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『怒り』という現代社会の慣習《 3.11後からの日本を案ず(23)》

── 前回「『憂い』から『怒り』へ」の続きです

国民の怒りという風潮

前回の内容で、岸田秀さんの著作『嫉妬の時代』などの引用から『日本人の感情や表現が“憂い”から“怒り”へと変化した』ということを書きましたが、なぜこんな進化を日本人はしたのでしょう。その原因や起源的なことにご興味がある方は、ぜひ本を読んでみてください。この本が書かれた時代背景にして思えば、インターネットも普及していないどころかオフィスにさえもパソコンも携帯電話などもない時代です。いま現在の社会の現実とは全く異なる時代から既に日本人は変わっていたのです。

現在2021年の8月ですが、日本ではオリンピックが開催している真っ最中にあります。コロナ禍における政策に対する不満なども含めて、国民の多くの批判や中止などを求める声も途切れることなく続いています。こんなオリンピックは長い歴史の中でも、後にも先にも今回の東京オリンピックだけでしょう。大げさかもしれませんが、国民や人民の命の危険を完全に無視した強行に値する地球人類の平和の祭典であるオリンピックが、この東京開催によりすべてが崩れたのですから、人々の不満も当然ではあります。

そしてその現象のほとんどがツイッターなどのSNSを中心に起こっています。その本人たちは正当な意見や正当な不満の活動や意義ある正義の言動だと思い込んでいることでしょう。もちろん無駄ではないことだとも思いますが、しかしとても悲しく思えるのは、どんなに正論でも、その刃がIOCや政府などではなく、なぜか選手に向けられてしまっていることです。選手はリアルタイムでスポーツの本分として、それぞれの国を背負い競技に挑んでいる最中にもかかわらず、なぜそれを批判や妨害などとして、傷つけることのどこに“正義”があるのでしょうか。

ここまで、現代の日本国民の品位は低下してしまっていることにこそ、恐怖のような感覚を覚える私がいます。昨今よく使われる『民度』という言葉がありますが、それをよく使用しているSNSの住人こそが、なぜそのようなことをしてしまえるのか。ここで言う『品位』というのは、前回の『『憂い』から『怒り』へ』でも述べた意識の部分で、謂わば『思い遣り』や他者や他の文化の方などへの配慮でもあり、対人コミュニケーションにおける、つまりは相手を『慮る(おもんばかる)』ということです。

ここではオリンピックや新型コロナウイルスの話題はできるだけ取り上げずに、あくまでも東日本大震災についての視点がテーマですので、これ以上はここでは追求せずに、また後に別の機会を設けようと思っています。しかし、少しだけこうしてリアルタイムの日本に触れたのは、あの3・11当時から現在に至るまでの日本人も、実はあまり変わらずに同じことをしていたように感じたからです。

簡単に言えば『自分が被害を被っていないのになぜ怒るのか』という部分です。ましてや今回は特に選手や大多数の大会関係者は全くもって無関係であって、つまりは選手は『加害者』ではないのです。ましてや先述(前回)の内容にあてはめるならば、選手たちは、なにかの過ちをおかしてしまったわけでもなければ、なにか辱めを受ける立場でも個人でもありません。それなのに、どうして個人的な『怒り』を、匿名のままに、なぜに“遠い誰か”にぶつけるのでしょうか。

「安心安全」などという嘘を掲げた茶番劇が露見してしまったオリンピック開催自体も憂うべき、恥ずべき行いであることは間違いないと思うのも確かなのですが、それよりももっともっと、本当の問題というか、本当の『恥ずべきなにか』が、とても悲しい現実がいま日本にあるように見えます。


日本人は“怒る”ことに慣れてしまった

たぶん“慣れて”しまっているのかもしれないと思えます。そうです。『怒る』ということにです。問題を解決するとかそういう本義に気がつかないほどに、もう完全に染まっているとでも言いましょうか、それがもう『当たり前』であり、もはや『人間とは怒るもの』とでも、現代人は思い込んでしまっているのではないでしょうか。正義とか善悪とかそれさえも特に関係なく、とにかくもう『『感情』に作用があったら『怒る』という表現で反作用が起こる』それが人間の正しい“反応”だといわんばかりに、きっとそう『慣れて』しまったのだと思えます。

