キレた男はおそろしい。無敵の人となるダスティン・ホフマンの「わらの犬」。
誰しも、「世間の常識」というものの内、一点はズレを有しているもの。
人は、そのズレというものを、周囲に隠して生きている。
一番人には隠しにくいズレは、怒りのタネだ。本人にとっては至極真っ当な理由で怒っていても、「なんで怒っているのかわからない」恐怖と不安を周囲には植え付けることとなる。
怒るべき時に怒らず、怒る必要のない時に怒る。
自覚しているタイプなら、まだいい。
問題は、自覚していないタイプの人間だ。
1971年製作のアメリカ映画「わらの犬」は、
この手の人間が周囲にいたら…の不気味さを、「良い奴が悪い奴をぶちのめす」一見すればカタルシスのドラマの中に、抉り取ってみせる。
監督はサム・ペキンパー。主演はダスティン・ホフマン。
ともに70年代が全盛期:脂に乗ったふたりが、この種のニンゲンの怖さを描く。
平和主義を信奉する若き物理学者デイビット(演:ダスティン・ホフマン)。
彼は暴力が横行するアメリカを捨て、妻のエミー(演:スーザン・ジョージ)の故国イギリスの片田舎に移り住む。
しかし、どう見てもうだつの上がらないこのメガネ男子の称する平和主義とやらは、マハトラ・ガンジーが言う「非暴力による抵抗」とは真逆の位置にある:要は事なかれ主義、自分ごと以外への無関心でしかない。
だから、片田舎の若者たちに軽蔑され直々にバカにされても反論しない。
だから、妻のエミーが彼らから乱暴されても気づかない。
我慢しているわけではない、気づかないのだ。自分にしか興味がないから。
ヨレたスーツを着たダスティン・ホフマンは、「卒業」のベンジャミンよろしく、上っ面だけは良い子ちゃんを、地に足ついた感覚で演じてみせる。
ネックセーターが印象的なスーザン・ジョージは「自分の夫がアレだったことに」片田舎に引っ越して初めて気づき「この人と果たして一緒にいられるだろうか?」という恐怖に、怯える。怒りのツボが分からない人が側にいる恐怖。
もちろん、本作は70年代の映画だ、サム・ペキンパー監督だ:ディビッドが銃をぶっ放さないで終わるはずがない。だが、ディビッドは動かない。
イギリス特有のどんよりした曇り空、何か起こりそうで何も起こらない不穏な感じを目一杯充満させ、そしてラスト20分で、怒涛の展開に雪崩れ込む。
ディビッドが「あるきっかけ」でスイッチが入るのだ。
それは「周囲の軽蔑」への反発ではない。
彼はヘンリーという青年を家に匿う。
彼をリンチにかけようとする若者たちの総攻撃を受ける。家の中になんとしてでも入り込もうとする、敵。
マイホームというのは、自意識の延長線。家に入り込むのは、自意識を壊しにかかる敵。「自分の領域を侵害された」それが引き金になって、彼はキレるのだ。
最後の手段を選ばない殺しは凄まじい。
招かざる訪問者が来るや、ショットガンをぶっ放し、熱した油を上から浴びせ、獣用の罠で敵の首を砕き…。
訪問者たちを皆殺しにした後、ディビットは
Jesus, I got 'em all.
「やり遂げた」と呟く。別に、事なかれ主義を脱し、まともな大人に変身していくわけではない。彼は、何も成長しないまま、妻を残して、「あーすっきりした」と夜の闇の中へ消えていく。
不正とか侮蔑といった「分かりやすい悪」に沸点を持たず
自意識を侵犯するものに、ブチギレる。
怒りの沸点が、どこか、他人とずれている男。
ペキンパー監督の有名な「ワイルドバンチ」とは真逆、残虐さの中に美学を見せることもなく、ことをなす前もなした後も何らスッキリさせる理由を与えず、「確かに敵は倒したけど…」とモヤりとさせて映画は終わる。それがコワイ。
※本記事の画像はCriterion公式サイトから引用しました。