主人公ターも観客も、時間の迷宮に閉じ込められたまま永遠に足掻き続けざるを得ないでしょう。
巷で評判の映画TER/ターをAmazonプライムで鑑賞しました。ベルリン フィル オーケストラ初の女性マエストロ「リディア・ター」が主人公です。孤高の指揮者を演じるケイト・ブランシェットの独壇場でした。圧巻です。演技派の脇役たちも寄ってたかってケイトを引き立てます。成功者のターが発する際だって理知的なセリフは(会話なのに)演説のように長くて威力があります。洗練され理路整然としたロジックの連射を浴びて、私の脳内の蒙昧な粘膜は蜂の巣状の穴だらけになってしまいました。髪を振り乱して指揮棒を振る勝者の自信が消化器の白煙のごとく画面いっぱいに充満します。だから視界は真っ白けです。しかも彼女は苦悩する同性愛者でした。ルサンチマンに満ちた社会の棘をその白い全身に受けて、精神的にも肉体的にも疼痛にのたうちます。でもそれだけなら映画の筋立てとして珍しい展開ではありません。しかしなんだが妙な具合なのです。私は苛立ちました。つまり何かが過剰なのです。静寂がわざとらしい。主人公ターの精神錯乱をミステリアスな出来事の発現として、次々に不思議な小道具が繰り出されますが、ますます違和感が募ります。ストーリーに抑揚を与える効果はありますが、その謎の問いかけに解答は用意されず、わだかまりを残します。思わせぶりなラストシーンも観客の心理を弄んでいるように感じられました。結末であるフィリピンにおける西洋音楽の丁寧な指導シーンが、凋落した彼女の立ち直りに寄与するとしても、それはあいかわらず(特定の文明を押しつける植民地主義的な)独善に見えてしまいます。主人公の振る舞いが映画の意志として重く観客に迫りますから無垢なる感受の妨げになります。迷惑なのです。たしかに飽きさせない映像表現のテクニックは充分に高い作品です。見応えがあります。難点を指摘するならば、「生きる」という肝心なテーマが稚拙なことでしター。これでは道徳の輪廻に閉じ込められた自我の呪縛から逃げきることができません。デイヴィッド・リンチ監督作品のような華麗なる内面ジャンプは起こりません。主人公ターも観客も、時間の迷宮に閉じ込められたまま永遠に足掻き続けざるを得ないでしょう。
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