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自己の内を見よ、内にこそ善への泉がある・・・マルクス・アウレリウス

思い起こせ、君はどれほど前からこれらのことを延期しているか。またいくたび神々から機会を与えて頂いておきながらこれを利用しなかったか。しかし今こそ自覚しなくてはならない。君がいかなる宇宙の一部分であるか、その宇宙のいかなる支配者の放射物であるかということを。そして君には一定の時の制限が加えられており、その時を持ちいて心に光明をとり入れないなら、時は過ぎ去り、君も過ぎ去り、機会は二度と再び君のものとならないであろうことを。
『自省録』(マルクス・アウレリウス)

2月21日に放送されたドラマ「ミステリという勿れ」のラストに引用されていた、マルクス・アウレリウスによる『自省録』の中の言葉。
なんだかグっとくるものがありました。
個人的には、本当に必要な機会ならば、形を変えて戻ってくることはあると思っていますが。
この「君」というのは誰かに向かっていっているのではなく、自己に対する呼びかけなのだそうです。

マルクス・アウレリウス(121-180)は古代ローマ帝国の哲人皇帝といわれる人物で、ヤマザキマリの「テルマエロマエ」の中では、ハドリアヌス帝に気に入られていた聡明な少年として登場しています。
実際、子供のころから優れた資質を発揮していたのだとか。
勉学が好きで哲学者になりたかったのに、次期皇帝に指名されて悩んだのだと言います。
なにより平和愛好者だったのに、在位中はほとんど戦いが絶えず、その中で自分を省みる瞑想のような時間に書いていたもののようです。

私は古代ローマ音痴なので、ほとんど興味がなかったのですが、2019年にNHKの「100分de名著」にこの『自省録』が取り上げられていて興味を持ちました。2000年も前の、しかも皇帝の座についていた人も、今の人間と同じようなことで悩んだり考えたりしていたんだなぁ、と、まあ当たり前といえば当たり前だけれど、ちょっと驚きをもって番組を見ていたのでした。
「100分de名著」の『自省録』

自己の内を見よ。内にこそ善の泉がある。君が絶えず掘り下げさえすればその泉は絶えず湧き出るであろう。

君は多くの無用な悩みの種を切りすてることができる。なぜならばこれはまったく君の主観にのみ存在するからである。全宇宙を君の精神で包容し、永遠の時を思い巡らし、あらゆる個々の物のすみやかな変化に思いを潜め、誕生から分解に至るまでの時間のなんと短いことかを考え、誕生以前の無限と分解以後の永遠に思いを致すがよい。それによって君はたちまちひろびろとしたところへ出ることができるであろう。

空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない。

↑これはちょっと読みながら笑ってしまいました。善し悪しの判断も主観によるものってことですかね。いやもうそんなことはどうでもいいってことかな。

アウレリウスはストア哲学に傾倒していたそうなので、「思想内容については独創性は無いけれども、表現にはたしかにある」と訳者のあとがきに書かれています。
私はまだ通読していなくて、拾い読みしているだけなのですが、ここに書かれていること、ところどころ今のスピリチュアルといわれる考え方にも通じているので、なんだか馴染み深いところがあって面白いです。

哲学もほとんど勉強していないですが、ストア哲学読んでみたら面白いかな??

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フランチェスカ
書くこと、描くこと、撮ることで表現し続けたいと思います。チップは自分を豊かにしてさらに循環させていけるよう、大切に使わせていただきます。