自分が被害を被っていないのになぜ怒るのか。まるで自分以外は全部“加害者”として、自分を脅かす可能性にある“加害者未遂”のように、無意識下でそう感じているのかもしれません。でも、もしもそんな馬鹿げた仮説がまんざらでもないのであれば、なぜにそこまでプレッシャーがあるのでしょうか。人生の“転ぶ”ことや“失敗”などを、そこまで恐れ、また回避しなければ生きれないようななにかが、もしかしたら現代の日本にはあるのかもしれません。

そのようなこともまた、先の機会にでも改めて考えてみたいと思います。いまここで言えるというか、そのような心理状況にある方々に述べたいのは、この世界には『完全な加害者はいない』という見解です。どんな現実も『すべては自分が捉えている自分がそう認知した世界』でしかないのです。不満に思うのも自分。被害を被ったと思うのも自分。そして反対に加害者も一人では現実に事件も創造することは不可能なんです。

過剰な理論を述べていることは承知の上ですが、確かに、どんな現実にも二人以上の登場人物の共演がなければ、事件は起成立しないのです。少なからず、その二人以上の共演者が、互いになにかの動きを起こさなければ現実は創られないのです。それがこの世界や時間の中で起こっている“現実の成形”の原理だと言えます。なにも物理などの話をしたいわけでも、小説などの作り方の話をしたいわけではありませんが、この原理は確かなものだと思います。

もちろん、これが社会の視点から見れば、裁判などの善悪としての概念に当てはめ、双方の役柄としての“加害者”と“被害者”という配役は成立することは間違いありません。よく自動車事故の保険のように、相手と自分が何対何という割合で加害と被害を判断したりしますが、その原理と同じようなことです。ほんとうにこの話はあえて過剰な論理として述べてみました。

このテーマでいま追求しているのは、そんな事件がなぜ“起こる”のかという話ではなくて、あくまでも『なぜ“怒る”のか』という視点で進めます。時に革命などは確かにこの“怒り”を原動力として時代を変えてきたことも事実だと思います。だから本当に言いますが、私はなにも「怒るな」と言いたいのではないのです。怒りだって憂いだってすべてを捉えるということこそに“事実”があるという見方や感じ方、そして行動や表現をすることが望ましいと思うということです。

『解決』というのは、一歩的な現実からでは必ず“未解決”になると思うわけです。解決をするということは、その真実や本質を捉え、必ず『未来に活かす』ためにあるわけで、勝敗や善悪で判別してしまって決議を下し片付けるだけを繰り返していては、どこかでなにも解決しないまま続いてしまうのではないかという、過剰な理論を言っているのです。

つまりは『事件の本分は、過去を暴きどう裁くのかではなく、どう捉え未来に生きるのかにある』という意味で、そういう思考の方向では『怒る』ことだけでは、きっとなにも未来には活かされないのではないでしょうか。

もっとも、現代のSNSなどで怒っている表現を、謂わば“書捨てている”人々の心理や本意が、本当は別になにかを解決したいわけじゃなくて、なにかを自分のために怒っている表現を発信することに意義を見出して、その上で、自分とは無関係でもある他者に勝利したいのならば、または勝利したり、自分の正当性の評価を確認しなければならない必要性があるからの言動であるのならば、全く話は別ですが。

しかしそうならば、せめて矛先を利用する際に、それこそ“罪もない人”を巻き込んだり、利用しないようにしてほしい。そして、もしかしたらその見えない先の生きている誰かが、傷ついてしまうかもしれないということも、それこそ慮る気持ちで、想像できたなら、かつての日本人のように『憂い』として、未来の自分の人生に、そして連帯した国民や世界の人々の未来や今などに活かすことができるのかもしれません。


『怒り』が行き着く“未来”

ずっと私感として漠然とした物言いを続けてしまいましたが、つまり『憂いと怒り』を、簡単な例えとして表すならば、『アンパンマンがバイキンマンのマシンをアンパンチで粉々に吹き飛ばして助けてくれて、その破片がアンパンマンがくれた顔であるアンパンに目が暮れて夢中で食べていたカバオくんの頭にあたったから「アンパンマンのせいで頭を怪我しそうになった」と、戦いでヘロヘロのアンパンマンに向かって怒り「訴えさせてもらいます!」って、カバオくんのお母さんが言い放つ』みたいな怒り方であって。

