苦悶 ――画像しりとりはじめました(#198)
(#197) ろうそく→「く」→苦悶
やっててよかった苦悶式♪
――いいわけないでござる……
苦悶いいかも♪
――だから、いいわけないでござる……
苦悶イクもん♪
――イケねぇでござるぅぅゥゥッ!!!
先生ぇー!
はい、なんですか?
宿題忘れたお侍くん、
かわいそうだから、せめて下はこれにしてくださーい!
……いや、それもそこそこキツいと思うぞ……(・_・)💧
―――――――――――――――――――(ここから先 9,610文字)
苦悶式……もとい、公文式とは、公文公という教員が大阪で考案した学習メソッドのことである。
個人別の自学自習プリントを配布し、実際の学年に関わらず生徒のその時の実力に応じた学習をしていく、というのが主な骨子。理解の早い子はどんどん先のレベルに進んでいくし、逆に学校での授業にもついていくのがシンドいという子も、レベル相応の問題にじっくり取り組める。そんなトコがメリットだろうか。
くもん教室での学習の主な流れは次のとおり。
その生徒の学力に応じたプリントの配布
解説を見ながら各自問題を解く
全部解けたら採点者のところへ持っていき、採点
解けなかったところをやり直す。すべて正解できたら、次の段階のプリントをもらう
宿題プリントをもらう
自宅で問題を解く
次回の教室では、宿題は宿題で採点してもらい、教室では2.の過程からスタート
実はワタクシ、大学2年の秋口から大学卒業までの約2年ほど、公文式の算数教室 (と、たまに英語教室) でアルバイトをしていたことがある。
上記の生徒ルーティンの3.でいう採点者。そのポジションだ。
採点者のやることは、基本的には、生徒たちが解いたプリントを採点するだけなのだが、何度も繰り返し間違えてしまう子などは傍らにしている解説が理解できてない子であることが多いので、そこから先は家庭教師がやってることとほぼ同じ。理解できるまで懇切丁寧に教えていかねばならない。
私がいた頃の算数教室は、その界隈がわりと教育熱心な地域であったことも手伝い、最盛期は70~80人くらいはいただろうか。
もっとも、学校のように全員が一度に来るわけではない。そもそも子どもたちがくもん教室に通うのは基本的には週2~3回程度。時間も教室が開店wする13時以降なら何時来てもいいというシステムだから、教室自体のキャパも手伝い、フルパックになったとしてもせいぜい20~30人程度だったような気がする。
ただ、生徒たちは随時教室に来て、その日のノルマのプリントを解き、終わったらサヨウナラ~♪だが、サヨウナラ~♪の子と入れ違いでこんにちは~♪の子がやってきて、その日のプリントを……
――て感じなので、お兄さん先生の方は、一度教室に入ったら最後、生徒たちが一人もいなくなるまでほぼ休みなしのエンドレス家庭教師状態^m^💦
教室を経営している60代の先生からは、適宜休み休みやってくださいね♪と暖かい言葉をいただいてはいたが、子どもがプリント持ってきて
「採点して―」
言うてるのに
「ごめん、今、先生、休憩ちうやねん」
なんて断ることなんてできないから、まあ実質エンドレスなのだ( ̄∀ ̄)♪
パイプ椅子に6~7時間ぶっつづけで座り続けてのデスクワークなど未経験だったので、最初はキツかったが(;^_^A
人間、どんな環境でも慣れていくもので、1か月もすると、始めた当初感じていた
肩こりバキバキ💢
首こりゴッキゴキ💢
目の奥ずーん💦……という体調不良にも、それなりに適応していった。
ただ、これがあくまでもプリントの採点だけを機械的にこなし続ける、という感じだったら、多分、そうはなっていなかったことかと。
少しずつ慣れていくにつれ、教える方教えられる方、双方に親近感が芽生えてくるもので、採点していてもその対応は自然と変わっていく。
例えば、特にアドバイス等の要らない全問正解の子にも
「おーっ!すっげえ♪\(^o^)/♪」
「やるじゃん(o^-')b♪」
「きょうは?あと何枚? そっか、じゃあもうひと頑張りやな」
などと気軽に声をかけるようになるし、
無論、できてない子には
「惜っしい!あと1問やったな」
「あらら、まだちょっとできてないかな……なあ、こことか、どういう風に計算したん?」
「おい、これ、裏、全部白紙やぞww (*1)」
と声をかけたり教えたり。
