釣りと現世と魂と ②
釣りの旅と新しい世界
スポニチの若林師匠との出会いは、本当に幸運だったと思う。
いや、今にして思えば、それもシンクロニシティ、引き寄せだったに違いない。
これまで知らなかった様々なフィールドへと同行し、たくさんの魚たちとも出会えたが、
同時に、釣りとは別の世界に於いても大いに視野を広げてくれ、多大な学びをもたらしてくれた。
詳しくは述べないが、師匠は名家の出身でもあった。
しかし、彼はそうした事をひけらかすような人ではなく、いわゆる"身分"や"上下関係"を嫌い、私の事も行く先々で、もう一人の息子であるかの様に紹介してくれた。
それは自分の心の安定に少なからず影響し、封建的な田舎で、実の親やカルト宗教から受けたトラウマの解消にも繋がっていったのだと思う。
本当に感謝してもしきれない。
なんとなく"物書き"に憧れを持つようになったのは、初めは開高健氏の影響だったかもしれない。
その後、カルト教団で作文の基礎を学ばされ、
2年ほど前には、SNSで偶然知りあった、当時、夕刊フジにて執筆していた音楽家からnoteを強く(あるいは強引と言えるほど)勧められ、実践的な文の書き方のレクチャーや校正まで受けて書けるようになった。
でも、実際それを生業とする若林師匠と身近に接し、取材や書斎での様子を垣間見ていたこと、これが一番大きかったのだと思う。
それまで縁遠かった世界に、いきなり引き寄せられたような感覚だ。
今思えば、やはり全て必然だったのだ。
もう一つの趣味、写真についても、
アマチュアの自分とはまるで異次元の、様々なプロスポーツにおける撮影の話、
例えば、未だ一眼レフカメラがそれほど普及していなかった時代、大相撲の撮影現場で、スピードグラフィックと言う4×5サイズの大判カメラとマグネシウムのフラッシュを使った、土俵際での一発勝負から、
プロ野球のナイターが延長にもつれ込んだ時、翌日の朝刊に間に合わせるために、試合終了後ネガフィルムを握ったまま球場から本社へタクシーで滑り込まねばならなかったこと、
球場の外では、巨人の長嶋茂雄元監督のお宅にお邪魔して、一緒に炬燵に入ってたら、まだ子供だった一茂君が、家の中で凧を揚げようとして奥さんに怒られてたとか、
ピッチャーの堀内恒夫氏がまだルーキーだった頃に、投球フォーム改善の為、好意で連続写真をとってあげたら感謝され、それ以来「兄貴」と呼ばれていたこと、
他には学術調査隊がシーラカンスを捕獲して帰った時、その試食会に呼ばれて行ったものの、脂っこくて美味しくなかっただの、
はたまた、嵐山光三郎さんと温泉を巡る企画で、入浴後の記念撮影で撮った写真を見せてもらったら、二人とも腰にタオルを巻いてはいるものの、洗い場のイスに座って撮ったので、中が丸見え(自社現像ならでは、)で笑えたことなど、
普通には見聞きすることのないような面白いエピソードは、枚挙に暇がなかった。
写真学校時代には、あの土門拳氏の娘さんと同窓生だったそうだ。
ニコンのF(伝説的な一眼レフカメラ)が世に出た時、殆どがプロ優先に出荷されていたため、彼女の(お父さんの)コネでそれを手に入れたのだとも話してくれた。
その他、昔、取材先で交換したと言う、大切に保管された膨大な名刺も見せて貰ったが、その中には先代のトヨタの会長のものまであったのには驚かされた。
地方に住んでいた頃の自分にとって、その全ては、まるで「雑誌で読む」ような話ばかりだった。
しかし、東京という"新しい世界"に来て、突如、それは現実味を帯びて自分の前に現れたのだった。
広がる世界
師匠と知り合ったお陰でスポニチに何度も掲載され、地元の釣り師の間でも、その釣りバカぶりは知られる所となっていった。
ある時、芦ノ湖で釣りをしていると、当時入り浸っていた釣具屋の若旦那から携帯に電話が入った。
「あの、露草さん、今どこですか?」
「えッ、芦ノ湖で釣りしてるんだけど」
「じゃあ、明日は空いてます?」
「いや、明日もここでやろうかなと」
「実は今、何か多摩川でドラマの撮影やってるみたいで、突然ADの女の子が店に駆け込んで来て、『誰か釣りを教えてくれる方を紹介してもらえませんか?!』だって。」
「…で?」
「それで、釣りが出来て、そう云う業界の人と普通にコミュニケーション取れそうな人って、露草さんしか思い当たらなくて…」
前にも書いたが、短い間にせよ、ちゃんとオーディションを受けて合格し、芸能事務所に所属していたことがある。
ヤラセがバレて放映中止となった「発◯あるある大辞典」に出たのを、釣具屋のみんなが観ていて、後で色々言われたのも良い思い出だ。
…話が逸れたが、事の顛末はこうだった。
ご存知の方も居られるかもしれないが、かつて「戦◯自衛隊」と言う映画があり、それは後にテレビドラマにもなった。
その監督さんが、古谷一行主演の「釣り◯弁護士」と言うドラマでもメガフォンを取っていて、その撮影に急遽、奥多摩川での釣りのシーンを入れるぞとなり、スタッフは大慌て。
なぜならその場面で釣りをする事になった若いカップルの、彼氏役の俳優は釣りをしたことが全く無く、撮影班も釣り道具を用意しておらず、そもそもその知識を誰も持ち合わせていなかった…
で、先の電話につながるワケだ。
