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心の豊かさを取り戻すための一手『伝統文化茶道』に学ぶ詫び寂びの教育観(前編)~茶道はどのように受け継がれてきたのか?~ー『日本人のこころ』35ー

こんにちは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


私事ですが、
夏休み期間も多忙を極め、
あわただしい毎日を過ごしております。

その中で、
新しく「茶道」を始めました。


日々様々なことに追われる日々ですが、
その中でも毎朝、お茶を点てて、
静かな環境の中でお茶をいただく習慣を大切にして、
自分の心を整えて志事に取り組んでいきたいと考えています。

さて、
今回は「茶道」の歴史についてお話をしていきます。

今回もよろしくお願いいたします。







1)「茶道」はどのようにして受け継がれてきたのか?~茶の伝来から完成まで~




「お茶」の歴史は、
紀元前2700年頃の中国大陸にあった国で、
薬として飲まれたことから始まったとされています。

お茶の木は中国大陸南部、雲南省から四川省にかけた山岳地帯の原産です。

紀元前59年に書かれた史料には、


四川省・成都(せいと)の奴隷の仕事の一つとして、
歩いて2日かかる武陽の街までお茶を買いに行く


と書かれてあり、

少なくともこの頃には、お茶が飲まれていたことは確かなようです。

伝説として、
紀元前2700年頃、
医療と農耕の街の術を人々に教えた帝王である神農(しんのう)が、
野草とお茶の葉を食べていたと伝えられています。


我が国に伝わったのは、平安時代でした。

当時の中国大陸にあった唐に最新の文化を学びに行った留学僧が
お茶を持ち帰ってきたことが始まりと言われています。

別の資料では、
お茶の種、苗は8世紀、
我が国が奈良時代だった頃に、
遣唐使として中国大陸に渡った二人の僧が
奈良の大安寺にもたらしたと考えられています。

奈良時代末期の遺跡からも、
茶釜の風炉(火を入れて釜とかけ湯をわかすもの)が出土しているので
奈良時代にすでにお茶が飲まれていたのではないかとも考えられています。

当時のお茶は大変貴重な品で、
貴族など日本でトップクラスの人々しか
手に入れることができませんでした。

そのため、
広く一般の人々には伝わっていませんでした。




その後、
鎌倉時代に、臨済宗の開祖・栄西
中国大陸から禅宗と一緒に茶の種を持ち帰り、
お茶の粉末を湯の中に入れてかき混ぜる「抹茶法」という
お抹茶を飲む習慣を伝えました。

その後、
中国大陸では「抹茶法」は廃れてしまいました。

そのため、
この時代に栄西が中国大陸に渡らず、
「抹茶法」を我が国に伝えていなければ、
今の「茶道」は生まれていなかったかもしれないのです。


まずは、
3か所の土地に茶の種を植えました。

そのうち、
栄西は宇治の明恵上人にお茶の種を送り
今でも銘茶の産地として有名な京都の宇治茶の起源とも言われています。

これらがうまく根付いて茶園が広がっていきました。

お茶は、

「目が覚めてすっきりする」

「身体にもよい」

と禅宗寺院を中心に伝わり、
のちに日本各地にお茶の産地がつくられ、
徐々にお茶が広がっていきました。


当時のお茶のエピソードとして、
鎌倉時代の3代将軍・源実朝が二日酔いの際、
栄西がお茶を献上して、二日酔いが回復したという逸話もあります。

その時に、
源実朝にいっぱいのお茶ととともに抹茶の効能や飲み方が書かれている
『喫茶養生記』も献上したことから
武士にもお茶が広がり始めました。




鎌倉時代末期、室町時代に近づくと
当時中国大陸にあった国である宋から伝わった抹茶の遊びが、
公家や武士を中心に大流行します。

一般に「闘茶」と呼ばれていますが、
我が国では「茶勝負」「茶寄合」などと呼ばれていました。

簡単に言うと、
お茶を飲んで産地を当てるという、いわゆる利き茶の一種です。

金品を賭けて行われるギャンブルとして鎌倉と京都を中心に流行し、
後に鎌倉幕府の御家人である足利尊氏によって
取り締まりの対象となりました。

このように、
当時はお茶の供給量が豊富であったことがうかがえます。

「闘茶」の流行をはじめ、
14世紀には京都の東寺の門前に
「一服一銭」で抹茶を飲ませる茶屋や、
お茶を背負って売り歩く「荷い茶(にないちゃ)」に出ていた
という記録もあります。




室町時代に入ると、
足利義満、足利義政のような将軍や大名が
中国大陸から伝わった高価な美術工芸品を書院造の広間に飾り、
鑑賞しながらお茶を楽しむようになりました。

「書院」とは、
書斎を兼ねた居間のことで、
床の間や違い棚がつくられたシンプルな和室です。

このような住宅の変化に対応して、
書院の座敷や次の間(隣接する控えの間)で行われるお茶会
一つの様式として発展しました。

それが、能阿弥が確立した「書院茶」です。

能阿弥は、水墨画家として有名ですが、
連歌師、美術鑑定家など多彩な能力をもつ人物でした。

室町幕府8代将軍・足利義政のもとで
唐物の美術品の管理や鑑定を任されていたことから
それらを座敷に飾り、台子(茶道具を置くための棚)を使って
お茶をたてておもてなしをする「書院茶」の作法を完成させました。

