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吟遊ビジュアリスト 鈴木亮

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吟遊ビジュアリスト 鈴木亮

最近の記事

アキ映画の主人公たちは、その日その日を刹那的に暮らすが、いざという時の踏ん張りどころを心得ていて、一筋の微光を見逃さない。

ながくなるけどちゃんと書いてみよう。(何をって映画についてだよ) 映画はボクの人生の伴走者なんだ。(いや伴奏者かな) だけど記憶の中の映画には実体がない。脳内スクリーンのイメージってボクの無意識の投影だからさ。倒錯的に触発された内面の現象がランダムに拡散して雲のように流動するのさ。 思い返せば、いろんな映画を観てきたよ。アクションもロマンスもSFもドキュメンタリーも。産地もいろいろでさ、アメリカもヨーロッパも中東も南米もアフリカもアジアも、街角のポスターと情報誌「ぴあ」の告知

    • ヴィム・ヴェンダース監督の新作[PERFECT DAYS]に格差社会の肯定を感じた。([ベルリン・天使の詩]の監督なのに)

      ヴィム・ヴェンダース監督の新作[PERFECT DAYS]に格差社会の肯定を感じた。([ベルリン・天使の詩]の監督なのに) このプロジェクトの(企業と機関と代理店の利害が交錯する)成り立ちを知って、私は宙を睨んだ。総論として残念な逸品である。 トイレ清掃人の単調な日常に禅的な諦念を持ち込めど、小津安二郎のニヒルとは別次元にある。([アメリカの友人]の監督なのに) 田中泯のホームレスも形式的存在に過ぎない。([Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち]の監督なのに) 歌う

      • 主人公ターも観客も、時間の迷宮に閉じ込められたまま永遠に足掻き続けざるを得ないでしょう。

        巷で評判の映画TER/ターをAmazonプライムで鑑賞しました。ベルリン フィル オーケストラ初の女性マエストロ「リディア・ター」が主人公です。孤高の指揮者を演じるケイト・ブランシェットの独壇場でした。圧巻です。演技派の脇役たちも寄ってたかってケイトを引き立てます。成功者のターが発する際だって理知的なセリフは(会話なのに)演説のように長くて威力があります。洗練され理路整然としたロジックの連射を浴びて、私の脳内の蒙昧な粘膜は蜂の巣状の穴だらけになってしまいました。髪を振り乱して

        • 新作[ナポレオン]も主役に不機嫌を演じ続けさせる異様な快作でした。

          リドリー・スコット監督の新作[ナポレオン]を観てきました。主演はフォアキン・フェニックスです。 ご存知の通りナポレオンは実在した人物ですが、この映画はフィクションです。リドリー・スコット監督の反骨精神が存分に発揮され、リド流の解釈になっていました。それは英雄伝説の解体、ナポレオンの凡人化を目指したように私には見えました。ですからこの映画は歴史マニアやナポレオンファンに対して喧嘩を売ることにもなってしまいます。ははあ、さては、良識とモラルを信じるインテリ層に対する、これはリドリ

        • アキ映画の主人公たちは、その日その日を刹那的に暮らすが、いざという時の踏ん張りどころを心得ていて、一筋の微光を見逃さない。

        • ヴィム・ヴェンダース監督の新作[PERFECT DAYS]に格差社会の肯定を感じた。([ベルリン・天使の詩]の監督なのに)

        • 主人公ターも観客も、時間の迷宮に閉じ込められたまま永遠に足掻き続けざるを得ないでしょう。

        • 新作[ナポレオン]も主役に不機嫌を演じ続けさせる異様な快作でした。

          それは天空へ向かって飛翔するイカルスの教訓です。

          土曜日の朝も、いつもと同じように、いそいそと五時に起きました。アサガオの蕾に挨拶をしてから珈琲を淹れます。それから電動のグラインダーで焙煎豆を粗めに挽いて、ネルドリップでぽとぽとと湯を落とします。キミちゃんと二人で無農薬エチオピア珈琲のコクと香りをゆったりと味わってから、地下鉄に乗って日比谷へ向かいました。8時20分から始まる朝のロードショーがあるのです。 トーホーシネマズ日比谷の大きなスクリーンで映画[エルヴィス]を観ました。音響もたいそう立派でした。これはやはり劇場で観る

