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【ほぼつぶやき】ロンドン・フィルと 辻井伸行さんの共演@サントリーホール9.11(一応後半)

1曲目 : ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73《皇帝》」 
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 辻井伸行(ピアノ)

今回のライナーノートは、前半と後半が逆になると書いたが、この「一応後半」の方は、だから、2曲演奏された方の、1曲目になる。だが、そもそも、ライナーノートにすらなっていない、感想文にすらもしかしたらなっていない。私の「つぶやき」である。

そもそもの動機はマーラーの交響曲第5番の第4楽章を聴きたかった、それだけであったが、やはり、ロンドン・フィルと、辻井さんのピアノには期待をよせていた。だが、1曲目のこのピアノ協奏曲で、まさかこんな事態になるとは……。

やたら背の高い指揮者、ロビン・ティチアーティに腕を取られて、袖から現れた、背の低い辻井さん。演奏はすぐに始まった。

最初のピアノ一音から、涙が出た。涙はやがて流れ出した。ぬぐう気も余裕もなく、ただ流れるにまかせた。鼻水も出た。何もかも流れるままにした。

この日の席は、2階席の、観客席からみると左手だった。真横に近い。指揮者の表情や、演奏者の動きまで、いつもよりよく見えるが、私の目は辻井さんの後ろ姿や鍵盤や指先にくぎ付けだった。もうそれ以外目に入らないし、オーケストラの音はもちろん聞こえているが、自発的に「聴いて」いたのは、きっとピアノの音だけだった。両眼0.03しか視力がない近視の私だが、涙のおかげで、辻井さんがよく見えた。

「皇帝」という名も、ベートーヴェンの名付けたものではない、らしいが、堂々たるたたずまい、力強さ、スケールの大きさは、この愛称がついたことの、うなずける理由である気がする。

まさに、その力強さ、である。私は演奏の最中から、すでに彼の演奏に「生きる力」をもらっていた。それ以外の、何ものでもない。
力強く、生きていく力……ああ、私は、過去何度も、いや、一度だったとしても、どうして「生きない」なんて選択ができたのだろうか、どうしてそんなことができようものか、というくらいの、いわば、抵抗できない生命力、生への強い意志、そういうものを、ピアノの音からもらったのである。これまでに、こんな体験は、したことがない。
力強い場面はもとより、優しい場面でも、いかなる場面でも彼の指先が奏でる音は、とても美しく、一音一音が、心を動かす。ものすごい心の動きだ。動かされた。奪われた。凄まじい心の揺らぎ方だ。揺さぶられた。どんなに言葉を尽くしても表し切れない。これまでどんな音源でも、こんな揺さぶられ方なんて、全くなかったのに。次元が違う。

そうだ、Roberta Flackの「Killing Me Softly With His Song」が一瞬よぎった。ああ、あの歌ではないけれど、ずっとこの優しく、ときに力強いピアノに包まれていたい。曲が大団円を迎えて、お決まりのカタルシス?違う、このピアノがずっと続けばいいのに。

私は今、涙を流れるままにして、きっと、陶酔の世界にいる。これを感傷と呼ぶのだろうか。自分で常々、真正なる芸術体験は、主知主義でもなく、センチメンタリズムでもなく、なんて言っていたのに、いいお笑い種だ。これは「良い聴き方」ではない、のか?

これが、今が、良くなくて、じゃあ理性だけで聴けなんて言われても、無理だろう。何が真正なる芸術体験だ…。人間、そんなにうまくいかない。本物の、今私がまさに味わっているところの「感動」って、じゃあ、どこに位置するのだろう。

彼は一体、演奏家なのだろうか。何者なのだろう。ベートーヴェンを解釈するとか、理解するとか、そんなレベルではないな、演奏の瞬間瞬間において、彼はベートーヴェンと一体化していたのだろうか。彼の演奏は一体何だったのか。

何だったのだろう、あの体験は。彼は。ピアノは。
一つだけ、勝手に思ったことは、彼はきっと音楽に愛されている、ということだ。
聴いていた私は、生きる力をもらった私は、感謝の言葉しかない。ありがとう。生きる力、なんて、決して言い過ぎではありません。あなたと同じ時代に生きられたことにも、感謝します。また、聴きに行ってもいいですか。

音はずっと、残っています。ただ、ピアノの音だけが……。




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