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【漫画】平安時代の出産って? ー 大音響の中命を懸けて ー

医療のない平安時代、出産はまさに命懸け!
当時の人々にとって出産はどのようなものだったのでしょうか?

平安時代、出産で亡くなる女性も多く、母親の5人に1人が命を失ったと言われています。
また子が流れてしまうこと、産まれても幼くして亡くなってしまうことも少なくなく、母子とも健康は50%以下という説もあるようです。

当時、病気や死は物怪の仕業だと考えられており、邪気を祓うため数多くの儀式が行われました。
そうした儀式の中行われる出産はどのようなものだったのか、まずは上級貴族の出産からみていきましょう。


上級貴族の出産 ー 大音響の中での出産と連日の儀式

上級貴族の出産については、『紫式部日記』に、藤原道長の娘で中宮(天皇の后の中で最高位の者)の彰子しょうしのケースが詳細に記されています。

まず、出産の5ヶ月前。道長の自邸で法華三十講ほっけさんじっこうという法会が開催されます。
法華三十講とは30巻分のお経を1日1巻ずつ講じ、30日間つづくもの。これは多くの公卿が出席し、また僧侶の数は143人にも及ぶという盛大なセレモニーでした。

ここで集められた多くの僧侶はそのまま道長邸に滞在し、24時間絶え間なく読経をつづけました。出産1ヶ月前には公卿や殿上人らも泊まり込み、邸はますます混み合います。

いよいよ産気づく頃には、産室となる部屋のしつらえが白に変えられました。
これは清浄を保つためのもので、壁代かべしろ、御帳台、屏風、几帳、畳の縁だけでなく、出産に奉仕する女房も皆白装束に改められ、産後7日目まで続けられたと言われています。

加持祈祷もますます激しくなり、数ヶ月前から邸内に詰めていた大勢の僧侶の他、修験者や陰陽師が集められるだけ集められ、あちこちで読経や祈りを捧げます。
中でも凄まじいのは憑座よりまし役の少女でしょうか。憑座というのは人(この場合は妊婦である彰子)に取り憑いた物怪を別の人に移して鎮めるというものですが…出産時にこの憑座たちが大きな声を出してたいそう気味が悪かったのだそうです。

彰子のいる御帳台の中には、産婆役の女房のほかに近親者の僧も入り込み、その御帳台を取り囲むように、邪気払いのために米を撒く散米うちまきや弓の弦を鳴らす鳴弦などが行われます。大勢の僧や貴族が経を唱えたり祈ったり…当時の女性はおどろおどろしいまでに賑やかな中、出産に臨んだのです。

さて、無事赤子が産まれ、母親も無事で一安心。
先ほどまで不穏な音であふれていた邸内に、赤ちゃんの元気な泣き声が響き渡る…本当におめでたいことです。

が、やはりそこは平安時代。新生児死亡率も高く油断は禁物。産まれた後も邪気祓いの儀式がつづきます。
順に挙げるとこのような感じでしょう。

ほぞの緒】新生児のへその緒を切る儀式。祖母にあたる人が行うことが多かった様子。
乳付ちつけ】新生児に初めて乳を含ませる儀式。選ばれた乳母が行う。
佩刀はかし】誕生祝いの剣が宮中より贈られる。新生児が皇子だった場合のみ。
【御湯殿】新生児に湯を浴びさせる儀式。魔除けの鳴弦や散米、皇子の場合は、将来の叡智を願って漢籍の一節を読み上げる「読書始の儀」も同時に行われる。

御湯殿の儀は、皇子の場合は特に朝夕2回、7日間つづけられました。
当然、日や時刻の吉凶を占った上で行われ(ちなみに、産室の場所等もすべて占いに基づいて決められます。『紫式部日記』に出てくる彰子は、出産が36時間にも及んだため途中で産室に障りが出てしまい、難産の中わざわざ別の場所に移動したのです)、産湯の水も井戸の方角を占った上で用意されました。
湯をかける「御湯殿」役と相手方の「おん迎え湯」の女房が中心となって行い、水を取る役やお湯を汲み入れる役も決められた女房が担当します。産湯に「御剣みかはし」「犀角さいかく」と作り物の「虎のかしら」の影を映し、その霊力を授かったお湯で赤子が清められました。
虎は百獣の王として邪気祓いに効力があり、犀角は水気除けと毒消し・解熱の効力があると言われていたそうです。

ここまでご紹介したのはいずれも祓いの儀式でしたが、これと並行して祝いの儀式も催されます。

【御産養の儀】赤子への形式的な饗応と、母子の無病息災を願う饗宴で、親族や縁者が参列する。三夜、五夜、七夜と日ごとに主催者が異なり、七夜は最も身分の高い者が主催した。
【五十日の祝】生後50日目に行う祝宴。父または外祖父が赤子に餅を含ませる儀式がある。
【百日の祝】生後100日目に行う祝宴。五十日の祝と同じように餅を含ませる儀式があった。


これらの祝儀は子どもの将来の後ろ盾を世間に示すものであり、主催者の顔ぶれや宴の豪華さも重要なポイントだったのです。

ところで、無事出産を終えた後、母親となった彰子はどうしていたのでしょうか?

『紫式部日記』によると、寛弘5(1008)年の9月11日に出産を終えた彰子は、1ヶ月後もまだ御帳台から出られず、中で休んでいたそうです。

当時子どもの世話はすべて乳母がしていたため、母親が授乳や夜泣きの対応をする必要はありません。
宴で騒がしい中ではありますが…この間に気力・体力を取り戻せるといいですね。


庶民の出産 ー 信仰にすがる点は貴族と共通

これまでご紹介したのは中宮という貴族の中でも最上級の者の出産ですが…もっと身分の低い人々はどうしていたのでしょうか?



