人類はマゾ?恐れを安心に変えるには。
人類はマゾ?恐れを安心に変えるには。
☆さて、先日の記事では
今の人類はみな、マゾなんじゃないか。
という大袈裟なお話をしました。
また、
悪夢を見た後の「安堵」と
いい夢を見た後の「落胆」のお話を例に
これが、トリッキーであるということもお伝えしました。
今日は、もう少しこの事を、深堀りし
「恐れと安心」のお話をしていきます。
☆おさらいです。
悪夢と、いい夢を比べれば
もちろん「いい夢」の方が、見たいですよね?
しかし、人は必ずしもそのように反応していません。
その後の、
「安堵」か「落胆」か?
こちらの「経験」に基づいています。
安堵の時に得た快楽という、脳からの電気信号を覚えてしまっています。
「偽の安心」です。
この依存症です。
人は、「安心」を常に求めています。
安心の反対は「恐れ」です。
あの人の愛がなくなったらどうしよう。
お金がなくなったらどうしよう。
自分の存在価値がなくなったらどうしよう。
失敗したらどうしよう。
健康じゃなくなったらどうしよう。
そういった「恐れ」というのは
「不安」という「安心できていない状態のこと」
そして、多くの人は
その問題の表層だけをなんとかしようと、翻弄されている。
みな、「安心」したいのです。
☆では、その安心したいという欲求を、もっと掘り下げると?
精神性や霊性という、真のスピリチュアル性という
根源的な領域になります。
もちろん、人それぞれ
今世のうちに、その領域に到達していくのか?
まだ、表層の領域の経験を積むのかは、わかれるでしょう。
ここからは、心理状態の話から、真理のお話になっていきますので
必要な方だけ、目を通されることになるでしょう。
☆「安心したい」
その欲求は、本質的には
「安心の根源は何なのか?」という魂自身の探求です。
誰かからの賞賛という安心も、物質的に満たされる安心も、承認される安心も
それらは、実は魂の自分にとっては、本質ではありません、
安心を知ることは
イコール
「本当の自分を知り、一致すること」
自我と真我の結びつくことで、真の安心を知ります。
言えば、悟りのようなものであり、目覚めのようなものである
至高のサーマディです。
☆魂は安心の、大元を理解しようとしています。
ヨギーや、求道者たちは
その安心が、どこにあり、何であるかを知ります。
最初は、頭で理解するでしょう。
そして、求道の先にそれと「一致」することで
真の安心の正体は「自分の内」にあることを腑に落とすわけです。
今までの地球のサイクルで
それを知ろうとする人は、ごくわずかで
大概の場合は、日常の中で「自分の外」に安心を探してきました。
それが行き過ぎれば大人になっても承認欲求を続け、
自分の魂が本来は求めてもいない事ばかり求めては
延々と満たされないままでいるのです。
☆先ほどの例のような
悪夢のあとの「安堵」は、
安心という快楽です。
脳は、その快楽でドーパミンを出す。
依存症と同じです。
悪夢の時間の方が、長くても
その一瞬の「安堵」を一度でも覚えてしまうと
人は、そのドーパミンの快楽を求めます。
そして、それは「支配」にも使えます。
「恐れ」を与えておけば、その後の「安堵」を人は求めますので。
社会も、そんな感じですが
個々でも、日々それをやっちゃってるんです。
「安堵」のために「恐れ」を自ら、生み出している。
個々が、そのパターンから脱獄しない限り
社会構造もかわらないでしょう。
つまり、恐れの体験の後の「安堵」への依存症は
ほとんどの人類全体で起こっていること。
☆悪夢のあとの安堵は、例えばこんな感じでしょうか?
