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2025年2月5日 運命でなく決断でもなく
今日も、寒いですね。
今年の冬は、例年ほど寒くないので、気を抜いていたのだということが
昨日と今日でわかりました。
例年は、ストールも手袋も常備していたことを
思い出したのです。
今年の冬はその2つを家に置いていました。
それはが必要がないくらい、これまであたたかだったのです。
人間は何でも楽な方に慣れて、
それが基準になる傾向にあるのでしょう。
記憶が都合よく改ざんされて、しまうのです。
昔はもっと寒かったはずですし、
雪かきも大変で、
暖房器具の効きは悪く、
コートやセーターはひどく重たかったはずなのです。
昔の「冬」はノスタルジックで素敵ですが、
本当にそうだったとは言えないのかも、と感じました。
仕事についても同じで、
変化が起きるたびに、もやもやしたりイライラしたりしているわけですが、
昔がよかったというわけでもありません。
ほんの少し前を思い出すだけでも
「あんなことをよくやっていたものだ、よく倒れなかったな」とか
「よくあんな仕事のやり方でなんとかなったものだ」とか
そういうことがいくつも思い浮かびます。
ニュースを見ていると、
銀行の貸金庫からお金が盗まれる、
絶対安泰と思われていた会社の行く末もわからず、
大御所と思われていた芸能人が姿を消し、
あるのが当然と思っていたCMがなくなるような世の中です。
これまで当たり前だったことも、
明日には非常識だと糾弾され、厳しい意見がぶつけられる可能性があります。
それでも、それらの変化は、「なければよかったこと」ではありません。
これまで、黙殺されてきた何か、
なぁなぁにされてきた何かが明らかになろうとして起こったことです。
去年から、繰り返し書いていますが、
何かが大きく変わろうとしている中に私たちはいるのだと思います。
社会の教科書を読んで、
「この当時の人はよくこんな時代を生き抜けたものだ」と
思ったことがありました。
しかし、数十年後の未来には、
私たちもそう思われているのかもしれません。
「こんな時代に生まれなくてよかった」とか
「こんな時代を生きるのは大変だったでしょう」とかいう感想を持たれるような気がします。
今になってわかったのですが、
時代のただなかにいる時は、「大変だ」とは考えないものなのです。
普通に生活をしているだけなのですから。
歴史で何が起きるかわかっているから、「大変」と思うのです。
第二次世界大戦中の人々も、
明治維新のころの人々も、
戦国時代の人々も、実は今の私たちのような気持だったのではないでしょうか。
何かが起こりつつあって、
その動きは止まらないけれど、
それが何かはわからず、また、それを動かしているのが何かもわからない、のです。
わかるのは、「変わる」ということだけ、です。
去年はまだそわそわしていましたが、
2025年になってから、
そわそわも出来なくなってきました。
これは本当に、
動く時代の真ん中にいるということなのでしょう。
台風の目の部分にあたる地域は静かであるのと同じようなものです。
時代の大きな「変化」があれば、
一市民、一個人の生活にも「変化」は生じます。
最近、道路のひびが、大きな穴になった事故がありました。
とても象徴的な事故です。
現場にいる方々のことを思うと大変申し訳ないのですが、
私は、あのニュースにとても恐怖を感じます。
動画を見る時にまっすぐ見られないくらいです。
耐用年数を超えた下水管が原因で、道路にひびが入り、
大きな穴が出来るなんて、まさしく逃れようのない「変化」です。
「変化」は無視をしていても進行し、
そして急に目の前に躍り出て、
日常を飲み込むのです。
他人からどちらかと言えば、
大胆不敵とか勇猛果敢な部類と思われているようですが
実際の私はわりと受け身で、
決断をして変化を巻き起こすタイプではありません。
変化を望むタイプでもありません。
これまで人生の大きな選択の場面が幾つかありましたが、
よくよく考えれば、いずれも
誰かに背中を押してもらったり、
自動的にその流れが出来たり、
棚から牡丹餅のような出来事があったりして
「そうなった」のでした。
「選んだ」とはとても言えないのです。
気づいたときには、「そうなるようになっていた」のです。
「こうしよう」と思って決めていたのに
その場面になると、
思いもかけない言葉が口をついて出てきたこともありました。
例えば、
アルバイト採用から、契約社員になれると聞いたとき、
相手側はすっかり雇用するつもりでいたのですが、
私はすらすらともっともらしい理由をつけて
その誘いを断ったのでした。
考えてもいなかった自分の言葉に心底驚きましたが
何食わぬ顔でその場を退出したことを思い出します。
もちろん、
今考えると、それでよかったのです。
その選択が正しかったのです。
自分の頭で決めて
変わっていくことは素晴らしいことですが、
私には向かないのかもしれません。
「○○しよう、絶対にする」と決めて、
変化するのでなく
その時の自分からでる「本心」に
身を任せた方がうまくいく傾向なのです。
ですから、迫り来る「変化」を
心配をしても意味はないのかもしれません。
私は結局心配したとしても、
選ぶべき方を選ぶ、
もしくは、何かの流れに引っ張られて決めてしまうからです。
頭の中では、白い布が糸で、
左方向へ引っ張られるイメージが浮かんでいます。
その白い布はキャンパスで、
木炭か鉛筆で簡素な人間が描かれています。
キャンパスが引っ張られれば、画面はゆがみ、左に集まりますが、
描かれている人間にはそれを止めるすべはありません。
ただ、その引っ張る力のおおもとを見ることはやめていません。
このイメージのように、
私のいるを引っ張っている、
その力を見失わぬようにすることだけは忘れないようにする必要があります。
そして私は、それが何を目指しているのか、
何となく、わかっているような気もするのです。
運命にただ流されるだけでもなく、
自らの決断だけを重視するのでもなく、
もっとあいまいで、微妙なかじ取りを迫られている、ということなのかもしれません。
今後何らかの、選択を迫られたら、その時の本心をこたえようと思います。
頭で考えておくより
本心をすっと出せるコンディションを整えておくほうが
大事です。
私にとって、
変化のただなかを生きるとはたぶん、
そういう野生の勘を働かせるということなのです。
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