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谷崎潤一郎「春琴抄」|曖昧な愛にふれながら幸福な生き方について考える

DVとは何か? そんな問いを与えられたと言うのは冗談にせよ、そこに愛があれば暴力は暴力でなくなるのだろうかなどと思ったのは事実であるその思いが筆者自身の性質によるものなのか時代背景によるものなのかは定かでないが、さりとて暴力は暴力として咎められている物語中の描写がある点に鑑みれば、どれだけ時代が移ろおうともそこにどのような関係性があろうとも、第三者から見て暴力に見えるものは暴力として扱われるのだと思い直すそう思い直したところで当人達による当事者世界にあって暴力が暴力として認識されていない点を思い返して、愛があれば暴力は暴力でなくなるのだろうかなどといった冒頭の疑問に立ち返る堂々巡りとはまさにこのことだろう。

谷崎潤一郎「春琴抄(しゅんきんしょう)」|愛とはかくも難しいものかと思いつつ読書感想にさえ悩む

谷崎潤一郎「春琴抄」と眠る犬

「一生恋をしているような関係が良い」そんな結婚生活に憧れる人々が世には多少存在するのだと思うし、そうした関係を実存させられるならば素敵なのだろうと思うけれど、一生恋をしているような関係を保ち続けられるほどに日々の生活も人間の心も不変と無縁なのが普遍的な事実である熱は冷めるからこそ熱たり得るところがあるし、人間の心ほど曖昧として模糊としたものはなく、そうした良くも悪くも分からないものであるから移り気で、あるいは移り気でなくとも移り気に見られて疑心や不信を生むものはないからして、一人の相手に恋し続けるというのは中々どうして難しいものがあるように思われる。

もっとも誰かに恋する心は自分の内の有り様次第と言えるのだから、相手がどれだけ曖昧として模糊とした存在であっても移り気に見えて疑心や不信に駆られるような人間であっても一途に恋する自分の心をひとところに留め置けるのであれば、ある種”一生恋をしているような自分”は保てるように思える相手がずっと同じ関係性で居てくれる可能性は高いと言えないからして”一生恋をしているような関係”を保てるかは疑わしいものがあるけれども自分が恋する心を失わなければそれで良い相手が自分を好いてくれ続けなくても自分以外の誰かと結ばれようとも自分が恋し続けられているならば何ら問題ないそう思えるならばの話である。


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谷崎潤一郎「春琴抄」を読んで何より抱いた感想は『感想が難しい』である。読書家、あるいは谷崎潤一郎をこよなく愛する人間ならば違った感想を抱くのかもしれないが、読書家と言えるほど文学に親しみがなく、谷崎潤一郎の書を読むのはこれが初めてと言って良いほど谷崎潤一郎との距離が遠い筆者にとって、「春琴抄」は読んでも読んでも感想を上手く形にできない作品だった。

本の帯に看過されたわけでないが、本作は猟奇的な愛が描かれた作品だとされる。春琴に対する佐助の常軌を逸するほどの深い深い愛が描かれた物語であり、佐助に対する春琴の猟奇的で、歪で、不格好な愛が描かれた物語である、と。もっとも後者については評論が分かれるのかもしれないが、何を以て愛とするか自体に議論の余地があるので、評論が分かれたところで単一の解は出ず、読者次第という有り体な形が落とし所になるだろう。

春琴と佐助は、互いの婚姻を拒みながらも二人一つ屋根の下で暮らし、子を複数人生んだ。子は全員里子に出し、二人とも一度も以降は子に会わないまま生涯を終えている。そのため二人の間には性的な関係はあった一方で婚姻関係はなく、終始師弟関係のみがあった。それも師弟関係における上下関係は苛烈で、佐助は春琴から日々暴力や暴言を受けながら、盲目の春琴の生活上の世話を生涯し続ける。移動や食事の世話はもちろんのこと、入浴時や下の世話まですべて面倒を見続けた。本作は、そうした二人の師弟の暮らしが訥々と語られる物語である。

そんな物語から愛を汲み取るのは、実のところ中々どうして難しい。見方によれば主人と従者の物語である。それも主人は気性が荒く、言葉や肉体を用いた暴力を平然とする傲慢かつ我が儘な人物と来ている。そんな主人に仕え続け、ひたむきに主人の世話を焼く従者から愛情のようなものを汲み取るのは容易に思えるが、春琴抄で描かれている佐助のそれは、愛情による甲斐甲斐しさよりは、自身の役割に準じる謙虚で敬虔な奴隷然とした姿であり、愛情よりは信仰の情や服従の情の方を強く感じる。仮に現代において春琴と佐助のような二人が見られれば、警察沙汰になっていてもおかしくない。