          それは天空へ向かって飛翔するイカルスの教訓です。

          一枚の透明なガラスが世界を仕分けています。

          写真は老人ホームに入居した母です。施設の二階に母の部屋があります。二十年間暮らした高円寺の元の部屋から、洋服箪笥と木製テーブル、そしてお気に入りの椅子を運び込みました。面会は(感染防止のため)まだガラス越しです。部屋のベランダ側からボクは話しかけています。窓を少し開けてあるので、声は聞こえます。母はボクを見つけて笑いました。とても元気そうです。 母は、ボクがどうして部屋に入らないのか理解できていません。ですが、細かい疑問はすぐに忘れちゃいます。立ったまま嬉しそうに会話してくれ

          一枚の透明なガラスが世界を仕分けています。

          時空のたわみや、その不思議な矛盾も、神秘的な人間存在の危うさも、愛と悲しみにむせぶ情緒の波に呑まれるような感動も、ボクには感じられませんでした。

          新宿で映画を観るのは久しぶりでした。この二十年くらいは日比谷と六本木がボクの映画鑑賞の主戦場になっています。たまに渋谷と日本橋が挟まるくらい。 歌舞伎町のTOHOシネマズは、新宿コマ劇場があったところです。ご存じの方も多いと思いますが、新宿コマ劇場は北島三郎や小林幸子が恒例のリサイタルを行う名のある劇場でした。 ですがやはり、時代の趨勢には勝てず、2011年に取り壊されて、31階建ての高層ビルになりました。もともと東宝系の運営だったようで、新しい新宿東宝ビルにもIMAXスク

          時空のたわみや、その不思議な矛盾も、神秘的な人間存在の危うさも、愛と悲しみにむせぶ情緒の波に呑まれるような感動も、ボクには感じられませんでした。

          小説[雨の歌を聴け]

          1. 完璧な文章はある。完璧な絶望が存在するようにね。 ボクが高校生の頃、偶然知り合った担任の先生は現代国語の授業でそう言った。ボクはその意味をずっと理解できなかった。今も理解できないでいる。だからボクにとってその言葉は何の慰めにもなっていない。だけど完璧な文章はある。それは神のように儚い。 しかし、それでもやはり何かを書くという談になると、いつも突飛な気分に襲われることになった。ボクが書くことのできる領域は無限大に拡張されたものだったからだ。たとえば像について何か書けたな

          小説[雨の歌を聴け]

          この映画は、領域を限定した、個人の体験の心象を表現するフィクションです。

          映画[MINAMATA]は、齢(よわい)を重ね酒に溺れる世界的な報道写真家ユージン•スミスの感傷的な主観世界です。 観客(私)は、憑かれたように主役ユージンを演じるジョニー•デップの振舞いに感情移入しました。 九州の不知火海に暮らす漁師や家族たちと交流し、または対立する彼の衝動的な行動に、観客(私)は高揚し、漁師の家の母と娘の入浴写真を撮る場面では感極まって涙を流しました。 さらに、水俣病の原因物質を排出した国策企業チッソとの対峙は劇的です。胸に迫る緊迫感があります。 その描

          この映画は、領域を限定した、個人の体験の心象を表現するフィクションです。

          納屋は燃えるべくして燃えていました。燃えなければならなかったのです。

          日本語だと「身なり」を連想してしまう映画[ミナリ]を観ました。(映画の内容は「身なり」とは関係ありません。) 飯田橋の名画座ギンレイホールで[ファーザー]との二本立てでした。 名画座と呼ばれる映画館も少なくなりましたね。 ロードショーの初公開が終わった作品を安く上映してくれる映画館を二番館とか名画座と呼んでいました。 ギンレイホールは1974年開業だそうです。残存する東京の名画座をいくつか挙げておきます。目黒シネマ(前身の目黒金龍座1955年開業)、池袋の文芸座(1956年開

