『出会いがない』を現代にもたらしているものは何か? 川端康成の「伊豆の踊子」から答えを探る|読書場所:花Fe・HATOBA|読書記録
ゆっくりと本を読める場所というのは、現代だと中々ないように思われる。もしかすると図書館くらいでなかろうか。もちろん本は何処でだって読める。読もうと思えば場所を選ばずにゆっくりと読めるだろう。
だが、たとえば喫茶店(カフェ)などの飲食店で、食べ物や飲み物とともに本を楽しみたいとなると、中々難しい印象を受ける。何せ飲食店の多くは、回転率が何より重要な業態で、一人の人間に何時間も居座られると困るためだ。
もっとも実際には「何時間も居られて困るんですよ」と注意するようなお店は少なかろうし、地方や商店街のような場所だと店主と会話を楽しみながら長い時間を過ごせるお店もあるかもしれない。
さりとて、いち客として来訪する身としては、何だか長居するのは申し訳ないなどと思ってしまうのである。何とか注文を続けようと努めはするものの胃袋にも財布にも限界がある。それだけに何とも悩ましさがある。
気仙沼市大島のカフェ「花Fe・HATOBA」で最高のソフトクリームを食す
大島を訪れたのは先日伝えた通りだ。
この日の昼過ぎ、ウェルカム・ターミナルの喫茶店にて休憩とともに読書の時間を取った。選んだお店は、花Fe・HATOBAである。
外側の窓からテイクアウトもできるが、この日は散策の帰りだったため、店内にお邪魔させていただいた。読書の時間を取りたかったのも理由の一つである。
あんみつを頂いている。ソフトクリームのあまりの美味しさに驚いた。筆者は行く先々でソフトクリームを食べるくらいにはソフトクリームをよく口にしているのだが、甘さと爽やかさのバランスが絶品で、ソフトクリームだけ別に頼もうと思ったほどであった。
みつを全体にまぶした後の果物との組み合わせもとても良く、ソフトクリームの爽やかな甘さとみつの濃厚な甘さのマリアージュも素晴らしく、一皿で多彩な味わいを楽しめるあんみつならではの魅力を存分に味わえる逸品だった。
「伊豆の踊子」を読んで考える『出会いがない』を生じさせている原因
さて、読書記録に移ろう。今回読んだのは、川端康成の「伊豆の踊子」である(リンクは広告)。読んだ場所は伊豆諸島ではなく、気仙沼市の大島であるが、何となしに描かれている情景と周囲の景色がうっすらと重なるような心持ちになった。概ね気のせいである可能性は高い。
本書は、「伊豆の踊子」の他、「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」の3作がまとめられている。本書自体は令和4年、つまり2年近く前に出版されており、新たに解説が一編加えられている。令和の時代から見た川端康成作品について解説されている点は新鮮で、中々読み応えがあった。
あくまで筆者の個人的な思いを書くとすれば、本書にまとめられている4作品よりも、令和になって新たに書かれた解説の方が胸打たれたものがあった。もっとも解説は作品があって初めて成立するため、作品自体が良かったからこその感想と言える。
「伊豆の踊子」に見られる袖振り合うも多生の縁の減少を招く『次がある』思想
いつも通り、本noteにおいて作品の解説を書くつもりはない。あくまで、どこまでも筆者個人の感想を書く意向である。「伊豆の踊子」に限れば、過去数多くの映像化をされており、また多くの人々に読まれ続けている作品であるため、解説めいた内容はごまんとある。そちらを読む方が有意義に違いない。
「伊豆の踊子」「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」どの作品も感想に悩む難しい作品に思えた。それは作品の内容というよりは相性によるところが大きいように思える。どれも瑞々しさとその裏にある闇、あるいは病みが感じられる、魅力的な作品に違いない。