そういったやりとりあっての6時間、7時間というのは、思いのほかツラくないのだ、これが。
人間、やっぱコミュニケーションって大事よねぇ(*´▽`*)……て話である。
もちろん、そういう声かけやアドバイスを1人にだけ時間を割いていたら、すぐに次の子が採点待ちで並ぶことになるので、そこは効率よくさばいていかねばならない。
ケースバイケースだが
「次、○○ちゃん待ってるから、どや?今言ったやり方でいけそうか?」
「う……うん」
(いや、これ絶対、分かってないヤーツやん……💦)
「おし。じゃ、これでやってみよか。
あ、でもな、やってみて、アカン、わからん(*´Д`)……てなったら、先生んトコ誰もおらんようになった時に、ダッシュでくるんやで。ええな」
――と後ろを優先する場合もあれば、
「(後ろに並んでる) ○○ちゃん。ごめんな、今日は急ぐか?5分待てるか? そっか。ありがとうな、じゃ、ちょっとだけ待ってな」
「(今教えてる子に) ほないくで。これはな……」
――と、あくまで今教えてる子を優先する場合もある。
とにもかくにも、必要に迫られて始めた公文の採点者ではあるが、学部に上がってから教職課程をとろうと思ったきっかけの一部には間違いなくなっていたし、自分の身体のことがなかったなら、本気で教職を目指していたかもしれない。
そして、ここでの2年間は、私の人生にとってかけがえのない学びと経験を得られた大切な時間だった、そう確信している。
必要に迫られて――そう、私には返さねばならない借金があった。
ゆえあって私は17歳の春から、それまで育ててもらった親元を離れ独立した。高校も中退するつもりだったが、学費は出すから高校だけは卒業してくれという両親の願いに応え、そのありがたい申し出に甘え、高校には引き続き在籍することになった。
医師から宣告されたタイムリミットを自分なりに「生ききる」目的で飛び込んだ実社会。経緯はいささか複雑にすぎるので割愛するが、私が人生のラストステージに選んだのは、札幌の繁華街ススキノの隅っこの方にある小さなロシア料理店兼任バーへの住み込みの従業員である。
もともと若い頃にやんちゃしていて、ヤの字で始まる自由業に属していたという経歴を持つマスターは、まさにその道の人の雰囲気がその当時も全然抜けていなかった。眼光鋭く口ひげをたくわえ、生半可なツッパリ高校生あたりがメンチ切ってきたとしても、ギロリとひと睨みされるだけで失禁して退散してしまう、そんな迫力が全身から滲み出ていた人だった。
そんな感じだから、初対面の時は、それはもう緊張の極致( ゚Д゚)!。
だが、こちらはもう不退転の覚悟で来ている。
今さら失うものも、もう何もない。
一応、事前にある程度の話は通っている、とは聞いていたが、確認の意味も込め、私は、自分に残された命はマックスでもあと3年らしい、それでも雇ってくれるのか、
真っ先にそう尋ねた。
「話はすべて聞いている」
低いが良く通る声だ。
「逆に俺からも言っておく。俺は、おまえさんの境遇に同情はしない。気の毒とは思うがな。
だが、仮にも金をもらってやる仕事だ。おまえさんの体力が続く限り普通にやってもらう。場合によっては少々の無理も利いてもらう……どうだ、できるか?」
「はい。よろしくお願いします」
「そうか」
簡単なやり取り、時間にしてわずか3分あったかないか。
それが、私と、後に師匠と呼ぶようになったマスターとの最初の出会いだった。
こうして私の高校2年、昼は高校に通い、放課後は店に直帰して仕事、という生活がスタートした。
その後、なぜか一念発起してしまい、こんな自分だができることなら大学に行きたい、そう思うようになった時も
「お前が決めたんなら、やればいい。無論、店の仕事を疎かにするようなら即座に追い出す。いいな」
そう言ってくれた。
言葉はぶっきらぼうで素っ気ないが、この頃になると、それがこの人の全面的なゴーサインなのだということが直感できた。事実、店の仕事を疎かにするな、と言いながらも、高校3年の冬の追い込みの時期は、私の仕事量は明らかに減っていたし、客が途切れると、
「今日はもういい。お疲れさん」
といってさりげなく受験勉強の時間を作ってくれたりもした。
そんなマスターの協力もあり、一世一代のラッキーもあり (経緯の詳細は👇)、私は大学に合格することができた。
駄菓子菓子っ!
