見出し画像

【漫画】『源氏物語』ってどんな話? ー 藤壺は源氏を愛していたか

源氏の初恋の人にして生涯の想い人であった藤壺。彼女は源氏のことをどう思っていたのでしょう?

藤壺は源氏の5歳年上の継母。源氏の母・桐壺更衣が亡くなった後、源氏の父・桐壺帝に入内した人です。
源氏との二度の密通の上妊娠し、不義の子(のちの冷泉帝《れいぜいてい》)を産みました。

度々忍んでくる源氏に冷たい態度を取り、源氏との不倫の関係を断つため出家までした彼女ですが、それは源氏を嫌ってのことだったのでしょうか?


藤壺と源氏の関係 ー 継母への禁断の行為

源氏と藤壺の出会いは宮中。
3歳の頃に母・桐壺更衣を亡くした源氏が、その数年後、父・桐壺帝のもとに新しく入内した女性(=藤壺)が亡き母にそっくりだという話を聞いて、幼心に恋しく想ったのが始まりです。

源氏も初めは藤壺のことを母のように、姉のように慕っていたのだろうと思われます。
しかし源氏が12歳で元服を迎えた頃には、彼の気持ちは恋心へと変化していました。

藤壺は源氏を成人男性として扱い、御簾を挟んで対面する、女房を介して話をするなどきちんと距離を取るのですが、源氏はこれを寂しく思ったようで…新婚なのに、週の内5、6日は宮中に宿直し、かすかに漏れ聞こえる藤壺の声に心慰めるようになりました。
新妻の葵の上に心動かなかったせいもあるのでしょう。
藤壺の美しさが最上のものに思われて、藤壺のような女性と結婚したいと、苦しいほど恋しく想うようになるのです。

その数年後、想いを抑えられなった源氏は密通に走ります。

源氏と藤壺の密通は、未遂も含めて計三度。
一度目の密通は物語内には描かれておりませんが、源氏の様子や藤壺の心境から、第1帖「桐壺」と第2帖「帚木」の間の時期(おそらく源氏が17歳になる以前)に関係をもったことがわかります。

二度目は源氏18歳のとき。「若紫」巻に描かれている夏の短夜の密通です。

藤壺が体調を理由に宮中から自邸・三条宮に退出したのを好機ととらえた源氏は、藤壺の女房・王命婦おうみょうぶにせがみ、彼女の元へ手引きしてもらいます。

過去の過ちから「二度とこのようなことのないように」と固く決心としていた藤壺。再び罪を重ねてしまったことをとても辛く、情けなく思うのですが、拒むことができず、ついには妊娠してしまうのです…!

深く悩んだ藤壺は、源氏を一層遠ざけるようになりました。

予定を2ヶ月過ぎても産まれる気配がないのを人々が物怪のせいかと噂するのも心苦しく、生まれた子が源氏に瓜二つなのを見ても悩みが尽きない。
何も知らない桐壺帝が藤壺の産んだ子を見て「この子は源氏に似ている」などと言った際は、あまりの片腹痛さに汗を流してしまうほど。
この頃の藤壺の心痛は想像するに余り有るものです。


三度目の密通「塗籠事件」 ー 裸で物置に押し込められ…?

三度目の、そして最後の密通は源氏が24歳のとき。
前年の11月に源氏の父・桐壺院(数年前に譲位し、帝から院になりました)が藤壺に付き添われながら亡くなってしまったのですが…源氏は父の死を悲しみつつも藤壺への想いは止められず、またしても彼女のもとへ忍び寄ります。

藤壺は桐壺院が何も知らずに逝ってしまったことに心を痛めており、源氏の情念を止めるために祈祷までさせていました。
しかしその甲斐もなく源氏が寝所に近づいたことで強いストレスがかかったのでしょう。胸が痛み、騒ぎになってしまうのです。

