わって私も上手になったし。ただあれは、よく切れる包丁じゃないとそもそも難しいかもね。でもワタリじゃ包丁は研げないからねぇ……大体、夫君トンカツ好きなのに作ってあげてないでしょ?スーパーの総菜じゃ美味しくないのよ、やっぱり揚げたてじゃないと。トンカツなんて簡単なんだから作ってあげればいいじゃない、衣付けて揚げるだけなんだから」

私「でもやっぱり揚げ物面倒だし、私あんまりトンカツ好きじゃないし、上手に出来ないかもしれないし」

インナー母「やらなきゃ上手く出来るようになんてならないでしょ。大体ワタリは手を抜きすぎなんだから、もうちょっとちゃんと揚げ物ぐらいやりなさいよ、主婦なんだから。そもそも夫君、野菜が足りてないんじゃないの?だからキャベツがそんなに美味しく感じたんでしょ。男の人は出てきたご飯食べるしかないんだから、アンタがもっとしっかりして、野菜もちゃんと食べさせるようにしないと……(以下省略)」


いやー、実に母の言いそうなことである。流石、私の思考。インナー母の再現度、めちゃくちゃ高い。

あ、ちなみに私の母はこういうタイプで、ナチュラルに「ちょっと口うるさくて嫌味っぽい」けれど、まぁまぁ普通にいる範囲の人である。ただし、この「ちょっと口うるさくて嫌味っぽい」をずーっとずーっと、3歳の私にも7歳の私にも完全に同じレベル感でやり続けてきて、しかも当時はちょいちょいヒステリーが入っていたので、私にとってはチリツモでえらい毒を及ぼした。私の安全基地を務めてくれている友人は、私の話す母エピソードを聞いて「お母さんじゃなくてお姑さんだね」と評したが、まさにそんな感じだ。ちょっと相性の悪いお姑さんであるだけ……なのだが、私は0歳で嫁入りし、アラフォーになるまで無自覚なまま嫁いびりに遭っていた、という話である。

で、私の問題は恐らく、この「インナー母の発言」と「私の発言」を、どっちも自分自身の思考として、ごちゃまぜにしてしまっていることだ。

「母の言いそうなこと」までも自分自身の考えだと思い込んでいるために、不要な思考として排除することが出来ず、結果として「キャベツの千切りが美味かった」というような単純な夫の発言でさえも、自分自身への攻撃であるかのように感じてしまっていたのだろう。

私を攻撃していたのは、夫ではない。
私の内側の「インナー母」だったのだ。

毒親育ちだと気付いて以降の私は、自分の面倒くさい思考を全て、「事実として発生していない事柄は考えないようにする」という力業でねじ伏せてきた。「キャベツが美味かった」という夫のコメントから、それ以外の意味を一切読み取らないようにして、結論の「美味しかったら良かったね」を導き出し、最終的にそっちを採用するようにする、と単純にルール化したのである。
この方法は現状、夫とのコミュニケーションにおいてはかなり上手く行っている。だがあまりに極端すぎるような気もして若干不安に感じていた。私の洞察力や想像力を全て殺した、単純化した思考しか出来なくなるからだ。
例えば息子の悩み事に気付く、というような非言語的コミュニケーションが必要となった場合に、この方式ではファジーな対応を全くできない危険があるように思っていた。

だが、「インナー母」の存在に気付けたからには、今後私は「インナー母」と「私」の発言を切り分けて、「私」のコメントだけを拾うことができるようになる、かもしれない。
無闇やたらと自分を追い詰めるネガティブ思考に陥るのはやめたいが、見聞きしたあらゆる出来事を「自分には関係ない、関係あるとは誰にも言われていないからだ」と切り捨て続けるのも不自然である。「インナー母」を「私」から引っぺがし、黙らせ、残った「私の思考」だけを採用するようにすれば、ポジティブな情報はポジティブなまま、気になったことは程ほどに、考えられるようになるのではないか。

何と言っても私の「インナー母」は、ざっくり30年は熟成されたツワモノである。「私の思考」との癒着も激しいはずだ。
だが、私が私自身の思考や感情を完全に取り戻すには、「自分が考えすぎていると思ったら全部強制終了する」という乱暴なやり方だけでは難しいようにも思う。
私の思考から、「インナー母の発言」を引き算し、残った部分だけを採用する。最終的には「インナー母」を永久に黙らせるか、抹消する。
こうしたやり方を出来るようになることが、私の本質を探していく上で、根本的な「治療」になる――ような、気がする。

どのみち、私の価値観から母を引き算していく挙動は、やらねばならない。
もののついで……と呼ぶには重いボリュームではあるが、日々動く思考もよく観察して、こまめにインナー母を自分から分離し、母と別個の自分を確立する。つまり正しい「親離れ」を行うとも言えるが、解毒の工程として、今の私には必要であるように思う。


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