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【雑記】誕生日雑感

~写真のケーキは、昨年の姪っ子の誕生日ケーキである。対抗して今年「クマさんのケーキがいい」と風邪のため外出できない私は母に頼んだが「子供用って書いてあって、とてもじゃないが、恥ずかしかったから」という理由により却下された(普通のチョコレートケーキになったらしい)。←ここまで、どうでもいいハナシ。~


誕生日を迎えた。朝早くから、メールやライン、フェイスブック、口頭などで、お祝いの言葉をいただいた。

10代の頃は、誕生日が来てしまうと、また1年過ぎてしまった、という焦りの気持ちばかり働いた。20歳までに自分は何かを残してから死ななければいけないと日々焦燥感が募るばかりだった。

大学構内で大泣きしたのは、20歳の誕生日だった。後ずっとお世話になる教授に出会って、おばあちゃんで、ネコを35匹(当時)飼っている、ギリシャ哲学の権威だったが、その教授にプレゼントをもらい「生きてていいのよ、泣いていいのよ」と言われ、我慢していた何かが爆発したのだった。(何を我慢していたのだろう?)

それ以来、自分の誕生日には「自分を褒める」ようにしている。この一年、よく頑張って生きたね、生き続けたね、と。

だが大学院を出た頃は、まだまだ十分に不安定だった。家庭教師をやりながら、頑張りすぎてメチャクチャになり、路上で大泣き、錯乱して救急車騒ぎや、解離症状の再発や、再入院の話が出たのも、この頃だ。

さらに時は経ち、宅建の勉強をするようになって、ようやく落ち着いてきた。勉強が好きな私には、いい薬になり、いい時間の過ごし方になったのだろう。(といっても半年足らずだったが。)

その後続けて行政書士をとり、事務所も開き、また体調を崩して閉所したものの、以前よりはずっと、周りが見える余裕が出てきて、やっと、私が生きてきた過程で、どれだけ多くの人に、とりわけ両親に、それこそ体を張って、守られ、支えられてきたのかが分かるようになった。人一人が生きる、生き続けることって、それだけでもう、十分に、重大なデキゴトなのだ。

偏差値が全国でトップだった中学受験時代、真っ黒になって白球を追ったソフト部時代、そしていつ抜けられるかわからなかった長い抑鬱時代。友達、仲間、両親、離れていった人たち、恋人、レズビアン仲間、すべての時代や、そこを一緒に過ごしてきた人たちみんなが、私の笑顔とたくさんの涙が、今の私を形造る、一つ一つの部品になっている。

だが、まだまだ人間成っていない。ただひたすらに、精一杯生きること、生き続けること、そうして「私」という人間の生きざまをあらわすことで、少しでも、色んな人への恩返しになっていければ、と思う。

生きざまをあらわす、それは簡単なことではないかもしれない。
表現者の端くれですらない私は、それでも、詩を書くだろう。一篇一篇の詩に、私を映し出そう。
それがきっと、私にとっては、生きざまをあらわす、ということになるのだ。

あのとき、ベルトから首を外さなかったら。
あのとき、呼ばれるままに線路に立ち入っていたら。
今、生きている私は、当然ながら、死ななかったことにより、生きている。
死を選択しなかったからか。生を選択したからか。
生の肯定と死の否定は似て非なるもの、と、いつか書いた。
今の私は、死の否定だけで生きているのか。生を肯定できているか。

死を否定した生き方をする人間の書いた詩と、生を肯定しながら生きている人間の書いた詩は、どこかに違いが出るだろう。

さぁ、私は「どうしたい」のか。「どう生きたい」のか。そもそも本当に「生きたい」のか。「死にたくない」のではなく「生きたい」。「どう生きるべきか」ではなく「どう生きたいのか」。年を重ねても、問は尽きない。生き方も定まらないのかと、子ども扱いされたって構わない。収拾のつかなくなりそうな多くの問を順序だてて組み立て、振り分け、考察してゆくこと。こちらは詩作と異なり、哲学的な作業だが、若すぎず、老いてもいない「今」、今こそ私はこの偉大な問に、真っ向から立ち向かうべきなのではないだろうか。 










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