芦ノ湖での釣りよりも、そっちの方が面白そうだなあ、
早々に釣りを切り上げ、翌日は撮影で釣りの指導(道具のレンタルも)をすることになった。
当日、指定された撮影現場の御岳渓谷(奥多摩川上流域)の駐車場に行くと、すでに凄い人数のスタッフたちが慌ただしく機材等のセッティングを行っていた。
ADさんから監督を紹介され、挨拶すると、
「今日はよろしく」
「全く、最近の役者は前もって勉強して来ねぇんだよ〜、頼むよ。」
等と、のっけから愚痴をこぼされた。
自分の聞いた話では、監督のワガママで、直前にこの撮影が決まったのではなかったか…
ほんの少しだけその業界にいた身としては、正に「あるある」な話だなあと、ADさんたちが気の毒に思えた。
実際、俳優さんに準備をしてもらい、スピニングタックルを手渡すと、最初はホントにぎこちなくて大丈夫かな?と思ったが、そこはさすが、役者魂の持ち主で、少しキャスティングを教えると、10投せぬうちに様になった。
それを撮り終えた後、今度は漁協で買ってきた、生きたヤマメを予めルアーのハリに掛け、いかにも今釣れたかのようなシーンを演出して撮る。
まあ、専門の釣り番組じゃないから、こんなもんだよな、と内心思いつつ、撮影は無事に終了。
小一時間で、美味しいロケ弁と、エキストラなどで自ら出演する時より何倍も良いギャラを貰えたのは嬉しかったが、ちょっと複雑でもあった。
エキストラなんて、10時間以上拘束されて¥2000なんて事もあるのに…
因みに後日、そのドラマの放映を観たところ、そのシーンは確か1分にも満たなかったと思う。
一本の作品を創り上げるのに一体どれほどのコストが掛かるのだろうか…
つくづく、"普通" とはかけ離れた世界だなと思った。
縁は巡る
開高健氏の出演している映像作品の中に、
「河は眠らない」というのがある。
それは、巨大なキングサーモンを追って、再びアラスカを訪れる釣行記なのだが、そこに、彼のルアーフィッシングの師匠であり、長年のライバル、そして盟友でもある常見忠さんという方が登場する。
作中のクライマックスで、開高氏は68ポンド(約30.8kg)の巨大なキングサーモンを釣り上げるが、後日譚として、常見氏もそれを上回る大物を仕留めたという、正にルアーフィッシング界のレジェンドだ。
世間は広いようで、思ったよりも狭い…
幸運な事に、自身もアラスカへキングサーモンを釣りに遠征するという、超のつく釣りバカな、地元青梅市の市議会議員の伝で、氏と直に知り合う機会がもたらされた。
憧れの開高氏に縁のある、しかも、ご家族をおいては、一番近しい人、理解者でもあった方にお会いして、直接お話しを伺えるとは、なんという御縁だろうか。
実際お会いしてみると、氏はとても気さくな方で、気取ったところが無く、包容力があり、若輩者の自分たちにも気を遣わせない、優しい眼差しをたたえた素敵な人物だった。
若い頃にはプロ野球でピッチャーもしていたのだという。
しかし、釣りに対する情熱は、並々ならぬ物があり、"忠さんのスプーン" "バイト" などで知られるルアーメーカーを自ら立ち上げ、開高氏が逝かれた後も、長らく日本のトラウトフィッシングの世界で後進の育成に精力的に励んでこられた。
この時、常見氏は "開高氏が見たベトナム戦争" を軸に、平和についてのシンポジウムで公演するため青梅市にいらしたのだが、
その折、彼から直接聞いたこと…開高氏が記者として従軍し、隊がほぼ全滅したにも拘らず生き延びた時のこと、その悲惨さや、帰国後にPTSDで心を病んで苦しんだ事などを語られた。
それらは、従軍記とも言える大作、「輝ける闇」の中にも書ききれなかった話、盟友である彼にしか打ち明けなかった話も含まれていて、
その後で開かれた当地の釣り仲間たちとの食事会の時にも、実は開高氏が、ベトナムからの帰国後に、紀伊半島の海で入水一歩手前まで追い込まれていたとも明かして下さった。
"釣りは自然との対話" と言われるが、
さまざまな理由による心の傷を癒やすため、そこへとたどり着く人も多い。
自然はただそこに有るだけ、裏切る事無く万人を受け入れてくれる。
極度の人間不信だった開高氏が釣りにのめり込んで行ったのは、太平洋戦争後の混乱と貧困、ベトナム戦争で負った地獄の苦しみ等による、トラウマからの逃避だったのではないか。
師匠も子供だった頃、大戦中に軍属の父親に伴って、朝鮮半島に渡っていたと教えてくれたことがある。
ここでは話せないような経験をユーモアを交えて語ってくれたが、その言葉の後ろには、筆舌に尽くし難い、さまざまな苦難もあったはずだ。
常見氏も、戦後間もない頃の桐生で、未だ子供であったにもかかわらず、米軍機によって遊び半分で銃撃されたことを話して下さった。
実際、それで亡くなった人もいるという。
状況は異なれど、サバイバーである自分にも少しだが解るような気がする。
釣りへの執着は生への執着なのかもしれない。
でも今は、両人とも、そして師匠も天に逝ってしまわれた。
そしておそらく、今生を終えても尚、あちらで平和に仲良く釣り糸を垂れているに違いない。
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