新作[ナポレオン]も主役に不機嫌を演じ続けさせる異様な快作でした。
リドリー・スコット監督の新作[ナポレオン]を観てきました。主演はフォアキン・フェニックスです。
ご存知の通りナポレオンは実在した人物ですが、この映画はフィクションです。リドリー・スコット監督の反骨精神が存分に発揮され、リド流の解釈になっていました。それは英雄伝説の解体、ナポレオンの凡人化を目指したように私には見えました。ですからこの映画は歴史マニアやナポレオンファンに対して喧嘩を売ることにもなってしまいます。ははあ、さては、良識とモラルを信じるインテリ層に対する、これはリドリー監督のファイティングポーズを愉しむ作品なのだなと、私は気づきました。リドリーのこの姿勢を私は評価します。
私たちの歴史認識はいつも不完全です。すべてを知ることはできません。人は絶対なる真実に到達することができないのですね。
ファーストシーンはフランス革命の勃発でした。王妃マリー・アントワネットが広場に引き出され、断頭台(ギロチン)に頭を載せれば、すぐに重たい鉄の刃が落下します。鮮血の滴る王妃の生首は、囃したてる見物人の前に晒されました。この場面が本作を象徴するイントロダクションです。
そして本編。
下級貴族出身の軍人ナポレオンが皇帝にまで昇り詰めるエピソートが団子の串刺しのように淡々と綴られます。ナポレオンの軍人としての資質や、指揮官としてのカリスマ性についての説明は最小限度に留められています。彼の人間的な魅力も強くは示されません。この主人公の表情は一貫して堅く、つまらなそうです。巷のサクセスストーリーとは路線が違います。
ナポレオンの天才ぶりや偉人性に期待をかけていた観客にとっては物足りないことであったでしょう。リドリー監督は多くの観客に肩すかしを食らわせました。
社会変革は暴力によって担われました。フランス革命期の恐怖政治は市民側のロベスピエールらが主導したものです。その後、立憲君主制として王政が復古し、ルイ18世が王位に就きます。ナポレオンは二度目の帝位にも返り咲きました。フランス社会は迷走します。人民は何を望んでいたのでしょうか。
若い頃に読んだ「自発的隷従論」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著)や「大衆の反逆」(ホセ・オルテガ・イ・ガセット著)、「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム著)といった民衆心理の分析が思い起こされます。
スタンリー・キューブリック監督にオマージュを捧げた合戦シーンの壮大さと肉弾戦の再現は見事でした。辟易するほどリアルです。
ナポレオンとジョセフィーヌ、夫婦の愛欲は異様に偏屈です。歯車の噛み合わない男と女の自意識が生々しい業欲をぶつけ合います。
というように、この映画は血湧き肉躍るアクション活劇ではありません。純愛ロマンスでもありません。ナポレオンの震える自我の乱痴気が執拗にモンタージュされ、他者に対する優越意識と鬱的な甘えを骨格とする彼の人格構造が解き明かされます。
ナポレオンにとって戦争とは、大砲の配置や銃剣の使い方、歩兵と騎兵の陣形、進路のルートやタイミングを競う戦略ゲームでした。指揮官は勝敗をかけたゲームの駆け引きに感情を高ぶらせ恍惚状態に陥ります。61回もの戦歴を重ねました。彼のゲーム(戦争)による死亡者数は300万人を越えると言われています。
ナポレオンは戦地から妖艶な妻ジョセフィーヌへ、大量の恋文を送りました。手紙の文面はナポレオンの傲慢さとフラジャイルな内面を語るモノローグです。綴られた文(ふみ)の引用が章を立てる物語のインデックスとなっていました。
ナポレオンは英雄と呼ばれます。しかし、この映画が描く彼の内面は空っぽでした。ナポレオンの人生の「むなしさ」が強く印象に残ります。
さすが、[ブレード・ランナー]で近未来を無機質な退廃として描いたリドリー・スコット監督だけのことはあります。[エイリアン]の主役はネバネバした気味の悪い宇宙生物でした。[ブラック・レイン]の凜として怯まない殺し屋の松田優作は感情を持たないダークヒーローでした。[テルマ&ルイーズ]も破滅へ向かう二人の女がピカピカに輝いていました。リドリー・スコット自身がヒネくれたやんちゃ坊主なのかもしれません。新作[ナポレオン]も主役に不機嫌を演じ続けさせる異様な快作でした。
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