「小村雪岱」展(清水三年坂美術館):白黒挿絵の改革者雪岱。配色は鈴木春信へのオマージュ?黒ベタは本当にビアズリーの影響か?
はじめに
11月2日付の下記の記事の中で、清水三年坂美術館の「小村雪岱」展が開催されていることを偶々知り、入館したことを記しました。
すでに美術展は終了していますが、感想を紹介したく記事にいたします(読者の皆様へ:書き終わってみると当初の予想と違い、短編小説なみの長文になってしまいました。いつもならシリーズに分けて投稿するのですが、内容の連続性を考えてこのまま投稿します。時間の余裕が無い方は、申し訳ありませんが余裕を持って読んでいただくか、章に分けてお読みいただければと思います)。
小村雪岱と私
本題に入る前に、なぜ小村雪岱に関心を持ったのか、どのような点に関心を持ったのか、これまでの経緯を紹介します。
この辺の事情は、今から13年前の下記のブログで書いていました。以下抜粋します。
なお、参考までに上に出てきた星川氏の著書を下に示します。
さて、以上のように、たった3週間のうちに起こった偶然に導かれ、埼玉県立近代美術館の「小村雪岱とその時代」展を訪問したことは云うまでもありません。内容は期待通り素晴らしく、それ以来、私は小村雪岱に魅せられたままです。
当初魅力を感じたのは、小村雪岱の絵(肉筆、挿絵、木版画)の繊細な線であり、伝統的な江戸の粋を表現するスタイルでした。構図やデザイン感覚といってもよいかもしれません。
それは「小村雪岱とその時代」展の副題、「粋でモダンで繊細で」そのままです。
その後、線描や絵のスタイルだけでなく、別の観点から新たな側面にも関心を持つようになりました。
私は「街歩きスケッチ」の中で、現代の都市のデザインやファッションに見られる「黒ベタ」塗りに関心を持ち、それが日本の伝統的な美意識に繋がっていると考え、以前からブログ記事や最近ではnoteの記事を書いてきました。
例えば最近では「黒ベタ」塗りの看板デザインの変化(進化?)についてnoteの記事で紹介しました。
一方、「黒ベタ」塗りは、都市のデザインにとどまらず、日本の絵画の様式ともドッキングしたのです。
具体的には、グラフィック・デザイナーの宇野亜喜良氏が月刊「Pen」(285号、2011年)の中で小村雪岱の新聞挿絵について、以下の発言を見たことがきっかけです。
以上の発言を見て、以前からマネの「黒」やビアズリーの線画と黒ベタはジャポニスムの影響だと考えていた私は、宇野氏の全く正反対の意見に大変驚き、小村雪岱の黒ベタ表現をより注目することになりました。
小村雪岱と云えば、その女性の描写を鈴木春信の浮世絵美人画に倣ったことがよく知られています。しかし、あまたの浮世絵師の中で何故鈴木春信なのか、私にはよく理解できませんでした。
なぜなら、私は鈴木春信は錦絵を創始したばかりの一世代前の浮世絵師で、全体にどこか稚拙で未完成で未熟な絵師であると思い込んでいたからです。
ですからご多分に漏れず、世評名高いあの浮世絵の大物達、葛飾北斎、歌川広重、東洲斎写楽、喜多川歌麿を高く評価をしてきました。
しかし、ある時点で「待てよ、確かに彼らの浮世絵版画は素晴らしいが、もしかしたら西洋での評価を鵜のみにしていないだろうか? 鵜のみではないというのなら、自分は西洋の芸術観、基準から評価しているのではないか?」という疑いを抱くようになりました。
その時点とは、「小村雪岱は、女性描写だけでなくの黒ベタ塗りも鈴木春信の黒ベタ塗りの影響ではないか」との思いがよぎった時です。
実際、そのような観点で調べてみると鈴木春信の黒ベタ塗りの浮世絵は傑作が多いのです。代表例を下に示します。
いかがでしょうか。
ここでは、黒ベタの割合が高い夜景の版画を選びました。漆黒の闇が、通常の浮世絵版画とは異なる美しさを際立たせています。
こうしてみるとどの絵も傑作だと思います。ですから日本の教科書に載っていてもよさそうだと思うのですがほとんど記憶がありません。
これらの画像の出典元の「浮世絵検索」を検索して、私はいつも感じることがあります。それは、刷りの良質な版ほど海外の美術館が所蔵していることです。
上で示した絵も、実は大半、ボストン美術館、メトロポリタン美術館、ミネアポリス美術館、シカゴ美術館、ホノルル美術館、大英博物館など欧米の美術館の所蔵品です。
邪推かもしれませんが、日本の研究者がこれら良質な作品を目にすることが出来ないので、評価が進まず教科書に載ることが無かったのだと考えたくなるほどです。
これら小村雪岱の黒ベタ塗りと鈴木春信との関係については「感想」の部で改めて話題にしたいと思います。
この小村雪岱展の一月前に私は東京国立博物館で開催された「やまと絵」展を訪れました。
そこでは、我が国を代表する絵画や絵巻が展示されており、やまと絵の遠近表現、空間描写、人物描写、樹木や草花の描写を包括的に観察することができました。