自分が忍び寄ったことで体調まで悪くなってしまった藤壺が恨めしく、この世が真っ暗になったような心地の源氏。
女房たちが藤壺のもとへ行ったり来たりしながら世話をやいている内に、茫然としていた源氏は塗籠ぬりごめの中に押し入れられてしまいました。

塗籠とは物置のような部屋のこと。
平安時代、寝殿造りの屋敷には基本的に壁がなく、柱と柱の間に御簾を垂らしたり、几帳や屏風、襖を設置して、適宜空間を仕切っていました。その中で唯一壁に囲まれて部屋のようになっている空間があり、それを塗籠と呼んでいます。

塗籠は通常、御帳台(平安時代の寝所)のすぐ西側にありました。
御帳台にいた源氏は女房たちに押されるようにしてこの中に入れられ、出るに出られなくなってしまったようなのですが…このとき「源氏の衣服は女房が隠し持っていた」とあり…。『源氏物語』を現代語訳した瀬戸内寂聴氏は、源氏は裸のまま塗籠に入れられたのだと述べています。

緊迫した密通シーンの、なんとも滑稽な姿です。



藤壺が回復し、皆が帰って行ったのは翌夕になってからでした。

丸一日塗籠の中にいた源氏は、騒ぎが収まり人がいなくなったのを察しそっと塗籠の外に出て行きます(このとき源氏は服を着ていたのでしょうか?物語内にその辺りの描写はありません)。
屏風の隙間を伝ってそっと藤壺に近づき、愛しい人を盗み見る。
源氏がまだ室内にいるなどと夢にも思わぬ藤壺は、まだ苦しく「死んでしまうのではないか」と思いながら遠くを眺めている。そのなんとも言えない艶かしい横顔に心惑わせた源氏は、そっと近寄り彼女の着物の端を引きました。
衣服の薫りで源氏に気づいた藤壺は驚きと恐れでその場に伏してしまいますが、源氏はせめてこちらを見てほしいと着物を引っ張る。藤壺は、上着を脱ぎ捨てて退こうとするも、着物と一緒に長い髪を掴まれており、逃れることができません。

またしても源氏の手に堕ちてしまった藤壺ですが、苦しい思いを告げる源氏を、やさしく、しかし強い気持ちで避け、そのまま夜明けを迎えます。

源氏の二晩かけた三度目の密通「塗籠事件」は未遂に終わるのです。


藤壺の突然の出家 ー 藤壺が抱える政治的な事情とは

強い意思で源氏を拒んだ藤壺ですが、実は政治的には源氏を必要としていました。
藤壺と源氏の子は、表向きには桐壺院の子として東宮の地位についており、源氏はその東宮の唯一の後見者だったのです。

この頃の政治情勢を見ると、時代は桐壺帝の御代からその長男・朱雀帝の時代へと移っており、朱雀帝の母・弘徽殿大后こきでんのおおきさきと、その実家である右大臣家が実権を握っている状況です。
弘徽殿大后は、桐壺帝の妻の一人で、かつて桐壺更衣をいじめた人(その頃は弘徽殿女御と呼ばれていました)。帝の寵愛を独り占めした桐壺更衣を恨んでいるように、藤壺を恨み、源氏を恨んでいます。

源氏と藤壺のスキャンダルは、源氏を、そして東宮を追い落とす恰好のネタとなるでしょう。

源氏との関係が表に出ることは何としても避けたい、でも源氏の後ろ盾を失うわけにはいかない。
追い込まれた藤壺が選んだのは出家の道でした。

故桐壺院の一周忌の後、法華八講という法要を催した藤壺。
密かに出家の準備を進めており、法要の最後に皆の前で髪を落とし、尼姿となるのです。
これには源氏も衝撃を隠せませんでした。

当時出家は一種の流行のようでもあり、貴族は皆「いつかは出家生活に入りたい」と考えていたようなのですが、それでもまだ若い人の出家は少なく、周囲の人々にとって受け入れ難いものだったようです。

しかし、その効果は抜群で…出家によって源氏は藤壺への恋を断念します。老いも若いも気にしない源氏も、さすがに尼になった人に手を出すことはできなかったのです。


藤壺は源氏をどう思っていたのか?

