見出し画像

「語り口」は「空気」に抗えるか? ーー加藤典洋『敗戦後論』を再考する

さて、今日は加藤典洋について書こうと思う。これは昨日の記事の続き「でも」ある。独立して読むこともできるけれど、できればさかのぼって読んで欲しい。

加藤典洋の『敗戦後論』は、戦後50年の節目に当たるタイミングで発表された論考で、歴史認識問題や憲法9条の問題に代表される戦後日本社会のアイデンティティをめぐる混乱に、一つの解決策を提案することを目的にしている。その回答とは、「新しい主体」を立ち上げることだ。そのために加藤はまず、日本国内の戦没者を追悼することを提案する。ときに侵略の尖兵として、あるいは侵略に対する因果応報の結果として、正当に弔われない日本の戦没者の尊厳を回復する。「その上で」日本の侵略の犠牲になった、アジア各国の犠牲者を追悼する、というものだ。ポイントは現代風に言い換えれば「先に」自国の犠牲者の正当化を行うことにより、国内の「損なわれた」感情をケアすることだ。これは、國分功一郎『中動態の世界』や、彼の熊谷晋一郎との対談『責任の生成』での議論とも親和性が高い。つまり、因果関係を可視化して、そう選択「させられてしまった」側面を正しく認識し、誰もか加害者であり、被害者であることをフェアに認識することによってはじめて、人間は加害責任を認識できる、ということだ。

この加藤の提案は、当時左右両派から激しく批判を受けた。右派からは、最終的にアジア各国にあらためて謝罪し、その犠牲者を追悼するという加藤の結論は戦後民主主義的な「自虐史観」の枠組みから逸脱するものではないという批判を受け、左派からはこの加藤の提案は、結果的に歴史修正主義者たちの「自分たちもまた犠牲者だったのだ、したがって加害責任を一方的に追求されるのは間違いだ」という「開き直り」に悪用される、というものが主流だった。加藤の議論の直接的な影響は少なかったように思うが(当時僕は高校生だったので、ちょっとリアルタイムの「空気」みたいなものまでは分からない……)、実際にその直後の1996年に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、今日のカルトな保守運動のルーツが生まれているのを考えると、この左派の危惧は妥当だったように僕は思う。つまり、誰もが加害者であると同時に、被害者でもあることを強調することは、たしかに加害者にその責任を自覚させる効果も期待できるが、同時にそれと同じくらい「自分の加害はやむを得ないものだった」という無責任への逃避も引起こす。國分-熊谷の議論は、むしろ後者を抑制し、前者へと導くために何が必要かを考える議論だと位置づけられるべきなのだ。

國分-熊谷の議論については、12月に出る『庭の話』で詳細に取り上げているので、そちらを読んでもらうとして、加藤についての議論に戻ろう。

上記の文脈で、加藤をもっとも批判した左派に高橋哲哉がいる。加藤はこの高橋の批判に、「語り口の問題」という視点から反論する。加藤はハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』を記したとき、アーレントのイスラエル政府やそれを支持する国民の世論をユーモラスに揶揄する文体を、彼女の友人だったショーレムが批判したことを取り上げる。ここで、アーレントはユーモラスな「語り口」で、アイヒマンという民族(共同体)の敵を悪魔化し糾弾することで一体感を得るイスラエル社会に警鐘を鳴らす。アーレントはアイヒマンの罪を認め、極刑にすら賛成している。しかしこの共同体の中に生まれた文脈は、アイヒマンという存在の実体を把握することから裁判を遠ざけてしまっていると指摘する。アイヒマンという存在を悪魔化し、前もって想定されていたイメージ(狂信的なナチス信奉者)に当てはめてしまうと、裁判中に彼が見せた「出世欲に取り憑かれた小役人としての側面」を見失ってしまう。それは全体主義という20世紀最大の問題の本質を掴むことから、人間を遠ざけるとアーレントは考えたのだ。そして加藤はアーレントのこの「語り口」が、当時のイスラエル社会の硬直した「共同体」の物語を相対化するうえでは必要だったのではないか、と述べる。

つまり、加藤は高橋の自分への批判こそが、まさに誰もが被害者/加害者である因果を顧みない思考の産物で、アーレントの「語り口」の価値を理解しないショーレムのそれと同じものだ、と反論したのだ。

僕はこの加藤の再反論に、「半分だけ」同意する。なぜ、もう半分は「しない」のか。それは端的に言えば加藤の言う「語り口」を優先する方法は、たとえばここで挙げた例で言えばイスラエルの民族主義のようなトップダウンのイデオロギーの生む共同性の解除には有効だけれど、戦中の日本のような(そして今も古いタイプの日本企業やお役所、古い体質の業界のような)ボトムアップの「空気」の支配に対しては抗えない……というかこの「語り口」こそが「空気」そのものだと思うからだ。

吉本隆明-糸井重里が、スターリニズムから連合赤軍までのトップダウンのイデオロギーが人間を思考停止させる恐ろしさに抗うために、「語り口」を重視して「正しさ」を退ける選択をしたことは前回の記事で述べたとおりだ。しかし「語り口」を優先し、「何が正しいか」を問うことは、その場から立ち上がる空気に対して「ダメなものはダメ」という力を削いでしまう。

ムラのまつりがある。まつりの内容はムラの有力者たちのやりたい内容に、「空気」で自然と決まる。しかし弱い立場に置かれた人が、場の空気が固まりかけたとき、それは自分は嫌だと発言することは場の空気を乱すことになる。少なくとも、それは洗練された「語り口」ではない。彼は必死に「それでは自分は割を食ってしまうので嫌だ」と震える声で金切り声を上げる。それはユーモラスに洗練されたものでもなければ、他のメンバーを気持ちよくさせる説得的なものでもない。しかしその彼はそこで、必死に声を上げるしかない。こういった異議申し立てを「語り口」を重視する思想は結果的に排除してしまう。

ここから先は

788字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。