11月30日の手紙 最愛海外文学③
拝啓
少し間が空きましたが、
X(Twitter)のタグに触発されて、好きな海外文学を語る第三弾です。
今回は2作品を紹介します。
海外文学好きでも、なかなかあげない作品にしました。
ライトノベルというか、流行りものというか、
重厚な文学が好きな人は選ばないだろう2作品です。
発行はアーティストハウス、発売が角川書店のBOOK PLUSというレーベルで
ソフトカバー、ペーパーバックのような紙の本が出されていました。
この本のサイズ、カバーの柔らかさが気に入って、何冊か買い求めていたのです。
中でも、下の二冊は繰り返し読み、風呂場に持って入っていたので
シミだらけで、ずいぶんボロボロになってしまいました。
アラン・ウォーナー「モーヴァン」
青い背景に、足指を広げるための青いセパレーターと赤いペデキュアをした足が映る印象的な表紙。
おそらく、モーヴァンはこの表紙に惹かれて購入した本です。
ジャケ買いの書籍版です。
アラン・ウォーナーはスコットランドの小説家で、これ以外の著作が翻訳されているかは知りません。
スコットランドのスーパーで働くモーヴァンが恋人が死んで、恋人の残した音楽テープと共に、旅に出るというのが大まかなあらすじです。
全く、嘘は書いていません。
嘘は書いていませんが、このあらすじでは、モーヴァンがどういう小説であるかを正しく伝えたことにはならない気がします。
ロードムービーであるというのは間違いがありません。
モーヴァンはスコットランドのスーパーで働く生活から外に飛び出してみたかったし、恋人の死を契機にそれを実行に移したのだと思います。
モーヴァンは一般的な常識というものにとらわれない21歳の女性で、非常にシンプルに物事を捉え、考え行動しているように描かれています。
それらは享楽的といえば、ひどく享楽的だし、読者が息を呑むような倫理観のない判断をします。
読んだ当時は、そういう自分では絶対できない判断をするモーヴァンに一種憧れのようなものがありました。
薄曇りのスコットランドから、陽光満ち溢れるスペインのリゾート地へ、そしてその地のクラブへ流れていくモーヴァンの旅は、やっていることは正反対なのに、巡礼の旅のように感じられたものです。
作品中で、モーヴァンは、サザンカンフォートというアメリカのリキュールを飲んでおり、アルコールが飲めないのに、真似して飲んだこともあります。
サザンカンフォートはフルーツとハーブを使った、濃い琥珀色のリキュールです。「南部の歓び」の名前の通り、甘くてフルーティで、はなやかで明るい印象のあるアルコールです。スコットランドで飲んだらさぞかし、太陽が恋しくなるような味だと思います。
モーヴァンは旅をしながら、アルコール、ドラッグ、セックスと依存的なものにどっぷりとハマっていくのですが、サザンカンフォートの味を舌にのせると、快楽におぼれたかったというよりは、
明るくはなやかな歓びを求めていたのだろうとも感じます。
歳を重ねて考えてみると、モーヴァンの超然とした態度は無関心や傷つきを重ねたからだろうし、
一般的な常識にとらわれなかったのではなく、そういう常識を学ぶことがなかったのでしょう。
おそらく、作者のアラン・ウォーナーはモーヴァンを1人の人間としては書いていません。ある種のアイコンとして書いています。それは今の時代に照らせば、ひどく女性差別的であるかもしれません。
それでもモーヴァンならではの直観的なものの見方、考え方は印象的です。
全編を通して、無駄な思考が省かれた、教養がない若者が書いた話し言葉のような文章でつづられています。
ですから、ごちゃごちゃ考えすぎた時、悩んだ時によく読んでいました。
モーヴァンなら今のこの状況を鼻で笑うだろうと思いながら。
ちなみにこの作品はリン・ラムジー監督、サマンサ・モートン主演で映画になっています。映画はとにかく音楽がよく、サウンドトラックを買いました。このサウンドトラックをイヤホンで聴きながら、うろうろ歩くとモーヴァンになった気分がしたものです。
もし、モーヴァンが実在の人物で、2023年に生きていたら?と考えます。
もうどこにも冒険に行かずに、地元のスーパーにモーヴァンはいるでしょうか。