春琴と佐助が子をなした点から考える日本の少子化対策・婚活支援

話は逸れるが、そのような歪な関係の春琴と佐助が子をなしたのは不思議でないかと思える読者は、とりわけ現代だと多いかもしれない。しかもなした子は一人二人でない。暴言・暴力が飛び交う師弟関係で、しかも互いに婚姻を拒むような間柄でなぜ子どもが生まれるのか。創作にしても非現実的過ぎやしないか。そんな感想が口々に出されてもおかしくない話に思える。しかしながら、そのような関係の二人が子をなすのは実のところ不思議な話ではない。

よく言われている話であるが、日本の場合、結婚した男女は子をなす傾向が見られる。それも結構な割合の男女が子をなしている。それも一人というわけではない。春琴と佐助の間には婚姻関係こそなかったが、それはあくまで契約上の話であり、二人の生活の様子は夫婦のそれである。夫婦にしては上下関係が厳しく、殺伐としたものであったが、外形的には一つ屋根の下で同棲している夫婦と言える。

仲睦まじいかどうかは分からないまでも、互いに互いを必要としていた男女が昼夜を共にしている以上、そこに肉体関係が生じるのは自然であり、避妊手段が乏しかった時代である点に鑑みれば、子の一人二人できるのは不思議ではないというわけである。つまり作者の妄想乙なんて話ではない。こうした話を踏まえると、なぜ我々が生活する現代で、国が少子化対策と銘打って婚活支援をするのか理解が進むのでなかろうか。

避妊手段と避妊の重要性が認知されている現代において、婚姻関係にない男女の同棲で子どもができる可能性は低かろうけれど、結婚という状況さえ整えば子どもを作る男女は多い、ならば未婚者の増加に歯止めをかけて婚姻状態にある男女を増やす婚活支援を進めるのが少子化対策に効く公算があるというわけだ。もっとも昨今は子を持たない夫婦も増えてはいるけれども。

「春琴抄」佐助に見る幸福な生き方

「春琴抄」に話を戻す。師弟という関係で互いを結び、暴言・暴力が飛び交う中でも生涯を添い遂げた春琴と佐助の関係性は、何かあればすぐに離縁してしまう現代では考えられないほどに強い結びつきである。とりわけ、婚姻を拒まれる一方で、弟子として身の回りの世話どころか下の世話までさせられ、ちょっとしたことで虐げられるような立場に置かれていた佐助が、それでも春琴に尽くし続け、しまいには自分の目を見えなくし、盲人となってまで春琴を支え続けたのは、驚愕を通り越し空恐ろしさを感じる。

果たしてそれは愛なのだろうか。盲目的な恋だろうか。盲目的な信仰だろうか。恐らくすべてなのだろう。絶世の美女と生活をともにできる点こそ羨まれる佐助だけれど、第三者から見て彼の生活の実態は哀れまれるほど悲惨なものだった。その一方で、佐助は自身の生活を悲愴なものと捉えていない。むしろ喜ばしい日々を過ごしている風ですらあった。その理由として考えられるのは、佐助にとって一心不乱に尽くせる存在と共に時間を過ごせていたからでなかろうか。

愛する者と共に時間を過ごせるのは幸福に違いない。恋する者と共に時間を過ごせるのも幸福だろう。信仰している対象と共に在れる時間を過ごすのも幸福なのだ。然るに佐助は、春琴と同じ時間を過ごせている、たったそれだけのことが幸せで、だからこそどれだけ春琴から虐げられようとも彼女と共に生きる道を歩んだのだろうし、その生き方に喜びを感じていたのだろう。なるほどそう考えると確かに「春琴抄」は愛が描かれた作品であり、純粋な作品と言えるのかもしれない。


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孤独とは何か? 居場所の在処を探る

人間は、誰しも独りでは生きられない生物だと言われている。いやいや生涯独身のまま生き続ける人間がこれほど増えている時代に何を言うのか、などと思うかもしれない。それはそれで一理あるが、独身であることと独りであることは必ずしも等しくない。何せ独身者の誰もが孤独なわけでない。友人や知人、同僚、親・兄弟、恋人だっているかもしれない。一人であることと独りであることは違うのである。

それならば独りとは何か? 先日、孤独について一つ記事を書いたが、独りとは、繋がりの途絶えた状態であり、それはつまるところ”居場所が喪失した状態”だと考える。独り暮らす賃貸住宅の一室にあなたの居場所はあるだろうか? あると考える人もいれば、ないと考える人もいるだろう。なぜそんな風に回答が分かれるかと言えば、”居場所”とは、ただ自分が居るだけの場所ではないからだ。

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