ですから、そのような伝統的なやまと絵の手法を小村雪岱がどのように取り込んで自作に応用しているのかという観点で眺めてみました。
感想
本美術展の展示作品数は、絵画97点、装身具(帯留・櫛・かんざし)が23点の小規模な美術展です。確かめてはいませんが、すべて清水三年坂美術館の収蔵品と思われます。
ここでは、1)初期作品、2)書籍の装幀、3)新聞の挿絵、4)肉筆、5)木版画の順に、絵画を中心に感想を述べます。
初期作品
1)-1《習作尼僧》:線に注目、鉄線描よりは柔らかい
本画の前の下書き線描で、いわゆる白描画になります。「線スケッチ」の立場から私は線の表情にどうしても目が行きます。それは均一な細い線で描かれており、仏画における鉄線描に相当しますが、鉄線描の厳しさは無く、どことなく柔らかい線の表情は雪岱らしく美しい。
■空間描写法についての違和感
なお、「やまと絵」展で膨大な量の桃山以前の絵の遠近表現を見慣れたせいか、三人の尼僧が立つ床の奥行きを、一点透視図法で描いているのに違和感を覚えました。
実は、その違和感はこの記事を書いている最中に気が付いたのですが、気になって調べると、次のような例が見つかりました。
この絵は版画ですが、もともと泉鏡花『遊里集』の表見返しの左頁の絵をそのまま版画にしたもののようです。
さて、その空間描写を見てみると、手前の2階の建物の空間描写は平行線によるほぼ伝統的なやまと絵の空間描写法で描いています。
”ほぼ”と云ったのは、鉢植えの右隣の廊下の板が僅かに先が狭まっているように見えるからですが、正確な一点透視図法にはなっていません。
一方、外の風景は運河が地平線の一点に収束する、一点透視図法に従って描かれています。
この二つの空間描写のハイブリッドは、成否は別としてかなり大胆な試みだと思います。
私が感じた《習作尼僧》の違和感は、三人の尼僧の立像が伝統的なやまと絵(仏画?)の構図なのに床は一点透視図法のハイブリッド構成から来ていたのでした。
なお、このようなハイブリッド空間描写は、その他の絵では使われていません。雪岱は広い空間を表現するときは、線遠近法だけを、室内空間を示す時は伝統的なやまと絵の空間描写でとそれぞれ使い分けています。
おそらくハイブリッドは安易に適用してはいけないと考えたからだと思います。
1)-2《雛》:ぞくっとするほどおしゃれだ!
高さ130×53㎝のこの絵の前に立った時、ぞくっと来ました。その理由は配色です。
視点は俯瞰で、すべてが平行線の四辺形からなる屏風や御簾に囲まれた伝統的なやまと絵の空間表現で描かれていますが、色彩は昔のやまと絵とは同じではありません。
まず右上の互いに隣接する鮮やかな萌黄色と白色の長方形が目を惹きます。それが男性の束帯の地の萌黄色と丸い模様の白色、後ろになびく裾(きょ)の白色と見事に呼応しています。さらには背後の屏風の松の青緑色の葉とも同じく呼応します。
一方、女性の十二単は、赤というよりは濃い赤茶系で構成され、左右の御簾と屏風が茶および赤茶系の色と呼応します。
さらに、男女の貴族が座る茣蓙の色は抹茶色で、絹地の薄茶色と溶け合います。
加えて、背後の屏風は濃いブルーの枠で囲まれており、このブルーは、萌黄色と共に、茶色によくマッチして互いに目立たせるのです。
また女性の十二単にも白色を帯状の形で忍ばせ、左右の御簾のひも状の中に白い部分を入れるなど、驚くほど緻密に配色が考えられていることが分かります。
このブルー、青緑色、赤茶、茶、薄茶、抹茶、白による配色が、モダーンでおしゃれな絵画空間を生み出していると思うのです。
実は、小村雪岱の絵については、正直これまで彩色については注意を払ってきませんでした。今回この記事を書くにあたって、肉筆画、多色刷り木版画の彩色を改めてよく観察しました。
女性や黒ベタ塗りについては、鈴木春信の影響を受けていることは言われていますが、まさか配色まで影響を受けているとは意外でした。
これについては、私が目を通した限り専門家の指摘が無いようなので、4)肉筆、5)木版画の所で改めてコメントいたします。
本の装幀
2)ー1泉鏡花『日本橋』:空間描写と構図に凄い工夫が・・・
この表紙の絵、正確にはこの絵で装幀された本に、13年ぶりに対面しました。小村雪岱の出世作であり代表作です。
しかし当時は、夢見心地で作品を眺めていたので、江戸情緒満載の全体印象しか記憶が残っていません。ですので、今回いろんな角度から見つめて見たところ、次のようなことに気づきました。
参考までに、日本橋の土蔵群が従来の浮世絵版画ではどのように描かれているか見てみましょう。
まず、歌川広重の版画です。
いずれも若干おぼつかない透視図法で描かれています。左上の《名所江戸百景 日本橋江戸ばし》および右上の作品では、手前の日本橋との対比を際立たせるために、対岸の土蔵を強い遠近法で描いていますが、下のニ例では、対岸の土蔵が小さくなりすぎるのを避けるために正しい透視図法を用いていないのです。
