■【より道‐62】戦乱の世に至るまでの日本史_建武新政の瓦解
鎌倉時代から室町時代までの歴史を学ぶと、時の権力者が人々の気持ちの移り変わりを汲み取るのことができなかったことが、ひとつの要因だったのではないかと思っています。よほど優れた聖人君子でなければ、専制政治というものは続かないのでしょう。
古代中国の伝説の聖天子・堯の逸話では、老百姓が「帝の力がなんであろう。居ても居なくてもおなじことさ」と楽しげに歌っているのを見て、堯は天下が平和に治まっている事を悟ったそうです。
専制政治においては、国民が君主を熱狂的に支持するのではなく、君主と無関係であると認識するのが理想なのだそうです。なので、国民の教育のレベルが一定高いと成り立たない政治体制ということなのでしょうね。
すくなからずとも、後醍醐天皇が目指した「公家一統」の建武新体制は、民衆の心が離れ、「鎌倉幕府の世の方が良かった」といわれるほどの世となってしまいました。
後醍醐天皇は、誰のために何のために王道を貫きたかったのか。未来の日本民族のため、子孫のための政治を行っていれば、歴史は変わっていたのでしょう。
それだけ、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず 人は生まれながらに平等であって上下の差別はない」ということが、なによりもの真理なのだと思います。
■室町幕府に至るまで
後醍醐天皇が旗頭となり、全国各地に広がった火だねは燃え広がり、1333年(元弘三年)に起きた「元弘の乱」で鎌倉幕府が滅亡したことによって、建武の新政「公家一統」の世が始まりました。
それは、命を懸けて戦った武士が冷遇され、朝廷に仕える者たちが厚遇されるという事態が起きたということになります。
また、後醍醐天皇に仕えるの周りの公家たちは権力争いに勤しみ、民の「くらし」など目もくれません。すると、北条氏の残党が「建武新体制」の転覆を試む事態となりました。
まずは、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系で、幕府滅亡時に自害をした北条高時の弟を公家の西園寺氏が匿い、大覚寺統と対立している持明院統を通じて政権転覆、後醍醐天皇の暗殺を企てますが、事前に陰謀が発覚して失敗してしまいます。
しかし、北条高時の弟は逃げ延び、全国の北条氏に挙兵を促しました。まるで、平安時代末期に起きた以仁王の挙兵のようですね。
すると、信濃国(現:長野)から北条氏の軍勢が鎌倉を目指して攻め込みました。鎌倉には足利尊氏の妻、赤橋塔子と息子の千寿王がいますので、足利尊氏は、京の都から軍を率いて北条氏討伐に向かいたい旨を後醍醐天皇にお願いしますが、足利氏の勢力拡大を恐れていた後醍醐天皇は、その要求を退けてしまいました。
仕方がなく、足利尊氏は、後醍醐天皇の命令がないまま、佐々木道誉一族と共に鎌倉を目指し北条氏の残党軍を征伐しました。すると、足利尊氏は、そのまま鎌倉にとどまり、ともに戦った武士たちへ後醍醐天皇の許しを得ずに恩賞を与えはじめたのです。
その顛末に怒った後醍醐天皇は、足利尊氏を「朝敵」と定め、新田貞義に討伐命令をくだします。しかし、「公家一統」の政治に不満を持っていた武士たちが立ち上がり、足利軍勢が一気に勢力を増していき、新田軍をせん滅。一時は都に入京を果たしました。
この時、足利氏を支えたのが、赤松則村でした。赤松則村は、「元弘の乱」で命を懸けて、後醍醐天皇の第一皇子、護良親王を支え、挙兵したのに、たいした恩賞を与えられませんでした。その遺恨が、後醍醐天皇に向いたのです。
ちなみに、赤松則村の義理の兄は、楠木正成でした。楠木正成は建武新政権で「三木一草」の一人として、後醍醐天皇に重用されていたので、より一層納得がいかなかったと思います。
一時、京を制圧した足利尊氏でしたが、護良親王の叔父にあたる、北畠氏が東北から援軍に駆けつけると、挟撃ちのカタチとなり、足利軍は駆逐されてしまいました。しかし、それには理由があったと言われています。それは、大儀名分です。
「朝敵」とされたまま、建武新政権を倒したとしても、世は平定されません。武士達が全国各所領を守りながら政治を行い、朝廷がその様子を監視する。誤った道に進みそうになったら、天皇が叱り正しい方向に目を向けさせる。
そんな体制を作りたいと考えた、足利尊氏は、九州に流されていた、持明院統の光厳上皇の院宣をもらいに西に下ったと言われています。
そもそもの、鎌倉幕府倒幕の原因になった、大覚寺統と持明院統の両統迭立問題をここで利用したというわけですね。
両統迭立問題とは、鎌倉幕府が1221年(承久三年)の「承久の乱」で朝廷軍に勝利したときに、二度と反乱を起こさせないよう、皇位継承者を幕府が決めることにしました。
それに、不服だった、代88代・後嵯峨天皇が後継者を決めずに崩御したことで、二人の息子の系統が交互に天皇に即位したという問題です。
後醍醐天皇は、両統迭立問題に納得がいかず、鎌倉幕府を討伐して王政復古を目指したのに、再び持明院統の光厳上皇との勢力争いの図が復活したわけです。
そうなると、大義名分を得た足利軍は強かったです。「朝敵」の汚名もなくなり、九州から京へ向かうと軍勢は、数万に膨れ上がりました。
このとき、足利尊氏に味方したのは、足利一族の斯波氏や細川氏。「元弘の乱」からの朋友、佐々木道誉。後醍醐天皇に冷遇された赤松則村。そして、足利尊氏の従弟である山名時氏等でした。
一方朝廷軍は、新田義貞、楠木正成、名和長年など。すでに、人心を失っている建武新政権に、味方する武士たちは少なくなり、「湊川の戦」で敗れると、後醍醐天皇は退位せぬまま、比叡山延暦寺に逃げ込みました。
1336年(建武三年)に足利一族とともに光厳上皇が京都に入ると光厳上皇の院宣により、弟の光明天皇が即位しました。北朝の2代目天皇が誕生したのです。
さて、この頃のご先祖さまを想像します。1333年(元弘三年)の「元弘の乱」で、後醍醐天皇側についた長谷部信豊は、「船上山の戦」で討死しました。しかし、名和長年や金持景藤が建武新政権で影響力を増したことで、伯耆日野の地の隣、久米郡矢送庄を賜ったのではないかと想像しています。即ち南朝側ということになります。
しかし、1336年(建武三年)には、北朝側の足利尊氏と共に戦った時の恩賞で、備後矢野庄、現在の広島県府中市上下町を知行したといわれています。のちの戦国期に長谷部元信が活躍したといわれる地です。
すなわち、このとき、伯耆国の日野と久米。備後の矢野に山陰の長谷部一族が勢力を持ち、南北朝問題に翻弄されていたのではないかと思っています。もちろん、能登大屋荘の長氏は別系統で存在しています。
日本の歴史と共に、ファミリーヒストリーもどんどん、複雑になってきました。
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