あの人の正体
今日も、アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ』を読んで、文章の練習。
【ほのめかし】
潜入型作者か、遠隔型作者のいずれか。視点人物はなし。
〈1〉直接触れずに人物描写ーーある人物の描写を、その人物が住んだりよく訪れたりしている場所の描写を用いて行うこと。その人物はそのとき不在であること
*
あの人の部屋は、色んな匂いがする。普段使っている柔軟剤の匂い。部屋で焚いているアロマの匂い。タバコの匂い。香水の匂い。トイレの芳香剤の匂い。
匂いに一貫性はなく、部屋に少し滞在するだけで、匂いに疲れてしまう。
普段から、身体中に何かの匂いを纏っているあの人。人工的な匂いは、まるで鎧のようだ。匂いは自分の存在を消してくれる存在のよう。
一人であの人の部屋を歩き回っていると、吐き気がしてきた。どれも「臭い」という匂いではないのに、あまりに強いまま、自己主張をやめないまま、色んな匂いが部屋にぎゅうぎゅうとひしめき合っている。
「匂いのるつぼ」というやつか、「匂いのサラダボウル」というやつか、「匂いのグローバル状態」というのか。なんて冗談はともかく、雑多で強烈な匂いに消されたあの人は、一体本当はどんな匂いがするのだろう。
あの人は何を考えて、ここまで匂いにこだわっているのか。
匂いのないところを探して、ベランダに出ると、今度は排水溝がホコリや髪の毛で詰まって、水が澱み、腐った匂いがした。それを誤魔化すように、大量の消臭ビーズが撒かれていた。
分かった気がした。
何もかもを消したいのだ、あの人は。
人工的な匂いが充満する部屋で、殺風景なまでに何も装飾のない部屋。シンプルやミニマム志向の部屋とも違う。何も無いのだ。テレビもないし、机もないし、タンスもない。クローゼットを覗けば、数着のシャツがぶら下がっているだけで、がらんとしている。フローリングの部屋の隅には、几帳面に畳まれた1式の布団。ベッドもない。カレンダーもかかっていないし、目覚まし時計の類もない。
ただ、匂いがするだけ。
本当は誰も住んでいない、モデルルームに来たかのようだ。匂いがなければ。でも本当のモデルルームなら、もっと色気があるかもしれない。
午後の日差しが入って、蒸し暑い。匂いがさらにきつくなった気がする。
息苦しい匂いの部屋は、まるで出口が見つからない迷宮のようで、正体のしれない不気味さが増す。頭がくらくらしてきて、部屋を飛び出す。
あの人は、本当は誰なのだろう。