          納屋は燃えるべくして燃えていました。燃えなければならなかったのです。

          老化現象とは時間が逆転して子供時代に戻ることなのかもしれません。

          その日ボクは地下鉄の南北線に乗って、キミちゃんと二人で、飯田橋の名画座ギンレイホールに行って[ファーザー]を観ました。 ボクはこの映画の仕掛けにすっかり持っていかれてしまいました。 一人暮らしをしている八十歳の父がアンソニー・ホプキンス([羊たちの沈黙]のハンニバル・レクター)です。彼の記憶が混乱して、怒ったりふさぎ込んだりするので、娘のオリヴィア・コールマン([ザ・クラウン]のエリザベス女王)は困ってしまいます。 でももっと困ってしまうのは観客です。ストーリーの構成がアンソ

          老化現象とは時間が逆転して子供時代に戻ることなのかもしれません。

          深い原生林を彷徨い続ける小さな野生動物、小野田寛郎の生態がありました。

          映画[ONODA 一万夜を越えて](2021年/アルチュール・アラリ監督)を観る前から、ボクは軍人小野田寛郎の不思議な行動に関心を向けていました。 小野田寛郎は1974年に帰還します。戦時から29年間、フィリピン・ルバング島のジャングルに籠ってゲリラ戦を続けた人です。最後の日本兵と呼ばれ、軍国主義の権化のように扱われたり、素顔の普通っぽさから「幻想の英雄」と呼ばれたりしました。なので、小野田寛郎の人物像は人それぞれだろうと思います。 ’72年にグアム島から帰還した日本兵・横井

          深い原生林を彷徨い続ける小さな野生動物、小野田寛郎の生態がありました。

          ピュアで残酷で不思議な輝き      [ 返校 言葉が消えた日]

          [ 返校 言葉が消えた日]映画館の深い椅子に身を沈めて視界いっぱいのスクリーンに包まれていると、いつのまにか時間と場所が失われてしまう。自分自身という主体は闇に溶ける。ボクが誰なのか忘れるし、地図もカレンダーも時計もその存在を主張しなくなる。だから心が乱れたら映画館で映画を観ることにしている。きのうは六本木TOHOシネマズの第6スクリーンに籠もった。ここならけやき坂の蝉時雨はもう聞こえない。 [ 返校 言葉が消えた日]は台湾の気品に溢れた恐怖映画だ。ストーリーをぐいぐい

          ピュアで残酷で不思議な輝き      [ 返校 言葉が消えた日]

          詩作[光のラオス]

          ハンマーで殴られたから頭が痛くて目が覚める。 午前四時、夜明け前の闇が背中の肌を這いまわる。ネチョつく。男を倒した夢を見た。あと味が悪い。それはラオスで出会ったマラリア患者だ。首都ビエンチャンでラーメン屋を営む日系人。ラオスの男は全身の皮膚が割れていた。血が吹き出している。ラオスには珈琲の農園がある。ラオスの珈琲ってとびきり美味いわけでもないんだ。それでも珈琲豆は主要産品のひとつらしい。ラオス人は陽気な仏教徒。胸の前に手を合わせて挨拶すればもうすっかり友達だ。「サヴァイディ

          詩作[光のラオス]

          フォロワーは自身の律動に何事かが起きていることを感じる。胸が騒ぐのだ。

          熊本在住のアーティスト坂口恭平がパステル画を連投している。一日に二枚三枚と描きあげてみせる。どれも既視感のある風景画で、鑑賞者の内面を問うような触発性がある。青空のグラデーションから受ける艶かしさは筆致というより愛撫と言いたい。ゴッホも書き始めたら憑かれたように筆を動かし続けていたらしい。恭平の風景画は学校で習った写生とは趣が異なる。写実ではない。では何か。これは念写じゃないかな。本人にも制御できない深層の欲動が肉体を作動させている、というボクの想像。あの世を映像化して見せた

          フォロワーは自身の律動に何事かが起きていることを感じる。胸が騒ぐのだ。