「書院茶」は、
わが国独自に考案されたものです。

これ以降、
我が国の「茶道」は中国大陸の影響から
少しずつ距離を置くようになっていきます。

能阿弥に「書院茶」を学んだ奈良の僧侶である村田珠光は、
大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から学んだ
禅の精神を取り込み、

庶民が行っていた地味で簡素な様式を取り入れて、
「侘び茶」のスタイルを創り上げました。

装飾的な唐物を駆使した華やかな「書院茶」から
和物の茶道具を取り入れた地味で質素な「侘び茶」へと大きな転換
を迎えることになります。

さらに、
村田珠光は


①広間などで行われていた茶の湯を
 床の間がついた四畳半の草庵で行う様式をはじめ、

②これまで湯を沸かす際に風炉と呼ばれる置き型の道具を
 使っていたのに対して茶室の畳の一部を切り取って、炉を設けること

などを行い今に続く茶室の形式を生み出しました。


村田珠光が亡くなった後、
大阪・堺の豪商の家に育ち、
若い頃から茶の湯、香道、連歌をたしなみ、
大徳寺の大林(だいりん)和尚に禅を学んだ
武野紹鷗(たけのじょうおう)が、
京都で村田珠光が創り出した「侘び茶」を習得すると、
四条に大黒庵を開き、さらに「侘び茶」を深めます。

不完全なもの、簡素なものに美しさを見出した「侘び茶」の心
さらに推し進めていったのです。




安土桃山時代になると、
このような町衆の中の一人で
武野紹鷗(たけのじょうおう)の弟子である
千利休によって、

現在の「茶道」のかたちの「茶の湯」が完成しました。

千利休は、
それまでのように茶道具をあらかじめ茶室に飾らず、
お点前の最初に運び入れる「運び点前」を始めました。

当時、
多くの人々が茶道具という物にばかり価値を置いていたため、
それを否定し、お点前を通じて主客が精神の修養に没頭できるように
したものだとされています。

さらに、

①以前はただの通路であった露地(茶庭)侘びの美
禅の思想に基づいて形式を定め、

②四畳半が基本であった茶室をより狭い小間にすることを勧め、
二畳あるいは一畳半という極小空間での「侘び茶」を創造し、

全て和物の茶道具で整えた茶席を確立し、
新たに黒い楽茶碗をつくらせました。

黒楽茶碗は、禅を象徴する黒を用いた精神性の表現でもあり、
「濃茶をを練りやすい」「お茶が冷めにくい」「茶碗が熱くなりにくい」「軽さと手取りがちょうどいい」など実用性を考慮した改革でした。

千利休は、
「侘び茶」「草庵の茶」の完成者として歴史に名を刻み、
今井宗久津田宗及とともに
「茶湯の天下三宗匠(さんそうしょう)」とも称されています。

千利休が完成させた「茶道」は、
「利休七哲」と呼ばれる弟子たちを中心に広く受け継がれ、

死後は様々な流派に分かれ、継承されていきました。




江戸時代に入ると、
茶の湯は幕府の儀礼に正式に取り入れられ、
大名や豪商、武士にとってのたしなみとなりました。

この頃から茶の湯は「茶道」と呼ばれるようになりました。
明治時代になると、
上に立つためにはまず「茶道」を習えと言われたほど、
政界人財界人にとって、「茶道」は必須教養でした。

また、
良家の女子が通う学校でも「茶道」が教養科目として
組み込まれるようになりました。

その後、
岡倉天心による『茶の本』がアメリカで出版紹介され、
海外でも知られるようになりました。

現代では、
「茶道」わが国の心や文化を象徴するものとして、
世界でも注目されています。



2)今もなお受け継がれる「茶道」~表千家と裏千家って何がどう違うの?~




もともとはとして飲まれていたお茶が、
社交術となり、精神的なものへと変化してきました。

千利休が生きた安土・桃山時代

毎日戦乱が続き、いつも不安定で落ち着かない時を過ごしていました。

「茶道」は、
その時代の武士にとって心を落ち着かせてくれる唯一の拠り所でした。

現代の私たちも状況は異なりますが、
明日のこともわからない不安な毎日を過ごしています。

武士の心を落ち着かせた
一椀のお抹茶で心を安定させ、ほっと和んでみる

そして、
「茶道」を通して日本人の精神性を感じ取る

現代でも
「茶道」は、
先人が大切にしてきた「和の精神」を伝えてくれている
のです。




「茶道」には、
完成者の千利休を筆頭に、多数の流派が存在します。

各流派それぞれに特徴があり、それを形作った豊かな歴史があります。

千利休の子孫が家元となった流派が、
「表千家」「裏千家」「武者小路千家」の3つで
「三千家」と呼ばれています。

「茶道」の流派は、
細かく分けると100以上あると言われていますが
代表的な流派がこの「三千家」です。

千利休の孫である千宗旦は質素な「侘び茶」に徹した茶人でしたが、
その子供たちがそれぞれの流派を興し、現在に至っています。

千宗旦は、ある時期に決意して屋敷の裏にある今日庵に隠居し、
三男が千家の屋敷と不審庵という茶室を継承しました。
不審庵が表通りに面していたことから
「表千家」と呼ばれるようになります。