いずれも、土蔵群は一点透視図法で描かれています。ただし、その微妙具合は変わりません。
次は葛飾北斎、英泉、昇亭北寿の日本橋土蔵群の作品です。
全員、歌川広重同様両岸の土蔵群を透視図法で描いています。広重よりはましですが、その微妙具合は共通しています。
以上長々と多くの日本橋の土蔵群の浮世絵版画を紹介しましたが、驚くべきことに、西洋の透視図法を正式には導入していない江戸時代にも関わらず、純やまと絵の空間描写が一つもありません。まるで約束事なのかあるいは流行のようです。
しかも雪岱のように真正面から両岸を描いたものも皆無です。
ですから、小村雪岱の《日本橋》の表表紙の装幀の絵がどれだけ斬新だったのかお分かりになるでしょう。
なお、真正面といえば、日本橋を介して両岸を描いた作品が唯一存在します。それは、歌川国貞の《東海道日本橋》です。
いかがでしょうか。これでもかとはみ出んばかりに日本橋を前面に出して、まともに真正面から一点透視図法で描いており、まるであの誰もが思い浮かぶ歌川広重《東海道五拾三次之内日本橋 朝之景》の、少し斜めの橋の構図に対抗しているかのようです(もちろん、この絵が広重の後に描かれたとしての話ですが)。
この構図の大胆さに加え、色彩も粋だと思いませんか? 私は小村雪岱と同質のものを感じるのです。
実際、私は2016年Bunkamura ザ・ミュージアムで開催された「ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 わたしの国貞」展を見て、歌川国貞の色使いに心底驚かされました。
ここでは詳しく紹介しませんが、役者絵の着物の柄、そして大胆な背景との組み合わせ、あるいは美人画のモダーンな色使い、かと思えば、藍一色の花魁の着物の美しさ、とにかくおしゃれで粋でそれは衝撃的でした。
それは小村雪岱の作品から受ける印象と同じなのです。国貞が幕末に浮世絵界で最高の人気を博した理由が分かるというものです。現代ならばさしずめ当代一のグラフィックデザイナー、イラストレーターになっていたに違いありません。
歌川国芳はそのあくの強い画風で最近人気が出てきましたが、国貞ももっと評価されてもよいのではと思うのですが・・・。
さて、話をもとに戻します。
以上浮世絵版画を見てくると、日本橋風景を描くということは、さながら空間描写の実験場と化しているように思えます。
しかし待ってください。名所「日本橋」と云えば忘れてはいませんか。
そう、あの「江戸名所図会」です。
その「日本橋」の図をご覧ください。
手前の岸の通りの人物は、橋の途中、対岸に渡ってもまったく大きさが変わりません・もちろん、船の人物も同じ大きさです。
建物に目を移せば、手前の河岸の家の屋根、右端に半分見える壁から推測できる土蔵の大きさは、対岸の土蔵と全く同じ大きさであることが分かります。
なぜなら、上に紹介した浮世絵版画と違って、この図は完全に伝統的なやまと絵の空間描写法に従っているからです。事実、各建物の輪郭線、川岸の線をみると、左から上に向かう完全な平行線を形成しており、どこにも消失点がないことが分かります。
ですから、同じ空間描写法で描かれた「洛中洛外図屏風」で、遥か遠くの京の街(屏風の上部)の人々の動きがクリアに見えるように、この絵でも対岸の人々の動きがクリアに見ることが出来ます。
もし透視図法で描かれていたならば、人物は米粒のように小さくその動きはまったく判別できなかったでしょう。
すなわちこの絵は、「名所図会」という江戸の名所を細部までくまなく見せるという実用的な目的を果たしているだけでなく、私には絵画的な美しさすら感じるのです。
浮世絵の大物絵師が揃って西洋の透視図法を使って日本橋の土蔵群を描いたことと比べると、江戸名所図会の日本橋の絵は、正々堂々と伝統的なやまと絵の手法を使って描いており、好ましく感じるのは私だけでしょうか?
少し変則わざを入れたとはいえ、小村雪岱が、両河岸をやまと絵の空間描写法を採用したのはデザイン的にも正しかったと思います。
2)ー2泉鏡花『由縁文庫』:掟やぶりの草花図、草花の遠近表示と人物画の融合
東京国立博物館の「やまと絵」展で浜松図屏風や四季草花図をさんざん見た後と、桃山時代の草花図の障壁画、江戸時代の夏秋草図、四季草花図を見慣れた目には、この華麗な草花図から、小村雪岱の伝統やまと絵絵画の深い研究の跡を感じました。
しかしよくよく観察すると、実はここでも小村雪岱はやまと絵の掟破りともいえる大胆な試みをしていいることがわかります。
それは次の二点です:
なお付け加えれば、木橋は八つ橋図の連想から問題ないとしても、木製灯篭の組み合わせはないかもしれません。しかも、木橋も灯篭も、草花と同じく西洋式遠近法で描かれていることにも注意です。
さて、以上の私の見方を、やまと絵の草花図と比較して検証してみましょう。