1年の初夏、ひょんなことから私はアキレス腱断裂というしょもないケガをしてしまったのだ。
(大まかな経緯はコチラ👇)
この時も、マスターは強面の風貌とはあまり似つかわしくない花束を片手にぶらりと現れ
「馬鹿かおまえ。
まあ、やっちまったモンはしかたない。とにかく大人しく寝てろ。いいか、下手に焦って一日も早く退院、なんて無理だけは絶対にするな。
結局、その無理が祟って治りを遅くするんだ。
いいな。今日からお前の仕事は全力で安静にすることだ」
そう言って、ものの5分で帰っていった^m^
5月の大型連休明けに大学の学費を納入して貯金もスッカラカンな私は、入院してすぐ、実家の両親に電話を掛けた。ケガの報告もあるが、何よりもまず入院費用の無心だ。
残る人生を独立して生活することは、自分の3年を他の人の30年にするためであるのと同時に、両親への金銭的負担を少しでも減らしたい、そういう思いもあったのに、たった2年でもうこのザマだ。
なんと無様でなさけないことか……。
しかし、電話で母から聞いた話では、
私が入院したその日のうちにマスターが両親の下に出向いて事の経緯を説明し、
入院費用は総て自分が持つ、同じ借金するなら私からした方がいい、その方が彼のためになるし、彼の気持ちとしても楽になる。
彼がご両親の元をいち早く飛び立ったのは、それまで育ててくれたことへの感謝と、医療費等でかけた多大な苦労を少しでも減らしたい、という思いから。
ご両親の立場と気持ちとしてはせめて入院費用くらいは面倒見てあげたいと思うだろうが、どうかここは、彼と私のわがままを聞いてほしい――
そう言って頭を下げたというのだ。
病院の緑電話の受話器を握りしめたまま、涙が止まらなかった。
この瞬間から、マスターが私の人生の師匠となった。
――そんなわけで、師匠にはその時の入院費の一切を負担してもらい、経済的にも心理的にも大きな大きな借りができたのだ。
その時の借金は、退院後、月々の給料から天引きすることで少しずつ返済することになった。そこらへんには、師匠に一切の妥協はない。
ホンマに中卒なん?(・_・)?と疑いたくなるくらい、師匠は計算が早いし、またどこでどう覚えたのか、経理簿も手書きではなくエクセルなのかロータスなのか、とにかくPCで作っていた。今ならエクセルどころか経理専門のソフトやアプリはいくらでもあるが、なにせ30年以上前の話だ。
毎月いただく1万円少ない給料袋を手渡してもらう時、
「あと、○○○○円だな」
と、1円単位で念を押してくる。借金をしてるんだぞ、という自覚を忘れさせないためだ、今ならハッキリそう分かるし、そこまで分かっていない当時でも、そう念を押されることに不満や嫌悪感は微塵もなかった。
人生のゴールテープ――20歳――を切ったと思ったら、主治医もびっくりのまさかの延長戦スタートとなった大学2年の秋口、同級生の伝手で、公文式の採点者のバイトがあるんだけどやる?という話をもらった。
運よく命が長らえたことで、もうどんな無理をして死んでも悔いがなくなった私は二つ返事でその話に飛びついた。
こうして、昼は大学とくもん教室、夜はロシア料理店兼バーという、そこそこ目が回る程度に忙しい生活が始まったのである。
それから20年近い年月が経った秋。
師匠が倒れて、入院したという知らせを受けた。
私は、師匠の強い勧めで大学4年の秋にちょっと時季外れの公務員試験を受けさせられ、それまで全く想像もしていなかった公務員という道へ進んでいた。
詳しい経緯は機会があればまた今度――ということで^m^
ただ、師匠の
「おまえ、子ども好きだろ」
短いその一言が背中を押してくれたのは確かなことだった。
でっかいどうな北海道の公務員は、転勤の規模もダイナミックだ。
希望を言わずにどこでもいい、なんて言おうものなら、北の端から東の端、挙句の果てには週2回しか来ないフェリーが命綱、という離島だって普通に異動の範囲内である。
そして、特に希望など言わなかった私は、3年、4年というペースで全道をまたにかけた弾丸ツアーを決行していた。
無論、希望者が殺到する札幌及びその周辺は、希望など出さない私なんかが入れるようなスキはない。
そんなわけで、師匠のもとを「卒業」した私が彼の許を訪れることができるのは、年に数度あるかないかの札幌出張の時や年末年始の長期休暇の時だけになってしまっていた。
だから、この時ばかりは、日々の忙しさにかまけて密に連絡を取ることができなくなっていた自分を心の底から呪った。
