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推しが尊いから目の保養になる
みなさんいかがお過ごしですか。トビタケです。🎍
今日はとても寒くて、温まるためにからだを動かしたくなる日でした。
ですが、今尾てい骨のところの皮膚をケガしていて、痛いので運動することができません。
からだを動かせるというのはすごく幸せなことなんだなと実感しました。回復したら、思い切り走りたいと思います。
みなさんもぜひシャキッとするために運動してみてください。
それでは、今回の本編に入ろうと思います。
本編
目の保養になるものがたまにある。
私にとっては、うちで飼っているペットがそうである。青いインコを飼っている。家族一同「幸せの青い鳥がきたね」と言って迎え入れた記憶があるが、それから何年経ってもずっと目の保養になる。
心が回復する。元気になれる栄養が摂れる。
そんな力があると思う。
ペットの他にはどんなものがあるだろうか。例えば流行っているものだと、アイドルなどが目の保養になるかもしれない。
人によっては、その人自身に愛着をもって、思い入れを持ちながらファンをしている。
その中でも、視覚的な魅力の役割は大きいと思う。人は、自分の外部にあるものを認知するために、五感を通して情報を取り入れる。
眼・鼻等を使い、自分個人にとって好ましいものか判断する。
筋肉・皮膚・口等を通し、外界に対して働きかけることを試みる。
そんなふうに生活していると、自分の中に遺伝的な、あるいは後天的な「好み」があるのだとわかる。
生理的に無理とか、本能レベルで惹かれるとか、そういうこともある。
この、「本能レベルで惹かれる」というのと、「目の保養になる」というのは大きく似ている気がする。例えば、恋愛対象となる相手に対して、一目惚れをするのはこのことだと思う。
また、「目の保養になる」には他の特徴もある。どちらかというと、自分が受動的になっている。働きかけるというよりは、情報を受け取る側で、近くに寄ったとしても見守っているという感じである。
例えば、人を見ることに対してこの言葉を使うときには、何かのメディアを通して見たり、ライブを観戦したりといったシチュエーションが考えられる。また、普段の生活の中で「推し」を作る人もいる。職場や学校で、たまに見かけるレベルの人で推し推され、ということもありうる。
では、動物についてはどうか。
猫カフェで猫を愛でる。ペットを膝に乗せて安らぐ。
能動的・受動的で考えてきたが、よく考えると「見る」という行為自体がそもそも受動的な成分が多いので、どっちみち「目の保養になる」というのは受動的なものかもしれない。
ただ、「好きだ」「愛する」ということになると、少し話が違ってくる。矢印の方向は自分から対象へと向き、能動的な成分が多くなる。エーリッヒ・フロムが言うように、愛とは愛されるというよりむしろ愛することだ、となる。「推す」というのも能動的かもしれない。
ここには、エネルギーが必要となる。能動的になるためには、根気がいる。
反対に、受動的に目の保養にしている分には、エネルギーの消耗は多くない。対象を見ながら、エネルギーをチャージしているだけでいい。
「推し」の文化が広まった背景には、このような「目の保養になる」というメカニズムがあったのかもしれない。
無生物だとどうか。
「目の保養になる」という言葉の響きとは少しズレてしまうかもしれないが、私はよくアウトドアが目の保養になっていた。「ソータロー」「健啖隊」「羽貫渓流」とか、周りの人に聞いてもあまり知らないと言われるチャンネルを好んで見ていた。
自然の水の流れを見て聞いていると癒やされるし、魚の美しさには見惚れる。
ところで、「推し」文化では、対象にものすごいエネルギーが注がれることになる。内発的な動機として出てくる「好き」という感情は、とてつもなく大きい力を生む。
人が行動する際には、それをやりたいという力とこれはやめておいた方がいいという力が、拮抗したのちに「やりたいという力」が勝つことが必要となる。脳の報酬系と罰系の勝負である。
このニューロン対決をきめるのは何かというと、私たちの今までの経験と、遺伝にほかならない。ここまで強く、なにかに対する肯定的な思いを持てるというのは、ある意味「機会」であり、類まれなる才能でもある。
なにかを「目の保養」にしたり、「推す」といったことは多くの場合、精神衛生上プラスに働く。さらに、何か行動を起こすきっかけにもなる。
うまく付き合っていくことができれば、大きな力となるのである。