私が見る限り、やまと絵の草花図の特徴は以下の二つです。
例が多すぎるので、誰もが知っている作品で示します。
1)《浜松図屏風》(室町時代・15~16世紀)
この中で松の木は近い松は大きく遠くの松は小さく、遠近で大きさを変えて描き分けていますが、草花は最前列に大きく描かれているだけです。
2)酒井抱一 《夏秋草図屏風》(江戸時代 19世紀)
尾形光琳の《風神雷神図》の裏に描かれた有名な絵ですが、手前の草花しか描かれていません。
次に、草花が前後に配置されている例を示します
3)伊年(印)《四季草花図屏風》(江戸時代 17世紀)
伊年印の《四季草花図屏風》については、根津美術館、出光美術館にもそれぞれ同じ伊年印、同じ題名の屏風がありますが、ここでは画像が手に入る東京国立博物館所蔵品を示します。
どの伊年印の《四季草花図屏風》の草花も、前後二列に株が配置されており、前も後も草花の大きさは同じです。
3)尾形光琳 《燕子花図》(江戸時代 18世紀)
10株程度の燕子花のまとまりが左斜め右斜め気味に横に配列されていますが、各まとまりの中の手前と奥の株は大きさが同じです。
次に、草花以外の事物があるケースを示します。
4)尾形光琳 《八つ橋図屏風》(江戸時代 18世紀)
5)酒井抱一 《秋草鶉図》(江戸時代 19世紀)
適切な画像が得られないので代わりにyou tubeの動画を示します。
きれいな画像は、下記の「文化遺産オンライン」でご覧ください。
この絵では、月と鶉が草花に加わっていますが、草花の大きさは、前と奥で同じ大きさです。なお月は秋草図のモチーフの一つですが、小村雪岱の絵にも描かれています。
以上、江戸時代以前の草花図を紹介しました。しかし最後に次の神坂雪佳の草花図をご覧ください。
6)神坂雪佳 《四季草花図屏風》(1912~1926の間)
色使いはモダーンですが、草花の描写は、古来のやまと絵の描き方に従っています。すなわち、小村雪岱とほぼ同じ時代に生きた神坂雪佳ですら、伝統的な手法に縛られているのです。
それに対して、小村雪岱は、時代に即した新たなやまと絵表現を生み出そうと果敢に攻めていたと云えないでしょうか。
新聞挿絵、木版画
泉鏡花の《日本橋》の装幀で評判をとり、世の中に知られたとはいえ、その部数の大きさによる影響力の強さは、新聞の挿絵にかなうものは無いでしょう。
以上は「雪岱調」といわれる特徴を言い表した代表例ですが、この特徴は特に新聞挿絵に顕著で、当時の多くの読者に受け入れられ、雪岱の名を世に高らしめたというわけです。
まさに、13年前の私は、彩色版画や肉筆画、装幀よりもその新聞挿絵に魅せられました。ただ、それは今から思うと表面的なものだったと思います。
今回は、その「雪岱調」の新聞挿絵の魅力を出品作品でもう少し丁寧に探ってみました。
なお、これまでは作品ごとの紹介でしたが、以下では「雪岱調」の特徴ごとに述べたいと思います。
白黒二諧調の明快な配色
冒頭の「小村雪岱と私」の章で、私は小村雪岱の「黒ベタ」について述べ、鈴木春信の浮世絵との関連を示唆しました。
ここでは川越美術館の「白黒二諧調」という一括りの見方ではなく、黒に注目して、「全面黒ベタ」、すなわち大面積の「黒ベタ」と「部分黒ベタ」に分類して見ることにします。
■全面黒ベタ
下に、今回の美術展で出品された挿絵の中の全面黒ベタの例を示します。
上の出展作品から全面を覆う黒ベタは強烈な印象を受けますが、出展作品以外の挿絵も全面黒ベタの作品が多く、参考までに下に示します。
全面黒ベタではないが、大面積の黒ベタの例を以下に示します。
■部分黒ベタ
全面黒ベタ作品の時と同じように、出展作品以外の例も参考までに示します。
以上、全面黒ベタ、大面積黒ベタ、部分黒ベタの作品例を見てきました。
実は全て新聞の挿絵として紹介してきましたが、後年描き直して版画にしたものも一部含まれます。新聞発表当時と細部の違いがありますが、これから述べる趣旨には影響がないのでこのままで進めます。
さて、「黒ベタ」と云えば、思い浮かぶのは筆墨を使う東洋の白描画です。しかし、線描と黒ベタ塗りの効果を活かしきったものは、日本の「白描やまと絵」の右に出るものは無いと私は思います。なぜなら、それは余白の美とも関連しているからです。
具体的には、12月3日に閉会した東京国立博物館「やまと絵」展でも展示されていた「隆房卿艶詞絵巻」がその代表例です(図23)。
御簾や屏風など調度品が極細の線でアラベスク模様のように描かれているのに対し、男性貴族の冠や束帯の黒、女性の漆黒の髪が、紙の白地に対して美しく映え、得も言われぬ優美を生み出しています。
小村雪岱の部分黒ベタの挿絵は、この白描やまと絵の美の遺伝子を受け継いでいるに違いありません。しかし、この絵からは部分黒ベタを説明できても全面黒ベタを説明することはできません。
それでは、全面黒ベタおよび部分黒ベタの挿絵はどこから来ているのでしょうか?
