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「傷」と批評
今日は「傷と批評」というテーマで考えてみたい。話の枕にするのは戦後日本人の男性的自意識、みたいな問題だ。今日は友人に付き合って、駒場の日本文学館で三島由紀夫展を見てきたのだが、そこで考えたこと……は後日改めて書くとして、今日書くのはそのための露払い的な話でもある。
出発点になるのは村上春樹的な男性性の問題だ。石原慎太郎的な「強い自分が女性を守る」的なナルシシズムに対し、春期のそれは「弱い女性に自分が必要される」タイプのナルシシズムだと言える。どちらも、女性を「所有」することで自信をもつという点では共通している。
つまり家父長制の(戦後日本的な)延命のための表面的なマイルド化が村上のそれだったと言える。こうして考えたとき、家長への憧れを引きずったオールドタイプの男性性が、どうにかして「家長」的な存在になる欲望を温存させていくための運動が、村上春樹からセカイ系への流れだった、と説明できるだろう。
しかしこのセコい欲望の問題は、80年代の時点既にフェミニズムにより指摘されていた。日本国内の巨大なジェンダーギャップに支えられて、21世紀初頭までは生き延びた村上的マチズモだが、さすがに2010年代になると完全に旗色が悪くなり、村上作品の中でも全面化しなくなっていく。しかしそれと引き換えに彼が90年代以降掲げた「デタッチメントからコミットメントへ」、つまり現代における倫理の問題を考えるという開かれた姿勢も一気に後退してしまう。男性性の確認と社会化を切り離せないあたりに、戦後日本人男性の分かりやすい「限界」が露呈しているのだが、こういうのはフジテレビ的なものと一緒に(さすがにそろそろ)崩壊していくような気もする。
さて、その上でまず思考を進めてみたいのは、まず村上的な「家父長制の軟着陸モデル」を回避した上で、どういった対幻想が現代社会においてポジティブに機能するのかという問題だ。要するに、『庭の話』を書いた今の僕は対幻想を足場にする方向では考えない。これは村上までの「所有」の自己幻想から、現代のリベラルな「関係性の対幻想」すらも、あまりロマンチックに持ち上げる気になれない。それが、僕の立場なのだ。
その理由は明白で、はっきり言ってしまえば「弱い」側に立って考えているからだ。
人間は人間とかかわりあって、傷つけ合うことで成長するのだ……といった陳腐なお説教を、僕は間違っているとは考えない。それが陳腐なのは、「夏よりも冬が寒い」くらいの自明なことを、ウットリとロマンチックに語っているからだ。僕が指摘しているのは、その「ありふれた成長」のための前提条件を問う視点が必要だということなのだ。人間同士が触れ合い、ときにぶつかり合い、その結果として共生の作法を洗練させる……といえば聞こえは良いが、その過程で人権が決定的に損なわれたり、人生を踏みにじられてしまっては元も子もない。言い換えれば、「家族こそ究極の他者である」的な言説が、結果的に家父長制的なものの温存に作用してしまっては意味がない。しかし都合よくこの視点は忘却される。重要なのは「共生」が有効に働くための外部の条件で、共生の成功例の素晴らしさをロマンチックに語っても、その人の自己愛が満たされるだけだろう。
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