だが、どうにも頭や胸にスッと入ってくるような読み下しやすさがなかった。素晴らしい作品だと思うのだが、一方でするりと感想が出て来ない。まるで人間そのものの内を覗いているような気分にさせられる作品群であったように思う。
印象深い、と言おうかある種の納得感や得心のあった点は、「抒情歌」において描かれる愛情の有り様と「禽獣」における愛情を欠いた人間の有り様だろうか。両者は何だか相反するもののようで一致している点もあり、まさに人間らしさを感じさせられる点において、納得感や得心があった。
考えさせられたのは「伊豆の踊子」である。私と踊子が互いに心惹かれ合う様子の微笑ましさとともに細部に見られるどことない闇の均衡が絶妙で、また孤独を拗らせた私が、自己肯定と他者受容を得ていく様子に心打たれる作品だと思う。
一方で、現代を生きる我々の社会を考えたとき、果たして旅の中で出くわした人間に淡い恋心めいた感情を覚え、旅の過程で想いを通じ合わせるといった事象がどれだけあろうか、とふと考えさせられた。
『そんな人間もいるだろう』『旅行先での出会いから関係が発展して結婚に至った夫婦など少なくない』といった声はあるだろう。仰る通りである。だが今回考えさせられたのは、そういった話からほんの少しだけ逸れるので、少し落ち着いて欲しい。
考えたのは、本作で描かれるようなある種の『袖振り合うも多生の縁』が、現代だと乏しいのでないかという点である。つまり、「伊豆の踊子」に見られるような出会いならば、それこそ日々生活している我々にはいくらでもある筈なのだ。
恐らく「伊豆の踊子」が描いている時代と比べて、現代の方が人口は多い。また人々が赴く先など存外限定されているので、本作で描かれているような出会いなどは、日々頻繁に起きていると思われる。
だが、本作に見られるような恋物語は、多くの場合発生していない。日々の生活の中で、我々は存外多くの人々と出会っているにもかかわらず、常に出会いの少なさを嘆き、マッチングアプリや結婚相談所、友人・知人への紹介依頼などに出会いを求めている。
この差は、一体何だろうか。思うに、それは『次の量』でなかろうか。つまり、街角で見かけた魅力的な人物との恋物語を逃したところで、我々は『次がある』と思えるのだ。それこそ、マッチングアプリや結婚相談所、友人・知人への紹介など、次がある。
また、寿命といった面でも、20才そこそこで結婚を意識しなければならないほど、我々の寿命は短くない。40才を超えて尚、結婚の後に出産を望める現代において、やはり『次がある』のである。
現実問題として、SNSなどのメディアで見られる婚活女性を見れば、『次がある』と言わんばかりの考えを持っている人物ほど、婚期が遠退いている。『次などない』といった覚悟で臨む女性は結婚という目的を達せられている。
だが、『次がある』と言わんばかりの考えのある女性は、より良いパートナーという偶像を求めて婚期を後へ後へと押しやっているのである。『次がある』と余裕のない当時において、『袖振り合うも多生の縁』は決して軽んじられず、見逃せないものだったのでなかろうか。
そして『次がある』と誰もが思えてしまう現代は、『袖振り合うも多生の縁』が機能しなくなり、結果的にその存在が乏しくなっていっているのでなかろうか。そんなことを考えさせられたのである。
『袖振り合うも多生の縁』の現象は、何も恋愛や結婚に限った話でもない。仕事だろうと買い物であろうと、ありとあらゆるもので生じている。それは押し並べて『次がある』と思えるためでなかろうか。
余裕のない時代の方が子どもに恵まれていためいた話を先日書いたが、やはり余裕のある現代は、どうしたところで人と人とが結びつき、家族となり子を成し後世へと繋いでいくといった営みをし難くなっているのだと思う。
未婚化・少子化が叫ばれる昨今だが、解決の糸口は存外そうした余裕にこそあるのかもしれない。そしてそれは、何も未婚化・少子化といった問題に限った話でもないのだと思う。
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