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テツガクの小部屋18 プラトン②

・イデア論後半
かくしてプラトンにとっては、イデアの世界(英知界)と個物の現象する世界(可視的世界)が相対峙することとなった。プラトンはイデア界を存在とし、現象界を非存在とする

存在といわれる限り永遠に不変でなければならないと考え、生成消滅するものを非存在とするギリシア人の通念はわれわれに多少奇異な印象を与えるが、彼らが存在というとき、たいていは本質的存在(「…である」)の意味で語られており、現実的存在(「…がある」)の意味で語られているのはむしろ稀であることに留意するとき、奇異の念は解消する。机の存在と彼らがいうとき、「机がある」という意味で語られているのはむしろ稀で、たいていは「机である」という意味での机の存在が語られているのである。

ところで「机である」という意味での机の存在は、永遠不変に机でなければならない。「机である」は「机でない」に対立するがゆえに、机の「である」という意味での存在が机であったりなかったりすることはできない。机の存在、すなわち机であることは生成消滅、変化、運動とは相容れない。したがって生成し、消滅し、変化し、運動するものは、換言すれば、机であったり、なかったりするものは、机の存在とはいえないという意味において、机の非存在と呼ばれねばならないことになる。

これがまたプラトンに自体的存在たるイデアを想定させた根拠でもある。現象における個物、例えばこの机は、破壊してしまえば机ではなくなるし、組み立てればまた机となる。このように机であったり、なかったりするものは、机の存在とはいえないという意味において、机の非存在とみなさねばならない。それゆえプラトンは、生成消滅、変化する個々の机とは別のところに、机の存在を求めざるをえなかった。したがってイデアとしての机が机の存在で、個物としての机は机の非存在であることになる。このように存在と非存在、イデア界と現象界の区別によって、プラトンはパルメニデスの存在思想とヘラクレイトスの万物流転思想を両立可能なものとしたのである。

参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂

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