道尾秀介「向日葵の咲かない夏」で明るみになる他者を理解することの不可能性|読書記録
文学作品として知られる作品ばかりを取り上げてきた本noteの読書記録だが、今回はこれまでと異なる趣向の作品について書きたいと思う。今回読書記録を記す作品は、道尾秀介の「向日葵の咲かない夏」である(以下リンクは広告)。
2005年に初版が販売されているため、決して最近の作品ではないが、さりとてこれまで本noteの読書記録で記してきた作品群と比べれば、最近の作品と言って良い一冊に違いない。本作はミステリにカテゴライズされる作品であり、好き嫌いが分かれる作品で知られる。
道尾秀介の作品はどんでん返しで知られる作品が多いらしく、本作は中でもどんでん返しのインパクトが大きい作品という触れ込みで販売されている。最も作者の評価も同様かは定かでない。道尾秀介を世に知らしめる端緒となった、ある種代表作と言える作品なのは異論を俟たないと思われる。
主観で語られる道尾秀介「向日葵の咲かない夏」を主観で語る
本noteの読書記録では、作品の解説を行わないポリシーを取っている。解説する程に作者を知らないし、作者(及び作品群)への関心を持っていないためであり、そもそも解説ならばGoogle検索で検索して見つかる解説群を読んだ方が価値が高いと考えるためである。
とりもなおさず、これまで通り徒然なるままに筆者の感想を書いていきたいと考える。もっとも感想というほどに感想の体を成しているかは定かでない。本作になぞるのであれば、あくまで筆者の物語を語るに過ぎないのであって、感想として語られる内容が、真に感想たり得ているか、そもそも感想なのかを第三者が解せるものでないと思われる。
さて、本作を一通り読んで思ったのは、ミステリにカテゴライズされる作品とは言われるが、本作をミステリに位置付けることに正当性があるのか気になった点だろうか。もっとも筆者は特段ミステリにこだわりを持っていないため、一応ながら謎解き要素を含んだ本作をミステリに位置付けることを否定するつもりはない。
一方で、本書の解説でも触れられている”主観”の言にもあるように、本作の謎を謎たらしめているのは”主観”によるものである。つまるところ客観的に物語を俯瞰したとき、本作で生じている謎が謎の外形を持つのかは疑わしく、以て本作をミステリに位置付けられるかは怪しさを孕む。
恐らくミステリに何らかの厳格性を求める愛好家にとって本作はミステリでないのだと感じざるを得ない。一方で、主観によるある種の幻覚性を構成要素としていたとしてもミステリに含まれると考える広義のミステリを受容できる愛好家ならば、本作もまたミステリたり得るのだろうと感じる。
本作が好き嫌いの分かれる作品と言われるのは、描かれている物語そのものについてだと思われるが、ミステリか否かといった面においても本作は好き嫌いの分かれる作品なのだと思われる。さりとて好きも嫌いもない筆者にとっては、どちらかというとどんでん返しの方が気になった。
それというのも先述したように、本作は”主観”だからこそ成り立っている物語である。本作についてどんでん返しが意味する数々の点は理解したが、さりとて主観で形成されている以上、さほどどんでん返しとは感じなかった。それは読み進めながら展開が読めたという意味ではなく、”主観”ならば十分に有り得るありふれた展開の一つにしか感じなかったという意味である。
極端な例を出せば、いわゆるライトノベルのような大衆文芸ならば、このような展開は特段どんでん返しなどと言われることもなく描かれている。そうした展開に至る描写の技巧については大きな差があるにせよ、どんでん返しと言われるほど劇的な転換かというと、そうは思わなかった。
それは本書の解説にも書かれているように、そもそもの世界観が日常からかけ離れているのだから、本作後半の展開にしたところで、取り立てて意外性を持たないのである。”主観”によるミステリがミステリたり得ないと言われる点にも通じるが、何でもありが前提の世界観においては何が起きたところでどんでん返し、大番狂わせのような形を成しがたい。それだけの話である。
人と人は理解し合えない。誰かの物語を他の誰かが知られない真理を考える
『”主観”の物語は、第三者からミステリめいて見える』そうした前提に立ったとき、筆者たちが日々生活している世界は、ミステリに満ち溢れる。何せ、他人が何を考え、何を想い、日々どのような生活を送っているのか、他人という物語は、本人以外に観測できない。
一つ屋根の下で生活している家族だろうと、同じ学校、同じ会社で日中を過ごしている仲間だろうと、自分以外の他者の全てを読み取るのは不可能である。自分と他者の間には、必ず情報の非対称性が生じ、だからこそ日々人々は思い悩み、衝突する。あるいは、彼彼女等に幻想を抱き想いを寄せる。
本作は、ある種そうした人と人との間に必ず介在する差異、各々の物語に着眼点を持った作品と言えるし、上記の台詞はそれを端的に表した言葉だと考える。本作をミステリ小説としてではなく、一人の子供の独話として読んだとき、この台詞が全てで、この台詞に尽きる物語になると思われる(もっとも一人の子供の独話とするならば、後悔の物語になるだろうが)。
そして、我々が生きる現実の世界もまた、この短い台詞によって表されている。つまりこの台詞は、世界のある一面を切り取った真理と言える。相互理解や思い遣りなど、世界は誰かが誰かのことを想い考えることを当然とし、それをある種の基底として規定づけて成立させている。
しかしながら、所詮一人の人間が生きる生涯は、その人間の物語に過ぎない。どれだけ正直さや裏表のなさが是とされ、それを謳う人間がいようが、結局のところ誰もが他者からは窺い知れない物語を生きている。友達想いで知られる人間は友人ではない人間を虐めているし、清廉潔白と名高い人間は清廉潔白を盾に誰かの人生を蹂躙している。
それが現実である。ただ多くの人間、とりわけ被害を受けていない人間からはその物語を見られないだけなのだ。石鹸により殺菌消毒されて咲けない向日葵のように、清浄された物語を見ている人々は、そこに内包された真実の姿を見られない。向日葵の咲かない夏に何が行われているか、真実を知られる人間など、被害者くらいである。
人間は、とかく見たい物語を見たがり、真実の知れない他人の物語に勝手に期待し、勝手に失望する。その残忍さ、その危険性などお構いなしである。そして、他人の真の物語に足を踏み入れたとき、ようやくそこで終わりを知る。そのとき何を想うのかは分からないが、踏み入れられた側は、きっとミチオと同じ道を選びたくなるのだろう。
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