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【伝統工芸に学ぶ教育論】第8章:感性
この章では、感性について書き綴る。
感性とは・・・
様々な定義づけはできるだろうが、私なりに解釈したものを述べていく。一生懸命に生きていても、その日常の流れに飲み込まれてしまうと、感性という言葉とは無縁の生活に引き込まれてしまう。
「では、どうすればいいの?」
そんな疑問から考えてきたことをご紹介させてほしい。
8-1:21世紀は、感性の時代
矢野経済研究所 矢野弾氏は、このように語っている。
「21世紀は、心と感性と存在感の時代である」
他方では、このようなベストセラー本もある。
世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
感性、美しさへの意識などが、注目され、時代を生き抜く上で、重要であると位置づけられている。
感性とは、印象を受け入れる能力。感受性。また、感覚に伴う感情・衝動や欲望。とある。
感じたり、それを受け入れたり、つかみどころのないもののようにも読み取れる。また、日常では、「感性がある」「感性がない」など、そんな言われ方を周囲の人からもらうこともある。
私が思ったのは、ある種、
「感性とは、これまで生きた人が作った尺度である。」
ということ。
自分が感性があるかないか、美しさへの感受性があるのかないのか、それは、他者から言われるまでわからないのではないだろうか?
人と比べて初めて、
「私は、感性がある(ようだ)」
と認識できると思ったのだ。
ただ、感性があればいいのだが、なければどうすればいいのか?
そこで私は、提案をしたい。
「工芸品に触れる日常に、感性を鍛えるチャンスがある」
エリートが感性を鍛えているようだが、有名な絵画、クラシック、茶道、など方法はあるだろう。この作業、
「そもそも、これまで人類が “美しい” “素晴らしい”と評価したものを次の世代の者が、感性を寄せていく」
作業に過ぎない、のではないだろうか?
そうであれば、先人たちが守り、受け継ぎ、直し、開発し、発展させてきた、「工芸品」も「感性を寄せていく」「感性を鍛える」対象の一つではないかと考えた。歴史ある物に感性を寄せていく毎日を過ごすことで、今の自分とは少し違うものの見え方があるかもしれない。
8-2:感性を鍛える-工芸品との対話-
感性とは、物事の美しさや価値を感じ取る能力。これは単なる個人的な感覚にとどまらず、歴史や文化によって磨かれ、育まれた「尺度」として機能していると述べた。工芸品は、その感性を鍛えるための優れた手段の一つであり、毎日、工芸品に触れ、使い、洗い、愛で、鑑賞し、感謝し、保管することによって、感性は自然と研ぎ澄まされていく。
工芸品は長い歴史を背負った「形」であり、そこには職人の技術と美意識、そしてその時代ごとの価値観が込められている。工芸品を通じて感性を鍛えることは、単に美を享受するだけでなく、文化や歴史、さらには自然との調和を学ぶことでもある。
例えば、日本の伝統工芸品に触れることで、四季折々の自然の美しさや、それを表現するために用いられる素材や技法、人の心への理解が深まるのである。このように、工芸品に対する感性を日々育むことで、私たちは美しさをより深く味わい、理解するチャンスを毎日得ることができる。
8-3:エリートが感性を鍛える
感性というものは、単なる個人の好みによるものではなく、時代や文化、そしてエリート層によって磨かれてきた「尺度」によるものとも言える。歴史的に、感性を鍛える役割を担ってきたのは、教育や文化的なリーダーである「エリート層」であった。彼らは芸術や哲学、文学などに対する深い理解と感受性を持ち、その感性をもって社会の美意識を導いてきた。特に日本においては、茶道や華道をはじめ、伝統的な美意識を育む場で感性が鍛えられてきた。茶道における「侘び寂び」の感性や、華道における空間を愛でる感性、自然への感謝は、ただの個人の感覚ではなく、歴史を経て洗練され、引き継がれてきたものと言える。そして引き継がれてきたということは、あらゆる時代において、そのあらゆる時代における人々から支持をされてきたのである。引き継がれてきたということは、意味がある。
このような感性は、鍛えても即効性があるものではないだろう。植物に毎日水をやり育てるように、ぬか床を毎日かき回すように、漆を何度も重ねて塗るように、日常生活の中で繰り返し育まれ、次第に深く刻まれていくものである。だからこそ、今に時代に「感性」は重要であるのかもしれない。情報は調べればいくらでもアクセスでき、回答のスピードが勝敗を分ける。だが、人の意識、成長、感性などは、時間をかけていく必要があり、今こそ、他者との差を生み出す尺度こそ、感性なのかもしれない。
8-4:カノン進行と工芸品-「なんかいい!」-
私は、15年以上電子オルガンを習っていた(最後の方は、おしゃべりしかしていなかったのが、情けないが)。音楽はクラシックに始まり、POPなどあらゆるジャンルとその歴史がある。1,000年以上あるだろう。
「カノン進行」をご存じだろうか。
クラシック音楽をはじめ、今でもよく用いられる和音の流れ(組み合わせ)で、このカノン進行を使っている曲は、人々に受け入れられるそうだ。人々が自ずと「美しい」「心地いい」と感じるものなのである。
「なんかいい!」
という感覚は、芸術や工芸品の世界でも見られる。工芸品においても、何世代にもわたって受け継がれてきた美意識や形状、技法が、使う人に自然な「美しさ」を感じさせる。例えば、日本の茶碗のデザインや、漆器のシンプルな美しさは、何百年も前から変わらない「型」の中にあり、それが時代を超えて「なんかいい!」という思わせてくれる。もはや、受け入れられていることで、感情が湧くこともないほどの、日用品となっているかもしれない。これらは、音楽のカノン進行のように、形そのものが人々に美しさを伝える普遍的な「美のフォーマット」として機能していると言える。感性は文化や歴史の中で磨かれた「美の累積」によって刺激され、私たちを育てている。工芸品もまた、そうした美の累積の中で、私たちに美しさや心地よさを感じさせる存在なのである。
8-5:日本人の感性を守る役目-真善美と「无有好醜」の仏教思想-
日本の感性は、長い歴史の中で育まれてきた美意識によって支えられている。「真・善・美」という概念はである。その反対は、偽・悪・醜。偽か真か。善いものか、悪いものか。日本文化においても重要視されており、その中でも「美」は特に強調される要素である。しかし、日本の美意識には「美」と「醜」の区別が曖昧なのである。これは、日本の自然観や仏教的な無常観が影響しているからとも考えられている。
仏教には、「无有好醜(むうこうしゅう)」という思想がある。これは、美と醜に絶対的な区別はなく、両者は本質的に同じものであるという考え方。この教えによれば、見た目の美醜にとらわれず、物の本質を見つめることが重要とされ、日本の感性は、こうした仏教的な教えの影響を受けており、侘び寂びの精神や、不完全さの中に美を見出す感性が発展してきた。工芸品においても、完璧であることが必ずしも美しさの条件ではなく、ひび割れた茶碗に価値を見出す「金継ぎ」のように、壊れた部分に新たな美しさを加える文化が存在する。これは、美と醜が単純に対立するものではなく、そのどちらにも価値があるという感覚が、日本の美意識に深く根付いていることを示している。
今、世の中は、「正義か悪」「正解か不正解」か、評価をはっきり求める傾向が強い(西洋的な主義によるだろうが割愛する)。是非、白か黒かの間の何万通りの白でも黒でもない色を楽しめる感性を追求していただきたい。私は、人生を豊かにすると信じている。