先に私の結論を述べます。
小村雪岱の黒ベタ以前に、いったいどんな前例があったのでしょうか?実は、私は今年、黒ベタに関して以下の二つの展覧会の訪問記事を書いています。
1)三菱一号美術館「ヴァロットン 黒と白」展
2)太田記念美術館「ポール・ジャクレー」展
さて、冒頭でグラフィック・デザイナーの宇野亜喜良氏の月刊「Pen」の発言を引用しました。
一つは、「新聞印刷におけるベタ黒という観点で見ると、日本の伝統ではかなった」、二つ目は「ビアズリーの絵を”逆輸入”して、印刷×黒ベタというパンチのある絵に昇華させた」という二点です。
私は、当初宇野氏が「ベタ黒は日本の伝統ではない」と云っているように思えて若干反発の気持ちを抱いたのですが、よくよく読みなおすと、必ずしも間違っていないと思うようになりました。
私が推測するに、特に二番目のビアズリーの影響については、雪岱の挿絵が評判をとった直後から言われていたのではないかと思うのです。
なぜなら、小村雪岱は1918年に資生堂意匠部にデザイナーとして入社しており、直近に名声を博したビアズリー(1872-1898)の作品をプロのデザイナーである雪岱は当然目を通したはずだと思われたに違いないからです。
しかしビアズリーの作品は確かに黒ベタですが、大半は部分黒ベタであり、全面黒ベタの作品数は、ビアズリーと同時代のヴァロットンの作品の量に比ぶべくもありません。またその絵画的な魅力を考慮すると、雪岱の全面黒ベタはビアズリーよりもヴァロットンの影響を受けたと考える方が自然だと思います。
ここでは、ヴァロットンの全面黒ベタの傑作《「楽器」の連作》および《アンティミテ》を参考までに示します。
なお、ヴァロットンの黒と白については、絵巻物、日本の白描絵巻、鈴木春信、マネ、ビアズリーの黒と白とを比較しながら詳しく記事を書きましたので、ここでは繰り返しません。内容にご興味のある方は、下記をお読みください。
さて、確かに年代的な順序では、雪岱がビアズリーおよびヴァロットンの影響を受けたとしてもおかしくはありません。
しかし白黒二諧調で似ているるものの、ビアズリーやヴァロットンの黒ベタの質は雪岱のそれとかなり違うと思うのです。特に空間処理のテイストがまったく違うと感じます。いわゆる日本絵画における「余白」の問題と関連します。
私はここで、白黒二諧調から一旦離れ、浮世絵版画の錦絵に注目したいと思います。錦絵創始者の鈴木春信を見てみましょう。すると部分黒ベタ、全面黒ベタの例が豊富に出てきます。
以下に、冒頭に紹介した(図1)の鈴木春信の全面黒ベタ錦絵を再掲載します。
次に、同じ鈴木春信の部分黒ベタの浮世絵版画の例を示します。
ここで、鈴木春信の全面(大面積)黒ベタ版画の黒が全て夜景であることに注目してください。すなわち空間描写に黒が使われているのです。
一方、ヴァロットンの版画はどうか。《楽器》の連作(図24)、《アンティミテ》(図25)のいずれもが夜景(空間)ではなく、室内の陰影に使われているのは東洋と西洋の違いを示しており大変興味深いと思います。
すなわちわが国では、北斎や広重などが陰影を描く試みをするまで、永らく陰影を描くことが無かった(平賀源内、秋田蘭画を除く)のに対し、西洋では、光を描く、特に陰影を描いたことと対応しています。ですからヴァロットンの黒ベタは、陰影を漆黒にまで高めた結果だと見なせます。
それでは、図18,図19、図20の小村雪岱の全面黒ベタ作品を見てみましょう。
あきらかに雪岱の全面黒ベタは、川面の例を除いて夜の闇、すなわち空間の描写です。
以上の事実から、雪岱が影響を受けたのはヴァロットンやビアズリーではないのは明らかです。
それでは、鈴木春信の影響だといえるでしょうか。
影響があると云うためには、1)全面黒ベタの例が鈴木春信以前に存在していないこと、2)同時代あるいはその後の浮世絵師も全面黒ベタを描いていないことの二つの条件がそろわなくてはなりません。
そこで「浮世絵検索」(https://ja.ukiyo-e.org/)で調べてみました。結果を以下にまとめます。
以上のように、鈴木春信以外にも、勝川春章が、全面黒ベタの錦絵を描いていることが分かりました。ですから、小村雪岱の絵が鈴木春信の全面黒ベタから影響を受けていると云えなくなりました。
しかし、私は以下の二つの理由から、鈴木春信の影響だと考えます。
一つの理由は雪岱が描く女性は、あきらかに鈴木春信の美人画と類似しており、雪岱は鈴木春信の描き方を深く研究していると思われるからです。ですから女性だけでなく、鈴木春信の夜景の黒ベタをよく見ていたはずです。
特に重要だと思うのが、他の浮世絵師にない春信の絵の雰囲気と雪岱が目指す方向が同じだった可能性があることです。
例えば女性の描き方を具体的に挙げれば、鈴木春信は多くの笠森お仙の美人画を描いており、小説『おせん』の挿絵を描くとき、小村雪岱は鈴木春信を意識しながら描いたに違いありません。両者を見比べてみてください(図27、図28)。
一方、勝川春章の大面積黒ベタの例を見てみましょう(図27)。
上図では、あえて鈴木春信の夜景と同じ夜景の絵を選んでいますが、春章の場合その数は少なく、実際は右上に示す黒ベタ背景の役者絵が大半です。
いずれにせよ、あきらかに鈴木春信の絵とはかなり趣が違っており、雪岱が参考にしたとは思えません。
実は、一人の浮世絵師の描き方を研究しその作風を自作の絵に取り入れた画家の例をすでに記事にしたことがあります。
その浮世絵師の名前は喜多川歌麿。取り入れた画家は新版画のポール・ジャクレーです。