そこで奥ゆかしき古の日本の絵本アニメ『アンパンマン』なら、お母さんはきっと『「カバオ、そうやっていつも食べものに夢中になってるから、気がつかないのよ。次からは気をつけなさい。アンパンマンありがとう!」』そして、カバオくんも自分の性分を憂いだり反省したりというようなストーリーになるのではないでしょうか。

またそんなアンパンマンが未だに愛される理由のひとつには、そんなバイキンマンもいつもみんなは温かく見守ったり、食べ物を分けたり、時には一緒に遊んだりするところです。つまりバイキンマンを『悪』として、片付けていないのです。それこそバイキン扱いなんか微塵もせずに、同じ成長を分かち合う友達であったり住人であったり、仲間という意識で描いている。

たぶん現代社会だったら、『ウルトラマン』がビルを壊して訴えられる犯罪者になってしまうような世界に感じます。ある意味でそんな物語を描いたダウンタウン松本人志監督作『大日本人』という映画もありましたが、そういう話で私が一番印象的に覚えているのは、横山光輝さんの作品『マーズ』のラストシーンです。アニメでは『ゴッドマーズ』としてただのロボットアニメに変えられてしまっていましたが、原作の漫画は、最終回は特に、地球の人間という存在への風刺として、とても優れた表現で幕を終えた“酷”なものでした。

簡単に説明すると、主人公マーズは、生死をかけてまでをも地球人を守るために多くの敵と戦い、ボロボロになりながらも地球を守り抜きました。しかし、危機を脱した地球人たちは、「そもそもこんなはめになったのはマーズのせいだ!お前がいるから敵が来たんだ!」と、マーズを責め、ボロボロになった主人公に石を投げつけたり暴言の限りをぶつけます。そしてマーズは無言で意志を固めました。そしてマーズは両手を天に仰ぎ最後のワードを叫びます。その瞬間、地球は大爆発を起こし惑星ごと塵芥と化し物語は終焉します。

長きに渡った連載で、読者もずっとマーズを応援し地球の平安のために読み進めてきて、最後の最後のほぼたった1ページで、その物語は大どんでん返しとして覆り、しかも唐突に終えたのです。そこに効果音をつけるのであれば、私なら「プッ…」です。一瞬でほぼ沈黙になった。リアルタイム世代ではありませんが、子供の頃に読んだ漫画なのですが、とても良い意味で重いなにかを心に残した作品です。

なんかまた結局、引用的な内容ですが、まさに現代人とは、そういう感じに思えてしまいます。もう、本当の世界の摂理としてのこの世の在り方には、きっとすべての事柄に対して『加害者』も『被害者』もないのかもしれません。表裏一体で、今日は被害者でも、明日には加害者になるかもしれませんし、正義も悪に、悪者にも正義や事情があって、人の数だけ真実は異なるものです。

そういう世界にあって、『復興五輪』と名付けた今日の東京オリンピックも、復興どころか、国民の生命までを危機に晒し、まったくなにひとつ復興に対して役にも立たないお粗末なものでした。むしろ『復興』というブランドを利用し、その上でさらにそのブランド価値を汚し尽くしたような結果になったという感想を持ちます。そもそもそんなブランドを利用することに品位のなさをまざまざと感じ、10年経過した東日本大震災に対してもそうですが、その10年間に起こった他の土地での災害や被害に対しても、あまりにも泥を塗ったような行為にも感じます。

商業広告や経済的効果のみを価値基準としたブランディングが蔓延してしまった消費社会と広告主義時代にあって、現代日本人のそんな『怒り』は、もしかしたら“炎上”や“プロパガンダ”として、もっとも民の視点を逸らし、人間の感情を利用して視界を狭め、ほどよい不満とほどよい自由を同時に与えつつ、スケープゴートさせる思考回路として、こういった『怒る市民』というものこそ、もっとも操りやすいく、そんな『怒り』に慣れた民は、たぶん一番利用されやすいのではないかと、いささかそんなことが浮かび上がる思いです。

つづく ──

20210802



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