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一日一鼓【2度目の10月】

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暑さも、緊張も、声援も、疲労も、何も感じない数分間。 そういう時間を生きたことがある。 ただ息をしていた訳ではなく、確かに生きていた。 それはまるで「凪」。
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母と父はノートとペンのようだと思うことがある。

ペンを走らせる時に摩擦が生まれることがあっても、読み返す頃には涙が滲む手紙のように濃厚な歴史になっている。
そういう関係をこの脚とあの青い場所で築くことができたらよかったのだけど
私とブルータータンはノートとペンにはなれなかった。

母が小説家になったのは私が生まれるよりも前のこと。
父はそのもっと前から母の物語が好きだったそうだ。
母は時々、温かい歴史を話した。
父が登場するその話が私は好きだった。
でも、父がいない今、それが歴史か物語か見抜くことはできない。
母はきっと、まだ隣にいて欲しかったんだと思う。

「取材、一緒に行く?」

そう声を掛けてきたのは新作の構想を練っている最中の母だった。

「今回の本はどうしても読んで欲しい人がいるの」
と、意気込む母の誘いを無下にはできず、カーディガンに手を伸ばす。


軽い気持ちで付いて行ったそこには
待ち侘びていたはずの青が広がっていた。

暑さも、緊張も、声援も、疲労も、何も感じない数分間。
そういう時間を生きたことがある。
ただ息をしていた訳ではなく、確かに生きていた。

それはまるで「凪」。

凪の世界で覚えているのはこの脚が刻む音だけ。
あの数分間で刻まれた音は今も体の奥で響いている。

青を待ち侘びている。