ジャクレーは、部分黒ベタだけでなく、歌麿が得意とした蚊帳など「透けたモノ」や「画本虫撰」の構図、はたまたシルエット描写や配色など、歌麿の作風全体を自分の作品に取り入れているのではという私の考えを紹介しました。
いわばジャクレーの作品は、歌麿への敬意を示すオマージュになっているのです。
ですから、鈴木春信の作風を研究し、女性の描き方、夜景の黒ベタを取り入れた雪岱の絵は春信への敬意を示すもので同じくオマージュだといえましょう。
なお黒ベタについての最後に、私が好きな二つの作品を示します。
図21の『おせん』雨、図22『おせん』縁側、図27『おせん』庭先など一連の『おせん』の挿絵も素晴らしいのですが、『お傳地獄』の挿絵はさらに凄みを増したような気がします。
例えば、橋の上から女が突き落とされた場面を描いた、全面黒ベタの川面に、女の白い脚が空中に突き出ている最初の挿絵は、残酷さとなまめかしさが同居し、見た瞬間に凄みを感じた13年前の記憶が鮮明に残りつづけています。
また、一転して女の黒髪と男の着物の漆黒、そして入れ墨の模様が余白の白の中に浮かび上がる、部分黒ベタの2番目の図も同じく記憶が残る絵です。
近寄ると、極細線によるお傳の左肩から二の腕が目の前にせまり、たった2本の極細線で描かれているのに、腕の白さとふくらみが官能美としてせまってくるのです。
私の推測ですが、西洋のペン画ではおそらくこの官能美は出せないのではないかと思います。極細線であってもやはり筆によるごくわずかな線の肥痩と運筆の速度を人間の眼は感じ取っているからではないかと思います。
なお春信の絵にはその性質上ドラマ性はありません。ですから、もしビアズリーやヴァロットンの影響が仮にあるとしたら、雪岱の挿絵のドラマティックな部分は、ビアズリーやヴァロットンの絵のドラマ性の影響だと考えてもおかしくははないかもしれません。
以上、全面黒ベタと部分黒ベタに焦点を当てて話を進めてきましたが、今回出展作品および他の挿絵を見て、雪岱は黒ベタ以外にも、新しい工夫を試みているのが読み取れましたので、以下に紹介します。
新しい工夫は以下の3点です。
以下、それぞれについて、例を示しながら説明します。
(1)一回り小さい対象描写
下図に、挿絵における対象を小さく、周囲の空間を大きくとる例を示します。
ここで「線スケッチ」教室のエピソードにに話を変えます。
教室では、まったく絵を描いたことの無い初心者の方でも、習い始めて数回目で、机の上のお皿に盛った野菜、果物を描いてもらうことにしています。いきなりの静物画です。
描き始める前に必ず私は「主役は野菜、果物なので、大きく描いてください。お皿ははみ出してもよいですよ」と説明します。
ところが、皆さん根が真面目なのか、描き終わるとお皿も含め全体を画面に入れて描く方が大半です。また、たまにはみ出すほどに大きく描いた人も、はみ出すお皿の輪郭を変形させて、画面の中に無理矢理入れてしまう人が続出します。
もう少し別の例を挙げてみましょう。
某テレビ局で芸能人に俳句や水彩画などを芸能人に描かせて、先生に採点してもらって競わせる人気番組がありますが、その中に絵手紙のコーナーがあります。
ご覧になった方もあると思いますが、その際、描いたことの無い出演者はハガキの中に描く対象を全て見えるように描きます。すると先生から「もっとはみ出すように大きく描きなさい」というお叱りを受けるということが毎回のように繰り返されます。
ハガキという小さいサイズだからこそ、はみ出すように描かないと、こじんまり、ちまちまとしてハガキを受け取った人はその絵に感激しないという訳です。
むしろはみ出すことにより、描かれていない部分を見た人自身が想像するがために、感動がより深まるという訳です。
スケッチでも事情はまったく同じなのです。
さて、その観点で小村雪岱の新聞挿絵をみてみると、なんと真逆のことをしているではありませんか(図29)。まさにこの節の冒頭で述べた様に、
「対象を通常の絵よりも一回り小さく描き周りの背景(余白あるいは黒ベタ)を大きくとる。」
ことをしているのです。
描きたい対象を小さく描くのは、自らの意思で絵が目立たないようにするということですから、絵の常道から外れるのです。普通は怖くてできません。
ただ、雪岱の挿絵自体は小説が日々掲載された分膨大な数があるはずです。私はその全部見ているわけではないので軽々しく云えませんが、雪岱も他の挿絵ではおおむね対象物を普通の大きさで描いていると思います。
ところが、図29の出典元が「小村雪岱スタイル」展覧会図録であることから分かるように、示した作品はすべてこの展覧会に出品された作品なのです。
対象物が普通の大きさの挿絵はあるものの、小さく描いた挿絵の例が特に多く選ばれています。ということは、これらは出展に値する作品、すなわち挿絵の中でも傑作であると高く評価されたからにほかなりません。
私が魅力を感じた、黒ベタの川面から、一回り小さく逆さまの白い女の脚が浮かび上がる様の『お傳地獄』の挿絵(図28の上段)もその傑作の一つです。
このことは、対象をあえて小さく描き、周囲を大きくとるのは雪岱ならではの手法、雪岱が生み出した手法であることを意味します。
私が思うに、それは新聞小説の挿絵という特殊事情があるのかもしれません。
新聞小説では、周りを大量の活字(戦前は漢字にルビがふってある)で真っ黒に埋め尽くされているので、その中にある挿絵が埋もれてしまわないように、黒ベタ部分あるいは余白をあえて大きくとって読者の注意をひき、次によくみると対象物を見つけるという工夫だと考えることもできます。
