フォロワーは自身の律動に何事かが起きていることを感じる。胸が騒ぐのだ。
熊本在住のアーティスト坂口恭平がパステル画を連投している。一日に二枚三枚と描きあげてみせる。どれも既視感のある風景画で、鑑賞者の内面を問うような触発性がある。青空のグラデーションから受ける艶かしさは筆致というより愛撫と言いたい。ゴッホも書き始めたら憑かれたように筆を動かし続けていたらしい。恭平の風景画は学校で習った写生とは趣が異なる。写実ではない。では何か。これは念写じゃないかな。本人にも制御できない深層の欲動が肉体を作動させている、というボクの想像。あの世を映像化して見せた丹波哲郎の[大霊界]とはベクトルが違う。恭平のはちゃんとこっちの世界にあって息吹と手応えがある。これが恭平の日常に起こる突然の閃きと多動性に関係があるのかどうか、ボクにはわからない。それより興味深いのは、このパステル画が鑑賞者に与える影響だ。Twitterでは多くのフォロワーが共鳴を示している。恭平が投稿する新作の画像を見て、フォロワーは自身の律動に何事かが起きていることを感じる。胸が騒ぐのだ。この謎めいたコミュニケーションは、死にたくなってしまった人と会話をする「いのっちの電話」の活動と脈絡が通じているように思う。このあたりのことはよく考えてみたい。(自殺者ゼロを目指して恭平は自身の携帯番号を公開し、死にたくなってしまった人からの電話を受けている。)
恭平はよく南方熊楠の名を口にする。熊楠の観察や探求行動にも衝動性を感じる。熊楠も膨大な図譜を書き残した。原生林に分け入り、シダ類や粘菌を観察し図譜を大量に記した。熊楠はこの作業に没入したという。せねば気が狂うところだったと熊楠は独白している。内発的な作動が熊楠の正気を支えたようだ。
坂口恭平を現代の南方熊楠に見立ててみれば、合点がいくこともいくつかある。坂口曼荼羅の顕現も近いか。