「あぁ、よかった、愛してるって言ってもらえた」
「あぁ、よかった、お金がはいってきた」
「あぁ、よかった、病気が治った」
「あぁ、よかった、肩書を認めてもらえた」
しかし、それらで得られるものは
全て、一時の自分を安堵させる「有限」なもの。
本質ではないし、いつなくなるかもわからない限りあるもの。
病気でさえもですよ。
「熱を出せば、ママが心配してくれる。やさしくしてくれる」
という「利得」のために、子供はまじで 熱を出すことがあります。
もちろん、子供はそんな魂胆を自分で意識してません。
それと同じです。
「腰痛が治らなければ、頑張れない」
→「頑張って失敗とかしなくていい」という安堵
こんな複雑なロジックのことを、
無意識層で心理的に満足感を得る為に病気を生み出す
疾病利得と言います。
こんな本人無意識の仮病は、非常に多いと睨んでいますが
病気だけでなく、人々の生き方そのものが
「恐れ」生みだし、「安堵」を得るという図式に
なっちゃってんよね。と見えます。
☆もちろん、私たちは
人間関係・物質・肉体の中で生きていますので
その中で、「安心」を感じることは、大事な経験です。
しかし、そもそも全てを信頼できていたならば
その安堵の為に、不安や心配や恐れを生み出し
自作自演する必要もないでしょう。
本質からの安心は、ごく自然な日々の「感謝」であり
「ないない・・欲しい・・欲しい・・・あった!!」と
表層だけで、追い求めるものでも、
「ない」「ある」のコントラストで感じものでもないはずです。
☆私たちのこの世界は、私たちが創っています。
その昔、とても調和していた古代文明は
その安心の根源を、全ての人が知っていて
何かや誰かへの「枯渇感」を持った生き方ではなく
全てがすでに「ある」ことへの感謝の中で、共存していたはず。
それが「無」の中に「有る」のだと、みんなが理解していた。
☆ヴェーダが教えることは、その安心の源が何であるのか?
そして、それこそが自分の内にあるものであり
それを見失っていた「自我」と、その源である「真我」とを
一致させて生きていくための
宇宙の叡智と、ノウハウを教えるものです。
そのヴェーダから派生したものが、ヨーガであり
多くの東洋思想です。
☆安心は、外にはありません。
その安心の源は、自分の内にあり
そして、それが実は「自分の正体」であることが
腑に落ちたならば
頭でわかっているだけではなく、そう生きることが
この地球で、最期にやることです。
もはや、安堵を得るための恐れを生み出すこともありません。
枯渇しないことを知れば、自己防衛のための恐れも必要ありません。
ごく自然に
あとは、自分自身を生きるのです。
☆サッチダナンダ。
自分の存在価値、自分の力や叡智、自分の愛。
これらを、見出すこと。
安堵の為に利用していた恐れの手放しは、これしかないだろう。
その安堵は、いくら「外」に求めても
「有限」という
限りある程度のものしか、得られない。
自分の「内」に、「無限」という
限りないそれは、すでにあります。
それが
無限の宇宙という、自分の正体です。
☆本当の自分に出会うこと。
それは、この地上で名前を持って生きていきながらも
内在では
自由自在に、豊かに、愛としていきる
サッチダナンダな自分です。
地球のサイクルは、「元来」に戻ろうとしています。
マゾも、サドも同じ。
求めているのは、自分の存在や、愛を確かめ「安心」したい行為。
「脱獄」しましょう。
マゾになって、安心や愛を知る必要も
サドになって、自分の存在価値を知る必要もない。
そうではない方法で、それを知ることが出来る。
もう、恐れと安堵のコントラストで、体験する方法を
おしまいにしましょう。
悪も善もない。
悪は善を知るために、善は悪を知るためにというような
二極の対立の時代を終え
「調和」という時代へ向かいましょう。
そのどちらも、本当は同じ「サムシンググレート」なのです。
その正体である「今ココの本当の自分」だけが、真実です。
☆これは、哲学的な話や、心理学、精神世界の話のようでありながらも
今の地球人の大きな変容の時の、目覚めに関わる話。
調和されていた地球に、地球は戻ろうとしている。
人も、この地球の自然の一部です。
地球に同調して行くのか?それとも?
この恐れすらも、見破っていきましょう。
一人一人、本当によく考えてみるタイミングです。
まずは、気づきが起こっている人から
アクションしていきましょう。
この地球は、言動しないと具現化しない次元。
考えたことが、瞬時に具現化出来るのは、4次元以上の話。
ただし、バタフライ効果が発動できます。
小さなアクションでも、全てへの繋がりへの信頼があれば
その小さなアクションは、大きなアクションに繋がります。
ということで!
引き続き
目覚めようスピリッツ
TTTで
お願いいたします!(*‘∀‘)