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花に嵐の映画もあるぞ(邦画編)。

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わたしの好きな映画を、「褒めること」意識してつらつら書いていきます。 取り上げる映画は、時にニッチだったり、一昔前だったりしますが、 そこは「古いやつでござんす」と許して、ご容赦…
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#バイオレンス

犬死にする男たち。東映実録「博徒外人部隊」「暴力街」「大阪電撃作戦」三本立て。

70年代東映実録路線が今なおギラついているのは、男たちが死にきれずにのたうち廻り無様な死に方を遂げるところを、堂々と遠慮せず活写したからだろう。 カッコ悪く、強くなりきれない男たちが、むごたらしく犬死にしていく。 その死に様の見事さを、今回は三人のスターについて一作品ずつ、紹介しよう。 鶴田浩二、斬り死に。 深作欣二監督「博徒外人部隊」 まずはスタンダードに、深作欣二監督作品からいこう。 血が――狼どもを呼び寄せた!海を渡った黒背広の大集団を、長期ロケで描いた現代任侠ヤ

翼の汚れた十二人の使徒=無敵の人が暴走する戦争アクション「特攻大作戦」。

「十二」という数値は、西洋文明において重要な意味を持つ。 すなわち、ペテロ、ヨハネ、アンデレ、セベダイの子ヤコブ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、ユダ(ヤコブの子、別名タダイ)、熱心党のシモン、イスカリオテのユダの一二人=キリストの高弟の数。 法廷ものの傑作「十二人の怒れる男」がいまなお胸を打つのは、人が人を裁く、という非常に困難で、しかし高邁な使命を担わされる、巡礼者であることを見事に描き切っているからだ。 では、その担わされる任務が汚れていた

サム・ペキンパーとドン・シーゲル、凡作や失敗作をバネに巨匠に上り詰めた、二人三脚。

「目を覆いたくなるほど凄まじい暴力を描く」 との代名詞が似合う 70年代ハリウッドを代表する映画監督にドン・シーゲル(1912年〜1991年)と サム・ペキンパー(1925年〜1984年)がいる。 このふたりはセットで語らなくては行けない。なぜなら、ニュー・ハリウッドの作家、遅咲きの作家、バイオレンスの巨匠、という共通点があるから。そして、それ以上に、この二人は師弟関係にあった、という重要なつながりがあるから。 彼らの映画づくりへの執念、原動力は、どこから生まれているのか。

「プラネット・テラー」と「デス・プルーフ」のグラインドハウス、しっちゃかめっちゃか二本立て。

「プラネット・テラー」と「デス・プルーフ」。 このふたつはタランティーノ監督とロドリゲス監督のふたりが好む1970年代から80年代のB級映画のオマージュとして製作された作品で、フィルムの傷や、リールのダブりや飛びによる画像ノイズや音割れを、時代考証を徹底し忠実に再現したものとなっている。 その味付けでロドリゲス監督はゾンビものである「プラネット・テラー」、 タランティーノ監督はスリラーものである「デス・プルーフ」を製作した。 そしてこの二本は「グラインドハウス」=アメリカで

キレた男はおそろしい。無敵の人となるダスティン・ホフマンの「わらの犬」。

誰しも、「世間の常識」というものの内、一点はズレを有しているもの。 人は、そのズレというものを、周囲に隠して生きている。 一番人には隠しにくいズレは、怒りのタネだ。本人にとっては至極真っ当な理由で怒っていても、「なんで怒っているのかわからない」恐怖と不安を周囲には植え付けることとなる。 怒るべき時に怒らず、怒る必要のない時に怒る。 自覚しているタイプなら、まだいい。 問題は、自覚していないタイプの人間だ。 1971年製作のアメリカ映画「わらの犬」は、 この手の人間が周囲に