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『ワリマイ』(1989) イサベル・アジェンデ

チリの女流作家、イサベル・アジェンデの短篇『ワリマイ』を読みました。

作品は、野谷文昭[編訳]、『20世紀ラテンアメリカ短篇選』に収められています。


親父がわしにつけてくれた名はワリマイで、わしら北に住む者の言葉では風を意味している。今からその話をしてやってもいい。あんたはもう実の娘同然だからな。

書き出しはこんな感じ。ラテンアメリカ先住民、ルナ族出身の〈ワリマイ〉という男が、〈あんた〉に向けて語る、回想録的な内容になっています。

口伝調なので、文字を追いながらも「その場で直接語りかけられている感覚」を味わうことが出来るかもしれません。

また、短い作品ではありますが、先住民特有の(もちろん全ての部族を一概には語れないのでしょうけれど)死生観・哲学のようなものが、凝縮されていると思いました。

僕たちの常識からすると一見不思議に思えるような感覚(霊的体験など)を、リアリズム的な語りの中に落とし込んでいる点で、「魔術的リアリズム」風な雰囲気も感じられます。

しかし、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』や、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの『グアテマラ伝説集』等とは、かなり異なった雰囲気です。
それらの作品よりも、もっともっと地に足ついているような感じがします。(※1)

読者は、〈ワリマイ〉の語りを聞いているうちに、自分の中の「当たり前」が、やんわりとほぐれてくるのを感じるかもしれません。すくなくとも僕はそうでした。

アストゥリアスなどの作品だと、この「当たり前の感覚」が「力ずくで破壊されてしまう」感じがするのですが、この作品では、あくまでやんわりと、見える世界を拡げてもらえるような、そんな気がします。

***

人や生き物の名前には、よく気をつけなけりゃならんよ。名前を口にしたとたん、相手の心臓に触れ、その生命力の中に入り込むからだ。(中略)外国人が、恐れるふうもなく気安く名前を呼び合うのが、わしには理解できない。(中略)そういう連中は、話すことは存在することでもあるなんて考えもせず、実に気軽に話をするようだ。

現代の資本主義社会、情報化社会に生きている僕としては、「気付き」とまでは言わないにしても、今まで意識することすら無かったような、新しい視点からの忠告めいたものに、少し揺さぶられたりもしたりもしました。

またこのあと、〈ワリマイ〉は、白人との遭遇体験を通じたエピソードを語りはじめます。
彼自身の内で、白人に対する印象が移り変わっていく様子もしっかり描写されていて面白いです。

当初、白色人種の存在そのものすら疑っていた〈ワリマイ〉でしたが、実際に彼らと対峙することになります。

ある日、わしらの村に色の白い男たちの一軍がやってきた。(中略)連中はわしらのように空気をまとうのではなく、汗でぐしょぐしょの臭い服を着ていた。慎しみというものを知らない汚らしい人間どもだったが、自分たちの知っていることや神々のことを盛んにわしらに話して聞かせたよ。白人について聞かされていたことと連中とを比べてみて、わしらは噂が本当だったことを知った。

初めのうちは、白人たちを客人としてもてなした〈ワリマイ〉たちでしたが、どんどん調子に乗って要求が激化していく白人に耐えきれなくなり、ついに戦いを挑むことになりました。

その場では白人たちに勝利した彼らでしたが、これから増援がくることは目に見えています。

敵の援軍、追手から逃れるために、部族ごと遠く移り住んだ〈ワリマイ〉たち。
しかし、ある日彼は、狩りのために遠出した際、白人の兵隊に捕らえられ、強制労働施設に連れて行かれてしまうのです。

そこには他の部族の男たちもたくさんいて、ズボンをはかされ、望みなど無視されて、無理やり仕事をさせられていた。(中略)そのころは自由がまるでない時期で、そのときのことは話したくもない。