さて、これだけ読むと藤壺は源氏を心底嫌っていたように思えますし、それも当然のことと思われます。源氏の行為は決して許されることではありません。

しかし、物語を読んでいくと、藤壺は本心では源氏を愛していたのだとわかる箇所があります。それは「須磨」巻で、藤壺が源氏からの手紙を読むシーンです。

弘徽殿大后らの怒りを買い、官位剥奪の憂き目に遭った源氏は、これ以上の罪を着せられ東宮に影響が及ぶ前に、自ら京を離れ須磨で隠栖生活を始めます。
寂しい須磨の源氏から送られた手紙を読んだ藤壺は次のように自らを振り返ります。

入道の宮にも、春宮の御事に寄り思し嘆くさま、いとさらなり。
御宿世のほどを思すには、いかがあさく思されむ。
年としごろはただものの聞きこえなどのつつましさに、「すこし情けあるけしき見せば、それにつけて人ひとのとがめ出いづることもこそ」とのみ、ひとへに思おぼし忍しのびつつ、あはれをも多おほう御覧ごらんじ過すぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、「かばかり憂き世の人言ひとごとなれど、かけてもこの方かたには言いひ出いづることなくて止やみぬるばかりの、人の御おもむけも、あながちなりし心こころの引ひく方かたにまかせず、かつはめやすくもて隠かくしつるぞかし」。
あはれに恋しうも、いかが思し出でざらむ。

(入道の宮(※藤壺)も東宮のために源氏が逆境に沈んでいることを悲しんでおいでになった。そのほか源氏との宿命の深さから思っても宮のお嘆きは、複雑なものであるに違いない。
これまではただ世間が恐ろしくて、少しの憐みを見せれば、源氏はそれによって身も世も忘れた行為に出ることが想像されて、動く心もおさえる一方にして、御自身の心までも無視して冷淡な態度を取り続けられたことによって、うるさい世間であるにもかかわらず何の噂も立たないで済んだのである。源氏の恋にも御自身の内の感情にも成長を与えなかったのは、ただ自分の苦しい努力があったからであると思召おぼしめされる宮が、尼におなりになって、源氏が対象とすべくもない解放された境地から源氏を悲しくも恋しくも今は思召されるのであった。

紫式部『源氏物語』第12帖「須磨」より
現代語訳は与謝野晶子(一部筆者註)


そうして以前よりも情愛を込めて細やかに返事を書くのです。

よくよく読んでみれば、これまでの藤壺の行為にも源氏への隠しきれぬ想いが見え隠れしています。

懐妊の原因となった二度目の密通の翌朝は、帰り際の源氏に歌に呼応させる形で応えていますし、その数ヶ月後、源氏が藤壺の御前で青海波せいがいはを舞った際には、「やましい心がなかったなら一層素晴らしく見えただろうに」と思い翌朝の源氏の歌にやはり返歌しているのです。

また源氏が藤壺を形容するのによく使われる「やわらか」「なつかし」といった言葉は、もちろん藤壺の性質そのものを指す意味もあるのでしょうが、源氏を拒絶しきれない藤壺の態度を写したもののようにも思えます。

もちろん、源氏の強引な迫り方は藤壺にとって本意ではなかったでしょう。桐壺院に対する罪悪感や、世間へに漏れることへの恐怖は生涯消えることはなかったでしょう。
それでも源氏を憎みきれないほど深い想いがあったのです。

藤壺は、遠くから心静かに源氏を想うために、出家を決意したのかもしれません。


【参考】

瀬戸内寂聴(2008)『寂聴源氏塾』集英社


関連記事はこちら!




いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集