そして、
千宗旦が亡くなると、
屋敷の裏にある茶室・今日庵を四男が受け継ぎ
「裏千家」となりました。

もうひとつの「武者小路千家」は、
養子に出ていた千宗旦の次男が後年、千家に戻って興した流派です。
武者小路という道沿いに庵が営まれたのでこのように呼ばれています。


ちなみに長男は、
千宗旦と折り合いが悪く、千家を継ぎませんでした。

血縁で結ばれたこれら3つの千家は、
現在でも千利休の法事の茶事である「利休忌」を持ち回りで行い、
千利休の子孫としての流れを継承しています。


千利休と血縁のない弟子たちが興した流派に、
古田織部による「織部流」
細川三斎による「三斎流」
薮内紹智による「薮内流」などがあります。


古田織部
は、
千利休の一番弟子と言われ、
千利休が亡くなった後は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、
江戸幕府2代将軍の徳川秀忠の茶の湯指南役を務めた人物です。


細川三斎
は、
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と権勢をふるった有力者たちに仕えた大名である細川忠興のことで、三斎は茶人としての名前です。


薮内紹智
は、
千利休と武野紹鷗(たけのじょうおう)のものでともに学んだ仲で、
千利休は兄弟子になります。
後に千利休から相伝を受け、
また千利休の媒酌で古田織部の妹と結婚しています。
ある時期からは世間を離れて洛北で隠棲し、
孤高の中で茶道を極めていった人物です。



「三千家」には、どのような違いがあるのでしょうか?


まずは、お抹茶の点て方に違いがあります。

「表千家」は、
お抹茶を点てずに泡がない部分が三日月状に広がります。

「裏千家」は、
お抹茶は表面全体に細かい泡を点てて
ふんわりとしたできあがりとなります。

「武者小路千家」は、
表千家と同じように、あまり泡を点てません


次に、
茶道具を拭き清めるときに使う袱紗(ふくさ)という四角い布の色
違います。

「表千家」と「武者小路千家」は、
女性が使う袱紗は朱色です。

「裏千家」は、
女性が使う袱紗の色は赤色を使います。


他にも、
お客様に抹茶を出すときに使う袱紗の大きさも異なります。

「表千家」と「武者小路千家」は、
茶道具を清める袱紗と同じ大きさです。

「裏千家」は、
その4分の1程度の小さな古帛紗というものを使用します。


それ以外にも、
お辞儀の仕方や座り方、歩き方、お茶碗の回し方などにも違いがあります。


しかし、
いずれの流派も
「お客様に一椀の美味しいお抹茶を召し上がっていただきたい
という気持ち」
は同じです。



3)茶道の精神は『和敬静寂』にあり




「侘び茶」の祖である村田珠光に
室町幕府将軍・足利義政が


「茶の湯の精神とはどのようなものか?」


と尋ねたことがあったそうです。

その時に、珠光は


「茶の湯は心穏やかに、相手を敬い、礼を尽くす。和敬静寂の心です。」



と答えたと言われています。

「茶道の精神」は、


『和敬静寂』


いう4文字の中に凝縮されています。



『和』は、お互いに心を開き、和やかに周りと調和する心。
『敬』は、自らは謙虚に、そしてあらゆるものに対して敬意を払う心。
『静』は、茶室や茶道具を清潔にし、気持ちも邪念のない清らかな心。
『寂』は、どのような時にも静かで乱されることのない動じない心。



のことを表します。

この『和敬静寂』は、
禅の思想とも深くつながっており、
禅も心静かに自分を見つめなおし、
自分の中の欲を捨てて清らかな心となり、
周囲の人々と接することをよしとしています。

考え方が異なる人々が和をもって生きていくためには、
お互いを認めて、大切に思いやり、
ゆとりある心や丁寧に過ごすことが必要です。

心が揺れて落ち着かないと感じたときには、
「茶道」を通して、自分と向き合う心を整えることが大切なのです。


ある時代には、僧侶たち修行に通じるものとして行い、
戦国時代には、武将が心の安寧を求めて、
あるいは権威を示すために利用した「茶道」。

時代を下ると、女性たちが礼節を学ぶためのたしなみとされ、
今では、ビジネスパーソンの修養法として新たな注目を浴びています。

我が国の社会が大きな変遷をたどる中、
約500年もの長きにわたって継承されてきたという事実は、
「茶道」が時代に左右されない普遍的な価値、
魅力に満ちていることの証だということができるでしょう。

「茶道」は、日本人の精神性が凝縮された道です。

そして、
その道は海外でも広く知られています。

では、


なぜ海外の少なからぬ人が「茶道」を理解しているのでしょう?


次回は

わが国の「茶道」が世界に大きく広まったきっかけとなる

岡倉天心の『茶の本』について見ていきたいと思います。



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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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