札幌にいた頃に懇意にしていた知人からその報を聞き病院に駆けつけた私は、さらにいろいろと驚愕の事実を知る。
師匠そして私が共に過ごした店が、拠所ない事情により人手に渡っていたということ。
その後の師匠の暮らし向きは決して良いものではなく、店という日々の張りあいを失った師匠は、最近では殆ど外に出ることもなく部屋にこもりがちになっていたということ。
蓄えも尽き、本来なら生活保護を受給してもおかしくないくらい困窮していたのに行政の手を借りるのを良しとしなかったのは、ある意味師匠らしいことではあったが。
ただ、その自尊心の帰結が脳梗塞による入院生活というのなら、それはあまりにも過酷な因果ではないか。
病室に横たわっていた師匠は、別人のように生気がなかったが、私の顔を見ると
「おおー元気か。元気そうだな」
と息を吹き返したかのようにその表情を明るくしてくれた。
だが、見るからに痩せたその体は、決して年齢を重ねただけではないそれ以上の何かを感じさせる、そんな痛々しさも同時に見てとれた。
「どうして知らせてくれなかったんですか?」
聞いてはいけないと思いつつ、やはり聞いてしまった。悔しかったから。
あんなにお世話になってたのに。
あんなに助けてもらったのに。
肝腎なときに何もできなかった。ていうか、知ることすらできなかった。
「まあ、な」
照れ隠しのような表情を見せて力なく微笑む師匠。
分かっている。この人は、私のことは何もかもお見通しだ。
たぶん、私が公務員になってから、それまで育ててもらった両親に自分の収入の半分以上は仕送りで渡していることくらい、両親と連絡を取ることもなく分かっているのだ。だから私には知らせなかったのだろう。
それでも、やっぱり悔しかった。
「なにか、欲しいものありますか? 困ってること、ないですか?」
「いやあ、おまえの顔を見れただけで十分だよ。
よかったなあ、元気そうで。本当に良かった」
(良くねぇよ)
こんな身になってもまだ、私なんかの身体を気遣ってくれる優しい師匠に心の奥でそう毒づきながら、泣きそうになるのを必死に堪えた。
師匠の元を旅立つ際に交わした約束ははっきりと憶えている。
「いいか。これからおまえは、本当の意味で社会に出る。今までのように人に恵まれることの方が稀だ。理不尽に思うことも平気で起こる。何度でも起こる。
ひとつだけ約束しろ。どんなにつらくても、どんなに悔しくても、人前では絶対に泣くな。約束できるか?」
――でしたよね。だから泣かない。
その年の人事異動希望調査書に、私は公務員になって初めて異動希望を出した。
「札幌市とその周辺。職種は問わない。規模も問わない」
師匠の予後は思わしくなかった。
梗塞を起こした場所がもともとあまり良くない位置――前頭前野に近い場所――であり、その影響は日に日に進行していった。
本当は、脳の専門的な最新の治療ができる病院へ転院させたかった。だが、できなかった。
実家に月々10万円の仕送りをしている自分に残された給料で師匠のためにできることは、今いる病院の入院費用を工面するので精いっぱいだったのだ。
自分一人なら、医療費以外の生活に限れば月に2、3万もあれば最低限の生活には十分、そんな感じで普段からお金には無頓着だった私は、この時に痛感する。
人の力になるには、お金が要るということ。
この時の自分はあまりにも無力だった。
唯一の救いといえば、異動希望が叶い、春から札幌勤務になったということくらいか。これで、毎日、師匠の元に通える。
しかし、現実は、時として皮肉であり無情だ。
毎日通えるからこそ、つらいリハビリに歪む師匠の顔を見続けることにもなる。
私自身、それまでの人生の中でリハビリのつらさ、苦しさは嫌というほど経験しているので、そばでできることなど何もないことも分かっている。
頑張れという言葉が禁句だということも分かっている。
唯一できることは見守ることだけ。
そして、首尾よくできた時に一緒になって心から喜ぶことだけ。
人間、努力しなければ成功はしない。
しかし、努力したからといって必ず成功するわけではない。
師匠は懸命に努力した。でも、それが報われないことだってある。
それが現実だ。
ちょっとだけ悲しかったのは、梗塞の影響で、徐々に徐々に、師匠は人の区別がつかなくなっていったということ。
感情のコントロールがうまくいかず、ついつい苛立って、私に当たることも増えていった。
思いっきりげんこつで殴られて、それでもそのげんこつに力がなかったことが、余計につらかった。
最期は、もう私のこともあまり理解できていないようだった。