しかし、後述する多色刷り木版画でも、同じ手法を使った作品があるので、必ずしも上に述べた理由ではないかもしれませんし、あるいは挿絵でつちかったこの手法を多色刷り木版画に応用したら意外に良い絵が生まれたということなのかもしれません。
いずれにせよ最小限の大きさの対象描写とまわりの大きな空間とのバランスや対象物の絶妙な位置決めは、きわめて高度な空間デザインです。それは日本の絵の伝統の延長にありながら、日本人なら誰でもできるというものではありません。
(2)ハイパー俯瞰
もう一つ、雪岱は日本の絵の伝統の延長上に新しい手法を試みています。
それは、「伝統的な俯瞰の高度よりもはるかに高い高度からの俯瞰」です。例を下に示します。
平安期の吹抜屋台から洛中洛外図に至るまで、その俯瞰構図は私たち日本人にとって馴染み深いですが、風景画という観点で浮世絵版画を見ると、代表的な北斎、広重の版画から、特に水平線が上部または隠れるほど高い上空から俯瞰した絵がいくらでも見ることが出来ます。
ここでは、歌川広重の江戸名所百景の数多い俯瞰の絵から特に高度が高いと思われる絵を代表として下に示します。
図29の雪岱の絵は、広重の絵と一見違いがないように思われるかもしれません。しかし、わずかな差のように見えて大きく違う点があります。
このように高度を一段上げることが、私が「ハイパー俯瞰」とこの項を名付けた理由です。
おそらく、このような雪岱の工夫は前項と同様、新聞紙面を考えた上で、ハイパー俯瞰を考えたのでしょう。前項の「一回り小さく描く」もそうですが、これ以上高度を上げると、見えるのはただのだだっ広い地表面だけですので、雪岱ぎりぎりの線の高さを狙っていることが分かります。ですからそうそう簡単なことではないと思います。
なお余談ですが、広重の高度の高い絵と云えば必ずと言ってよいほど図31、上段左の《深川洲崎十万坪》の絵がよく引用されます。
おそらく《深川洲崎十万坪》の空中の鳶を手前に大きく描く大胆な構図が広重を代表する絵として高い評価を得ているためか、あるいは19世紀にジャポニスムが西洋絵画に大きなインパクトを与えるきっかけを作った人物の一人、サミュエル・ビングが発刊した月刊誌『芸術の日本』の表紙を飾ったためだと思われます。
構図的には、高俯瞰、画面からはみ出るほどの対象の描き方、共に日本の伝統に根ざしていますが、どちらかというと後者が評価されているように思います。
しかし、今回この記事を書くために『名所江戸百景』の高俯瞰の絵を調べたところ、私としては『名所江戸百景』の絵は好きで、繰り返し見てよく知っていたつもりなのに、図31の《深川洲崎十万坪》以外の絵はまったく印象に残っていなかったことに気づきました。
そして自問自答するのです。「もしかしたら自分は名所江戸百景の絵を世間の評判で見ていたのではないか」と。
あくまで想像ですが、雪岱の当時でも欧米の広重の見方や日本の権威者の意見が世に広まっていたと思うのです。
雪岱はそれらには影響されず、日本の伝統的な高俯瞰の風景画を見事に描いている広重や北斎の絵を自分の眼で咀嚼し、新しい工夫をしてみようと思ったのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、やはり雪岱はただものではないと云えるでしょう。
(3)小さきものの散らし、撒き
この項の見出しは分かりにくいかもしれません。具体的にお見せします。
図32の二つの挿絵は共に今回の美術展の出品作品ではありません。実は、展示されていた多色刷り木版画作品から、この「散らし」を知りました。次の節で示すべきですが、この項で出展作品と他の多色刷り木版画の例を併せて示します(図33)。
「散らし」は日本美術の伝統構図の一つですが、小さきものをとりあげて、絶妙な間隔で、まばらに散らす独特のデザインはこれも「雪岱調」と云えるのではないでしょうか。
この「散らし」は、江戸の女性の着物の柄の一種、「小紋」を連想させます(ほとんど無地に見える「江戸小紋」ではなく、小さく見える「小紋」)。
これも「雪岱調」の江戸情趣を感じさせる助けになっていると思うのですが飛躍しすぎでしょうか。
木版彩色版画、肉筆画における特徴
上で述べたように木版彩色版画の多くの「散らし」構図の例を紹介しましたが、雪岱はそれ以外に「挿絵」で試みた多くの新しい工夫を木版彩色版画においても適用して魅力ある作品を生み出しています。
以下それらの事例と、「挿絵」では述べなかった新しい工夫を紹介します。
■美人画
上図では「挿絵」の項で述べた「鈴木春信描く女性」似の女性描写、「部分黒ベタ」を有効に使っています。下段の2枚では、さらに「女性」の姿を「一回り小さく」描く方法も併せて使用しています。
■人物不在の三部作
さて、上に示す3枚の彩色木版画は、小村雪岱の展覧会ではまるで三部作のように必ず出展されているように思います。今回の展覧会においても出展されていました。
それはなぜなのか、おそらく彩色木版画の中でも小村雪岱独自の画風を示しているからでしょう。
ではそれは一体どこから来ているのでしょうか、思いつくままに述べてみます。
上記内容を以下補足いたします。
まず1)ですが、小村雪岱はすでに見てきたように、挿絵が鈴木春信の女性の描き方、黒ベタの効果に影響を受けているので、彩色木版画においてもそうだと思われるかもしれません。
しかし、鈴木春信の彩色浮世絵版画には、花鳥や鉢植えの植物の絵以外はすべて人物が描かれていて、誰もいない室内を描いた例はありません。
一方、私の記憶が正しければ、誰もいない室内を描き、しかも人の気配を感じさせる絵を描いたのは歌川広重が初めてのはずです。