〈ワリマイ〉は、その労働施設で、性的な強制労働をさせられていたイラ族の娘と出会います。
〈ワリマイ〉の母親もイラ族の出身だったので、親近感を感じ、彼は彼女とコミュニケーションを取ろうとしました。

娘は衰弱によって、既に言語的なやりとりは叶わなくなっていましたが、ここで興味深い「魂の交流」とも呼べそうな場面が展開していきます。

娘に兄妹の挨拶をした。娘は答えなかった。そこで、胸を思い切り叩いてみた。娘の魂が胸の中でこだまするかどうかと思ってな。だがこだまは聞こえなかった。娘の魂はすっかり弱っていたんで、答えられなかったんだ。

お袋の言葉で話しかけてみた。すると娘は目を開け、じっと見つめたよ。わしにはその意味が分かった

そして〈ワリマイ〉は、娘が自分に「殺してくれ」と、頼んでいるのだと確信するのです。そして、この確信はおそらく「霊的な直感」で、西洋的な論理で裏付けられるものではありません。
〈ワリマイ〉はすぐに、事前に必要な儀式を行い、身体を清めたあとで娘を殺します。

そのとたん、娘の魂が鼻から抜け出し、わしの体の中に入って、胸の骨にしがみついたのが分かった。娘の重みが加わったので、わしは立ち上がるのに苦労した。

この「死者の魂が生者の魂に宿る」というような霊魂観は、もちろんキリスト教的な世界観とも違いますし、仏教とも違うと思います。
同じアニミズム要素の強い神道も、こういう霊魂観とは違うのではないでしょうか。

別の人間の命の重さが加わっている戦士は、十日間断食しなければならない。そうすれば死者の魂は衰弱し、ついには戦士から離れ、霊界へと去っていく。だがもしそうしなければ、魂は食べ物のせいで太り、戦士の身体の中で大きくなって、その息を止めてしまう。わしは勇気ある男がそうやって死ぬのを見たことがある。

一緒に歩いたあいだに、わしと娘は強く愛し合うようになり、もう離れたくなかった。だが人間は自分のものでさえ命を司ることはできない。(中略)娘はわしの体から離れていった。魂はだんだん薄れ、前ほど重く無くなった。五日目のこと、わしがうつらうつらしていると、娘は初めてわしのまわりをあるいた。

人体の構造としては同じはずなのに、〈ワリマイ〉と僕たちとでは、まったく違う次元の現実を生きているような…。

心理的なことや精神的な体験には、だんだんと目を向けるようになっている現代社会ですが、「霊的な体験」にまで目を向けて現実を考えることはまだまだ少ないように思います。

もちろん、「霊的な体験だけ」を現実として捉えてしまうことは非常に危険なことです。
しかし、近代的な科学や歴史観を無条件な信頼してしまうのも考えものだなあ…と。

(西洋的な土台に乗っかったまま氾濫している「スピリチュアル」って横文字にも、すこし生理的な抵抗感・不快感があります。)

そう思ったときに、この〈ワリマイ〉が語る、別視点からの現実体験というものは示唆に富むものだと思ったのでした。

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今回は引用が妙に多くなってしまいましたが、出来るだけこの「語りの雰囲気」をお伝えしたいが故の…ということでご理解いただけたらと思います。

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(※1)
現実世界において、此岸と彼岸が入り混じったように語られる…という点では、どちらかと言うと、メキシコの作家、フアン・ルルフォの作風に近い側面があるかも…?なんて思ったり。
(とは言え、『ペドロ・パラモ』のように断片を複雑に組み合わせる…みたいな前衛的な構成ではないので、こちらの方が圧倒的に読みやすいです。まあ、そもそも短篇ですし。)


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(追記)

9/11という、チリにとっても非常に大事な日に、サルバドール・アジェンデの親戚である、イサベル・アジェンデの作品に触れられたのはよかったかなあ…と思います。

今日はアメリカにも、そしてチリにも祈りを。

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