こちらは資料は少ないのですが、例えば鎌倉時代末、14世紀前半に成立した『融通念仏縁起ゆうずうねんぶつえんぎ』という絵巻の中に牛飼童うしかいわらわの妻の出産シーンが描かれています。

三省堂 辞書ウェブ編集部による ことばの壺 ことばのコラム
倉田実著「絵巻で見る 平安時代の暮らし」
第73回『融通念仏縁起』下巻「牛飼童の妻の出産」を読み解く より

『融通念仏縁起』とは、「念仏はすべての者に融通し合って功徳をなし、念仏者名帳に記帳した者全員の往生が叶う」と説く融通念仏宗を開いた良忍りょうにんという僧の伝記と功徳を描いたもの。
牛飼童は、文字通り牛の世話をする者で、よく絵巻物などで牛車の周りに描かれます。童といっても大人もおり、成人すれば結婚もいたしました。

絵巻には、棟割長屋の一角に住む牛飼童の妻が難産のため死にそうになっている様子が描かれています。素足でしゃがむ妊婦の前と後ろに介添え役の女性がおり、庶民も座産だったことが見て取れます。

また室内に白衣が吊るしてあったり、長屋の土壁に魔除けの的がかけられていたり…と邪気祓いをしていることも窺えます。
出産の真横で僧侶が名帳に何か(恐らく牛飼童の妻の名)を記していたり、夫である牛飼童が僧侶を家に案内していたり…規模は違えど、庶民も神仏を頼りにしていたことがわかるのです。

ではもっと身分の低い、農民のような人たちはどうしていたのでしょうか?
こちらはちょっとわかりかねますが、川辺や浜、あるいは山中に小屋を設けてそこで産んでいたとか、やむを得ない場合は外で産んだとかいう説も見かけます。

まさに命懸けだったというわけです。


出産に対する女性の意識 ー 命懸けのわりに”あっさり”?

医療体制の整った今でも出産は女性にとって一大イベントなどと言われるくらいですから、命の危険がより大きい平安時代の女性にとっては尚のことと思われます。
ところが、当時の女性が書いたものを読むと出産に対する感慨などはほとんど見られず…この認識の薄さはなんなのだろうと疑問に思うのです。

確かに『紫式部日記』や『源氏物語』には出産シーンがありますが、これは作者の紫式部にとっては”他人”の出産ですし、儀式や宴など政治的な色合いの強いものです。

こうした“他人”の出産について詳細に描く一方で、当時の女性作家は”自身”の出産にはほとんど触れていないのです。

紫式部も清少納言も出産して子どももいるのに、日記にも随筆にも一切登場していません(夫の話や幼少期の思い出は出てきますが)。
『更級日記』の作者も子どもが複数いるようですが、『日記』を読んでもいつ産んだのか、どのような子が何人いるのかわからない。
和泉式部も夫との間に子どもがいるけれど、『日記』には恋人との逢瀬の間その子がどうしていたのか書かれていません。子どもの存在を感じられるのは「子どもの将来を見届けよう」と出家を思い止まる箇所くらいでしょうか。出産についての回想もなければ子育ての悩みもないもないのです。

蜻蛉かげろう日記』の作者、藤原道綱母ふじわらのみちつなのははは、息子・道綱を産んだときのことを記していますが、それは次のような一文だけ。

…など言ふころより、直もあらぬことありて、春夏悩み暮らして、八月つごもりに、とかうものしつ。

(…こんなことを言い合ったころから、私はふつうでない体になって、春夏の間ずっと具合が悪く、八月の末、ようやくのことで出産を済ませた。)

右大将道綱母著、角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 蜻蛉日記』より

命懸けの出産を乗り越えたにしては随分あっさりとした表現です。

そもそも『蜻蛉日記』で妊娠・出産を表す際に用いられた「直もあらぬ」「ものしつ」という言葉自体婉曲なものです。

例えば今でも排泄や月経などは直接表現するのが憚られることがありますが、当時の妊娠・出産もそうした部類に入っていたのかもしれません。あるいは出産に限らず、身体的な不調や苦しみについて書くこと自体”雅”ではなかったのかもしれません。

いずれにせよ自身の出産というのは当時の女性にとって書くべき題材ではなかったようなのです。

ですが、出産で亡くなる可能性を当時の女性が意識していなかったとは思えません。
例えば、『枕草子』に出てくる一条天皇の中宮(のち皇后)・定子は3人目の子どもを産んだ直後に亡くなっていますが、事前に三首の辞世の句を遺しています。それはもちろん出産に臨む際に死を覚悟していたからで、当時のほかの女性たちも同じように何か遺していたのかもしれないと思うのです。



平安時代の出産について調べると、つい仰々しい儀式にばかり目がいってしまいますが、その中心にいるはずの女性の姿はそこにはほとんど描かれておりません。
彼女たち自身もまた、自身が体験した命懸けの行為について語ろうとしませんでした。

ですが私は、出産に際して彼女たちが何を思い何を感じたのかもっと知れたらいいのにと思うのです。


【参考】

紫式部著、渋沢栄一訳(2008)『紫式部日記(黒川本)』

右大将道綱母著、角川書店編(2002)『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 蜻蛉日記』角川ソフィア文庫
紫式部著、山本淳子編(2009)『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 紫式部日記』角川ソフィア文庫
川村裕子著、早川圭子絵(2022)『はじめての王朝文化辞典』角川ソフィア文庫
風俗博物館令和6年2月〜展示資料(2024)「源氏物語から見る平安貴族の現世と来世への祈り ⑤ 産養 〜東宮妃・明石の女御の皇子誕生、若宮の披露と源氏一門の栄華〜(『源氏物語』「若菜上」)」

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