それとも若い頃の無茶のせいで病気になって寝込んでいるでしょうか。
アラン・ウォーナーは健在のようなので、続編があったら面白いのになと思います。
ちっとも映えない、かっこよくない続編を想像して、モーヴァンだったら、そうするように、少しだけ笑いました。
J・T・リロイ「サラ、いつわりの祈り」
さて、こちらも問題作です。
J・T・リロイという18歳の少年が自分の実体験を下敷きに書いたという触れ込みの小説「サラ、神に背いた少年」の続編短編集です。
J・T・ㇼロイの一作目、「サラ、神に背いた少年」のあらすじは、娼婦から産まれた男の子が、母のため、アメリカ南部で男娼になり、違う組織に拘束され、もとの組織に戻ってくるまでを極彩色の御伽噺のように語るというものです。
内容は過激ですが、それだけでなくアメリカ南部の庶民の食事や生活、男娼のシステム、個性的なキャラクターがしっかり書かれていて、「サラ、神に背いた少年」は非常に面白い作品でした。なかなか「仕事」をさせてもらえない主人公が待ちきれずに、娼婦たちが信仰するジャッカロープのご利益をもらいにいく場面はとても鮮烈です。(ちなみに、ジャッカロープとはウサギにツノが生えた生き物です。)そこに出かけたせいで主人公は、アリスが時計ウサギを追いかけて、穴に落ちて異世界にいくような体験をすることになるのです。
「サラ、神に背いた少年」の宣伝文句には、「こんなに美しい小説、読んだことがないわ! ウィノナ・ライダー」と書いてあります。
ものすごく不幸な話ではあるのですが、もといた組織に戻る経緯はアクション映画のようであり、ある種の華やかさやドラマチックさがある作品なのです。
一方、この「サラ、いつわりの祈り」は、前作に続いて出された短編集ですが、前作のような華やかさはありません。前作の主人公の物語が時系列がバラバラ10篇の短編小説になっておさめられています。
前作では謎だったこと、主人公が男娼に至る経緯、主人公の母の実家、主人公と母の旅の様子が一編ごとに明かされていく仕掛けです。
どれもさほど長くない物語ですが、全く救いようがない内容です。
前作のような、救いや勢いのある展開はありません。
ただ、時々はっとするほど美しい文章があって、気に入っていました。
ちなみに、J・T・リロイは後年、作られたキャラクターであり、
作品も完全なフィクションであることがわかりました。
ローラ・アルバートという女性作家が、小説の売り込みに難航したため
知人の妹を代役を立て、フィクションを自伝として売り込んでいたということが発覚したのです。
その後、「サラ、いつわりの祈り」はアーシア・アルジェント監督で映画化され、「サラ、神に背いた少年」も映画化される予定だったはずですが、結局はされなかったようです。
持っている本には、性別不明の金髪の人物が青いTシャツ茶色のパンツに身を包み、こちらを見下ろしている写真が、著者の略歴の上に載っています。
「やっぱりきれいなひとなのだなぁ」としか思っていなかったので、
それがまさか代役で、実際に書いていたのは中年の女性だったとは考えもしませんでした。
ちなみにこの顛末も「ふたりのJ・T・リロイ ベストセラー作家の裏の裏」という映画になっています。
まさしく「事実は小説より奇なり」というやつです。
ちなみにローラは罪に問われることなく、その後も本名で小説を書こうとしていたようです。
あれだけ、面白い物語が書けるのだから、やっていけるような気がするのですが、
今は、どうしていらっしゃるのか。
男性同性愛をテーマにした小説を中年女性が書くというのは
アメリカでは日本以上に受け入れにくかったのでしょうか。
そして、「美少年の自伝」という設定でないとあの小説が読まれなかったことを考えると奇妙な気分になります。
ものすごい美文ではありません。
でも、吸引力と魅力がある文章なのです。
著者の事件とはまた別に、もっと読む人がいてもよい本なのでは、と思っています。
「サラ、いつわりの祈り」におさめられている「隕石」の書き出しや最後の一行なんて、とてもいいと思うのです。
そして、あの小説がフィクションだということは、ああいう酷い目にあった子どもが1人、現実には存在しなかったということです。
騙されてたとしても、別にいいと思ってしまうのは、甘いのでしょうか。