私は、白く小さくなった師匠を、丁寧に、できうる限り丁寧に壺の中に収めていった。
流れるに任せすぎるくらい涙は流れていたけれど、これはセーフやね。
今、一人やから。
人前ちゃうから。
師匠、長い間お疲れさまでした。
本当に、本当にありがとうございました。
師匠のことは一生涯忘れません。
どうも、暇人です。←おっ、いきなりどうした
いえね、先日、とある方の記事でご紹介預かりワタクシ、なんと「暇人」と称されたようですのでw
どんな扱いであれ、人さまの記事にお呼ばれするとは、なんというか
……照れますな(^^ゞ💦←いや、照れてる場合か
まあ、こう見えて (見えるかいな、ネットやぞ)
決してヒマではないですけどね^m^
その時も、こういう言い方をしては恩着せがましくなるから言いたくはないのですが
書きたい記事を書くこともその日はやめて
読んでくださいと言われたごっつ長い記事を読み
自分の感じたこと、思ったことをコメントとして残しました
非常にセンシティブな内容になるので
どう表現すれば、より穏当に、より適切に、より良く相手方に届くか
何度も何度も書き直し
何度も何度も読み返し
こんな拙い書き殴りしかできない身なので
気がつけばその文量は膨大なものになりました
でもそれは、私が常々他のnoteクリエイターさんのコメント欄に残す定番のおちゃらけたコメントではなく
必要最低限の伝えたかった私の意志であり言霊です
逆に言えば、必要最低限でもそれだけ言わねばならないだろうと思えることがあったということでもあります
その文量は500字コメントでゆうに8枚分以上に相当しました
さすがに、いきなりでそれはヘビーやないか(^^ゞ💦
そう思いましたので
無い文才を必死に駆使してコメント5枚分にまでは削ぎ落としました
言いたいことにはとうてい不十分で、文字足らずがむしろ誤解を招かないか
葛藤する部分も多々ありましたが
足りない部分についてはその後のコメントのやり取りの中で随時追加していけばいいかな
そうも思ったので、最終的にその5枚を
読んでくださいと言われた記事への回答にしようと思いました
幸い、その日の仕事は割と早く終わったこともあり
また、毎日手強い冬将軍とのあくなき闘いwも
その日はいつもよりは時間がかからなかったので
20時頃から書き始められたと思います
2時間くらいでしょうか、第一稿は書き終えました
行き過ぎた表現や不適切な内容が含まれてはいまいか
いつもより慎重になるべきだと感じたので
冷却期間を置くために
そのまま、朝方に書きかけてた別の記事を小一時間程度かけて仕上げました
冷却期間――そう、私は正直なところ
読んでくださいと言われた記事には、あまり良い印象を持ちませんでした
どちらかと言えば不快にすら感じました
だからこそ、いつもより冷静にいつもより慎重にいつもより時間をかけ
その方のための言葉を懸命に探しました
案の定、小一時間間を置くだけでも
これはちとキツい表現かな……
まだこのことに触れる段階ではないだろう
あ、これはフツーにヤバいやろ(^^ゞ💦
そんな部分が多少なりとありました
それらを手直しし、また何度も読み直し
実際に投稿できたのはもう0時ぎりぎりの時間帯(^^ゞ💦
ワタクシ、相変わらず文章を書くということがヘタクソなのです(*´Д`)
これが「暇人」がその日「ヒマを持て余して」行ったことの概要です
翌日。
何時頃でしたか。たぶん、まだ朝のうち、朝イチの雪かきから上がって間もない頃と思ったので6時か6時半か……
私のnote友さんからのメッセージで、件のコメントがまるまる全削除されてることを知りました(;^_^A
そして更地となった(笑)その跡地には
記事を読んでくれと言ってきた方と、私とnote友さんを「暇人」と呼称した方との2つのコメントのやりとりが新たに残されていました。
そのやりとりの内容には、正直、うーん……という、なんともいえない感じに^m^
でもまあ、私とnote友さんを「暇人」呼ばわりした方の仰ることも一理あるのです
こちらが良かれと思って書いたことが
書かれた方にとって良いことかどうかは別問題だからです
私はバカチンでアホの子北海道代表クラスですから
そのへんの機微が分かっていないのでせう
だから、人さまの記事のコメント欄に
ついつい、考えようによってはどーでもいいようなくだらないことも長々と書いてしまいます
私にとってnote友さんの記事のコメント欄に書くことは
自分の記事を書くのと同じくらい
いや、もしかしたら記事を書く以上に楽しいのです(*´▽`*)♪
駄菓子菓子っ!