それは、下に示した「名所江戸百景」の絵です。
なお右の絵は、障子の裏の影は人物のシルエットであり、人物を直接描いていないので、右の絵も人物がいない室内の絵の例として加えました。
それでは、雪岱は広重の絵に影響を受けたのでしょうか? 私はそれは違うと思います。
広重の場合は、いずれも障子や柱の端に、着物や食事など、人が何かを行いつつある、あるいは行い終えたあとのモノを、ごく自然な形で置いて示すのに対し、雪岱は、図36の左の二つの絵では、人が使う楽器(鼓、三味線)や調度品(文机と文房具入れ?)を、室内の真ん中に、しかも畳の縁に対して平行に置いていることです。
それはあくまでデザイン的配置で、人が使った後あるいは使いつつある状態とは直接関係がありません。3枚目の《雪の朝》では、灯りのついた窓が人間の存在を示しますが、これも広重の人間の存在の示し方と異なるやり方です。
これらの3枚の絵では、楽器、調度品、窓で人の存在を示しつつ、しかしそれらを一回り小さく描いて、周りを広くとる、前述した雪岱調の方法で表現しているのだと考えます(理由の2)の説明になります)。
次に3)の《青柳》の柳の表現について補足します。
枝垂れた枝に細長い葉が付いた柳の木は、丁度秋草図のススキのように、それだけでやまと絵を想い起こさせます。
柳は浮世絵版画においてもかなりの頻度で使われる気がします。実際、手元にある本で見ても葛飾北斎や歌川広重の名所江戸百景も描いています。把握した範囲ですが、その例を示します。
両者ともに、十分成長した緑の葉が枝にびっしりと付いた柳と、芽吹いたばかりの小さな葉が付いた二種類の柳を描いています。
以前の記事の中で、樹木の描写について広重は樹木をその種類が分かるほど写実的に描くのに対し、北斎は、風景画の中の樹木はデフォルメする傾向が強く両者の樹木は対照的だと書きました。
ただ柳について、さすがの北斎も写実的に描かざるを得なかったようです。どの絵も広重と似たような描き方です。特に風のそよぎに対する枝のなびき方、たわみ方を両者はよく観察して描写していることが読み取れます。
それでは鈴木春信はどうでしょうか。図39に代表例を示します。
どの柳も、まだ成長しきっていない葉がまばらに枝についています。しかし、枝のたわみは様式的でやまと絵に見られる意匠性を感じます。
全体にどこかはかなげで北斎や広重と感じが違います。これが春信調というのでしょうか、
さてここで雪岱です。図35の《青柳》の柳を見てみましょう。
あきらかに枝のたわみは春信同様に様式化されています。雪岱は春信の柳に倣っているばかりか、柳の葉をもっと短くしてしまいました。まるで芽吹いたばかりの葉です。
さらに雪岱はこの柳の枝を画面全体に垂らし、枝越しに室内を見るという「すだれ効果」も適用しています。もちろん北斎も、広重も、春信も、柳を用いたすだれ効果は用いていないのです。
なお、すだれ効果については、東京国立博物館「やまと絵」展で展示された雪舟等楊作《四季花鳥図屏風》についての次の記事で紹介しましたのでご覧ください。
いよいよ最後の色彩に関する4)の説明です。
図35)の3枚の絵の彩色を見て、どこか鈴木春信の彩色版画と共通の印象を受けないでしょうか。
これまで例を示してきた鈴木春信の浮世絵版画の彩色をご覧ください(図1,図26、図28、図37)。 全体に何だかはっきりしない色で、しかも色数が限られています。悪く言えば「くすんだ色」、よくいえば、「色調が柔らかく、古色の情趣があり、シックな色合い」とでも云えましょうか。
私が興味を持ったのは、畳の緑です。図35の《青柳》、《落葉》ともに、畳の緑が目にやさしく入ってきます。 それは鮮明な緑ではなく周囲の茶の背景とよく馴染んでいます。
そしてこの畳の緑は、図26の鈴木春信の部分黒ベタの浮世絵版画の代表例、および図28で紹介した鈴木春信の《笠森お仙》の浮世絵版画に描かれた畳の色とほぼ同じ色合いなのです。
そのことは、図36の広重の「名所江戸百景」の鮮やかで華やかな畳の緑と比較すれば、納得されると思います。
この緑を含め春信が用いた色は少なく、他に茶色、赤も茶系の赤、薄赤(ピンク)ですが、雪岱は青を除けば春信の色をほぼ踏襲していると言ってよいと思います。
春信の「古拙」ともいえる色合いや限られた色数は、当時の絵具の種類と制約から来ているのだと思います。
すなわち植物性染料絵具を主体とする春信の絵は、全体にやわらかい印象で、後代の北斎、広重の浮世絵版画がベロ藍を駆使した鮮明さと対照的です。
以上から、私は雪岱は少なくとも三部作に対して、春信の浮世絵の色調を採用したと推測します。これに黒ベタ描写を加えると、私には鈴木春信へのオマージュとしか思えません。
最後に
これまで漫然とみていた小村雪岱の作品ですが、「やまと絵」展を見た直後でもあり、また出展数が少なかったこともあり、じっくりと作品を見ることが出来いろいろ気づく点が多い展覧会でした。
結論を言えば、小村雪岱というアーティストが、その作品はいわゆる純粋アートの範疇のものではないにもかかわらず、作品に常に新しい手法を組み入れていたことが確認できました。
世上に言う「鈴木春信の継承者」だけではなかったのです。それどころか、日本の伝統だけでなく西洋の技法も加え、常に革新的、斬新的な工夫を注入して独自の芸術を築きました。
あくまで私的な意見になりますが、小村雪岱の革新性、斬新性について今回気づいた点ををまとめ、この記事を終えることにします。
(おしまい)
本記事に対する補遺1および補遺2を記事にいたしました。ご興味があればご覧ください(1月25日記)
前回の記事は下記をご覧ください。