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【エッセイ】小説家ではないけれど

私はまだ若い頃、今のSNSの先駆け的なものに1つ、2つ登録していたが、そのプロフィールに「自称日本一のその日暮らし女」なんて書いていた記憶がある。少しばかり(いや、だいぶ)YOSHIKIさんの生き方についてのエッセイ本などに影響されている感がなくもないが、意味は、賢い読者のみなさまならお分かりのことと思う。

本題に入る前に、YOSHIKIさんの生き方について少し書いておこう。
ファンになり始めた16歳以降、しばらくの間は、エッセイ本からファンクラブ会報のバックナンバー、昔のコンサートパンフ、写真集、などなどを買い集め、片っ端から読んだ。そこで知ったことと、やがて活動再開してコンサートに行き始めてからこの目で見た彼の姿に全く不一致はなく、それは一言で表すと「瞬間の美学」というものであった。

簡単に言えば、短い時間でも濃くて充実した時間を生きる、というものであるが、本当にこの言葉をここまで体現して生きてきた人間を私はほかに知らない。
これは賛否両論あるのは承知の上でだが、例えばライブで、ドラムソロで最高のパフォーマンスをする。倒れる。そこでライブが中断される。
「プロだったらそのあとのプログラムを考えてパフォーマンスして、チケット代無駄にさせるようなことをするな」という意見ももちろんある。だがほとんどの昔からのコアなファンは、彼に拍手を送り「ありがとう」と言う。「余力を残すとか、つまり後のことを考えて少しでも手を抜くなんてことを彼はしない。たとえ今倒れて死んでしまっても、この一瞬一瞬を本当に全力で生きるんだ。それを彼は曲でも表すけれど、実際に体現している」もちろん私は後者の意見の方である。全力だから伝わるのであり、少しでも手を抜いたらファンは見抜く。だから倒れても「ありがとう」なのだ。こんなに全力で瞬間を生きる人間の姿を見せてくれて、ありがとう、なのだ。

だから、これは私の勝手だが、言っていること(歌詞などでもいい)と、やっていること(生き方)が一致しない人間は、私は好きではない。表現者以外でもそうだ。言・動一致しないのなら、言うな、動くな、という姿勢である。


さて、本題に戻り、先日また別の本から、上記「日本一のその日暮らし女」をわかりやすく説明してくれるような一節を見つけた。三島の本を読んでいて「これ、これ!」と唸ってしまうような、ピタリと表現してくれる一節に出会ったのだ。以下、抜粋。

小説家にとって今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた〝文化”が体を通してあらわれ、定着する。その一行に自分が〝成就”する。それが〝創造”というものの、本当の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。
三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。バカいえ、未来はオレに関係なくつくられてゆくさ、オレは未来のために生きてんじゃねェ、オレのために生き、オレの誇りのために生きてる。
言論の自由とか、自由の問題はこの一点にしかない。未来の自由のためにいま暴力を使うとか、未来の自由のためにいま不自由を忍ぶなんていうのは、ぼくは認めない。「欲しがりません勝つまでは」などという言葉には、とうの昔に懲りたはずじゃないか。》
(『若きサムライのために』三島由紀夫著より)

年を重ねるにつれ、幸か不幸か自分のその日その日にできることのキャパシティみたいなものもはかれるようになり、また、今は「生きていこう」と思っているから、そのために、生き延びるために、多少の余力は残しつつ暮らしていこう、なんて思っているにしても、私は決して、これ以上の苦しみはないだろうともがき苦しみ続けた、凄まじき地獄の底の底にいた数十年、一瞬だけを頼りに生き、未来などなかった日々を、忘れはしない。美しくなどなかっただろう、美学なんてものではなかった、だが、一瞬一瞬を生きた。

私は小説家ではないけれど、こんなふうに詩を書いてきたし、今後も詩を書きたいと思っているし、何よりここまで、こんなふうに、生きてきた。




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