それはあくまで私の自己満足にすぎません
書かれた方にすれば、それは多大なありがた迷惑かもしれないし
「ありがた」すらない、フツーに大迷惑かもしれない
私が普段懇意にされているnote友さん、これから懇意にしていきたいなぁ
(*´꒳`*)と思っているnoteクリエイターの方々は
みな心優しい方たちばかりです
「正直、長々としたコメント、めんどうだなぁ……」
「コメント返したら、また返ってくる!終わんない!キモっ( ゚Д゚)!」
――心の中では少なからずそう思っていても、
口に出してはなんとも言えないなぁ……
せっかく書いてくれてるから、断りづらいし……( ̄~ ̄)💦
そう感じているかもしれません
先に私を「暇人」と称したその方は、そんな時のためにとても役に立つ方法を提案しておられます( ̄∀ ̄)
その方は、私を速攻ブロックしたそうです
(「そうです」というのは、私はその方にコメントしたことがないので、ていうか、note友さんから又聞きで知るまでその方の存在すら存じ上げてなかったので、本当にブロックされているかどうか正確なところは分かりかねますが(^^ゞ💦)
そう――
私を速攻ブロックしてください
でないと、私はアホチンのバカの子日本代表決定クラスなので、自分の愚かさに気づかないのです
ブロックされて実際にコメントができないようになれば
さすがの究極バカオロカも、
あ、これは知らず知らず迷惑かけてるヤーツだ( ゚Д゚)!
そう気づくでしょう。
ぬおーっ!ブロックされただとぅ!
ゆ、ゆ、許せーんッ!
……なんてことは決してしませんから^m^
あ、いかんいかん、これだからダメなのよな(^^ゞ💦
と人知れず猛省し、自分の頭を二、三発殴ったうえで
以後、コメントは控えさせていただきます。
でも
(デモ――って、だから、やめなさいって、そういうしょもない親父ギャグは)
でも、
もしもあなたが寛大に許してくださるなら
コメントを差し控えさせていただいたとしても、あなたのステキな記事は継続して読ませていただきたいな☆
そう思っています(⌒~⌒)
(あれ?ブロックされてたら、記事も読めないんだっけ?(・_・)?)
