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テツガクの小部屋19 プラトン③

・想起説
・プラトンの知識論・想起説
プラトンは知識(エピステーメ)はイデアに関してのみ可能であり、現象の可視的世界に関しては臆見(ドクサ)があるにすぎないとした。
それゆえ知識は感覚によっては獲得されないとプラトンは主張する。感覚が提示するものは常にこの人間、この三角形、この机といった個物であり、人間一般、三角形一般、机一般といった普遍ではないからである。

知識はしかし、概念的、普遍的性格を有している。例えば三角形の知識は全ての三角形にかかわる普遍でなければならず、この三角形にのみ限定されるものではない。だがこういった普遍は感覚によっては得られないのである。
また我々は「直」とか「等」といった概念を有しているが、これらも感覚から得られないこと明白である。紙に描かれたどのような直線も厳密には直線ではないし、二つの物体の等しさを厳密に測定することも不可能である。それゆえプラトンによれば知識は全てイデアの直視から獲得されるのであって、感覚から得られるのではないのである。

そもそもある対象が人間とか三角形とか等しいと認知されるのは、人間それ自体の知識、三角形それ自体の知識、等しさそれ自体の知識が先行すればこそであるという。感覚は対象の色や形状や肌触りやにおいは教えるが、その対象が例えば人間であることは教えはしない。にもかかわらずその対象が人間と認知されるのは、それらの感覚を契機にして人間のイデアが想起されるためであるという。このように対象の本質の認識は、プラトンによれば、感覚ではなく、イデアの直視とその想起による。

参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂

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棒線より下は私の気まぐれなコメントや、用語解説などです
↓(不定期)

有名な想起説である。確かに、紙面上に厳密な直線は書けない。それが「直」という概念に至るのは「直」というもののイデアの想起によるのだという。我々は過去にイデアを見ていたということが前提となっていることはお分かりだろう。それらイデアを、感覚から得たものを通じて、想起する=思い出すのである。色や形状など、感覚から得たものをつなぎ合わせて、人間という概念を作りだす、という経緯とは真逆である。先に、感覚ありき、か、イデアありき、か。イデアの想起については、後々、神の問題などともかかわってくるだろう。神は一例だが、要するに、我々が見たり経験したりしたことがないものの概念は、一体いつどのように持ちえたのか、という問題である。イデア論自体は問題が多すぎるが、私個人としては「イデア的なものの存在」を否定する立場ではない。


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