……まあ、なんだ、こんなていたらくでは、当時教えていた子どもたちに顔向けできねーなぁ……
(*´Д`)
ごめんよ、みんな💦
おにーさん先生は、おじーさん先生(*1)になっても
全然成長してないみたいです(*´Д`)
みんなは、こんなダメな大人になったらアカンで✋
今日の〆の一曲は、ユニコーンで『大迷惑』
おっと、今宵ももうこんな時間だ。
……てか、もう雪かきタイムやんか(^^ゞ💦
いかんな、また徹夜かい……
ま、今日はある意味最後だし、特別だから、これはこれでええか( ̄∀ ̄)
そんなこんなで、
明日も、明後日も、明々後日も、なるべく多くの人が――
自分が苦しむようなことは、人も苦しいのです
なるべく人の気持ちになって物事を考えられる
そんな優しい一日でありますよう(*´▽`*)
#なんのはなしですか
#どうでもいいか
#ワクワクがあふれだす
#賑やかし帯
■ おまけ
今回の画像しりとり列車 (198両目) の前の車両です。タイトル「ろうそく」と下のネタ画像で、なにこれ?て引っかかりを覚えた方がおられましたら、時間が許すような時にでも、覗いてみてやってください。
■ 松平雅楽守というろくでもない愚か者の話
「暇人」と私を称したその方のコメントの一部にちょっとだけカチンときた――
「上の2名の方は善人だとは思いますが、『脳梗塞の後遺症』への理解が足りないようです。」
うーん……( ̄~ ̄)💦💦
でもまぁ、この人はその道の専門家だったり、あるいは私と同じように、誰か身内でそういう目に遭った方でもいるんやろなぁ。こういう言い方でキッパリ断言できるくらいなんやから……
そう思ったので、よく知りもせんと随分な言われようやなぁ……とは思いつつも、そこはぐっと感情を抑えることに成功した。
だが、その次の行
「脳梗塞の後遺症の種類は多くて普通の人には理解できまないようです。
私の身内にはいませんがすぐにピンと来ましたので下に書いておきます。」
(原文まま)
この二行で、私の全身の血が逆流するかと思うくらい怒りが湧いた。
はぁ!?
いや、シロートかい!
身近におらんて、経験者ですらないんかいっ!
それでなにか?専門的な人さまのサイトのURL貼り付けて、その中の目についた都合のいい一文だけ貼り付けて
私はほら、こんなに知ってるんですよ――ってか!
何さまじゃ、おまへ! っざけんなっっ!!!
私が愚弄される分にはまだいい。
でも、私がそれを理解できてないということは、私と一緒に最期まで戦った師匠の努力まで一緒くたに踏みにじられた、そんな気がして、それが一番許せなかった。
確かにこの人の言う通り、脳梗塞の後遺症はケースバイケースで千差万別だ。
だが、これだけは言わせてもらう。
感情のコントロールが難しくなった本当のつらさ、本当の苦しさ、そしてそれを黙って受け止めなければならない身内のつらさ、苦しさ、そして悲しさ。
これを数年にわたって味わった私は、アンタの言う「普通の人」か?
「理解できまない」愚か者だというんやな?
それじゃあ、私やもう一人のnote友さんを「理解の足りない人」と断じ、
凄腕カウンセラーの如きアドバイスを送っているアンタはどうなんや?
医師でも理学療法士でもなく、自身が脳梗塞を患ったこともなく、身内に脳梗塞を患った人がいたこともない――
そんな貴方は本当に実感できているのか?
そんな貴方は本当に理解できているのか?
本当の苦しさを。
そもそも、
本当に感情のコントロールが難しくなった者、対人関係に支障が出た者は、悠長にSNSなんてやれるかいっ!!!
――と、ここまで頭の中で怒号がぐるんぐるんした時、
ふと、こんな声が聞こえたような気がした。
「坊主。まだまだ小さいな。
そいつは、お前のことなんかそもそも知らないのだろう。
そして、覚えているか?
『人は鏡』だ。」
愕然とした。
その通りだ。
今の自分は、この人の、たかだか10行そこそこのコメントの文言だけで、この人の全部を分かった気でいないか?
それでは、この人が私のことをろくに知りもせずに好き放題書いているのと同じことではないか。
もしも、この4行に怒りを覚えるというのなら、
最低限、この人が本当に医学のシロートで、
本当に今までに脳梗塞の後遺症で苦しんだ人と向き合った経験がない人、
ということを確認しなければならない。
でなければ、怒る資格すらないのではないか?
憶測で人を断じるなどもってのほかではないか。
「人の振り見て我が振り直せ」
そう、相手と同じ土俵でみっともなく殴り合ってどうする。
師匠、坊主はまだまだ人間ができてないようです。
――ダメだな
いつもの短いダメ出しが、今、聞こえましたよ。
信じられます?
あの日、
「お前が二十歳までに死んだら、俺が骨を拾ってやる。安心して死ね」
どう見ても真顔でそう言われてたこのボーズが
もし再来年まで生きながらえることができたら
師匠が逝った年とタメになるんですよ
それなのに、まだまだ精進が足りませんね。
向こうで思う存分酒を酌み交わせる日までには
(死んだら、今のアルコール禁止のドクターストップも解除ですよね)
少しでも師匠に近づけるよう
イチから、いやゼロから出直しです