納屋は燃えるべくして燃えていました。燃えなければならなかったのです。
日本語だと「身なり」を連想してしまう映画[ミナリ]を観ました。(映画の内容は「身なり」とは関係ありません。)
飯田橋の名画座ギンレイホールで[ファーザー]との二本立てでした。
名画座と呼ばれる映画館も少なくなりましたね。
ロードショーの初公開が終わった作品を安く上映してくれる映画館を二番館とか名画座と呼んでいました。
ギンレイホールは1974年開業だそうです。残存する東京の名画座をいくつか挙げておきます。目黒シネマ(前身の目黒金龍座1955年開業)、池袋の文芸座(1956年開業)、早稲田松竹(ロードショー館として1951年開業)などです。まだありますがボクの馴染みのある小屋を並べておきました。
ボクが十代の頃は、安く映画を観られる名画座の番組を新聞広告で調べて観劇の予定を立てたものです。ユーロスペース(1982年開業)やアップリンク(1995年開業)など、ミニシアターと呼ばれる新しいタイプの上映館が登場するのはその後です。
ミニシアターは日本の映画文化に新しい風を吹き込みましたが、名画座にはミニシアターにはない戦後の匂いが残っていて、その郷愁感がボクは好きです。
さて[ミナリ]の話をしましょう。筋立てとしては、成功して一発当てたい移民家族の苦労話ですけど、ボクは映画を観ながら成功しなくてもいいんじゃないかと思っていました。でも映画だから成功しちゃうんだろうなあとも予想します。で、結局どうだったのか。
その終わらせ方に含みがあって良かったんですよ、この映画。現実の厳しさと希望のバランスがちょうどいい。ハッピーを押しつけませんし、ディストピアを煽ることもありません。悲観と楽観の両方を組み合わせ、つまり砂糖と塩とコショーの振りかけ方が絶妙なんです。
家族はアメリカ南部のアーカンソーにやってきた韓国系の移民です。父と母と娘と息子、あとからお婆ちゃんも参戦します。お婆ちゃんは字が読めません。
父は黙々と井戸を掘り原野を耕します。息子は心臓が弱くて子供なのに原っぱを駆けまわることができません。安く手に入れたであろう、いわく付きの土地とトレーラーハウスに妻はブーブー言い続けます。
そうなんです、この映画もギンレイホールで併映だった[ファーザー]と同じく、父と家族の関係を描いた物語でした。たぶん劇場側がそのようなカップリングを組んだのでしょう。
父の責任とプライドという世界的な共通問題について深く考えさせられました。心憎い見事な番組構成です。
『タイトルの「ミナリ」は、韓国語で香味野菜のセリ(芹)。たくましく地に根を張り、2度目の旬が最もおいしいことから、子供世代の幸せのために、親の世代が懸命に生きるという意味が込められている。』とホームページでは説明されています。
こういう宣伝のためのキャッチフレーズは、映画を観る前の観客予定者に向けた誘い文句ですから、そのつもりで参考にしてください。宣伝文句と映画の本意がズレていることも多々あります。こうした配給側の意図を汲んであげるのも観客の重要な仕事のひとつです。
主人公は韓国系の父ジェイコブです。韓国系なのにジェイコブです。この名付けについての説明はありません。
ボクはジェイコブと聞くと映画[ジェイコブズ・ラダー](1990年/監督エイドリアン・ライン/主演ティム・ロビンス)を思い出します。
こちらの題名は旧約聖書にある「ヤコブが見た梯子の夢」が由来だそうです。ヤコブ(ジェイコブ)は天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子の夢を見た、との逸話です。
ということがあって、ジェイコブという名前には聖書の匂いをボクは嗅ぎつけてしまいます。一神教の文化圏では旧約聖書を由来とする物語は多いですね。日本なら古事記からアマテラスやスサノヲを呼んでくるような感じでしょうか。
劇中でもアーカンソーの地域コミュティの要は教会でした。新しい入植者は牧師によって教区の人々に紹介されます。アメリカの自由主義は国家や行政による公的扶助よりも、地域コミュティに信頼を置きますから教会の役割はとても重要です。
話を戻しますと、夫のジェイコブに対して妻(韓国系)のモニカはストレートに感情をぶつけます。あとから同居することになる妻の母であるお婆ちゃんのスンジャ(韓国系)も、歯に衣着せない大らかな性格の持ち主でした。スンジャは花札が好きで孫を相手に本気で勝負します。
父ジェイコブも実直な人物ですが、この二人の女性に比べれば受け身な態度が目立ちます。言い出しにくいことは隠してしまいます。娘のアンも息子のデヴィッドも口数は少ないのですが真っ直ぐにものを見ています。
家族が営む農園稼業はなかなか軌道に乗りません。厳しい現実です。自然や社会は、新参者が成功を勝ち取る事に対して、細かく細かく抵抗を示します。
そしてとうとう納屋が燃えます。
父ジェイコブが燃える納屋の赤い光に照らされるとき、ボクはイ・チャンドン監督(韓国人)の[バーニング 劇場版](2018年)を思い浮かべました。この映画でビニールハウスを燃やす男が、まさに父ジェイコブを演じている韓国系アメリカ人の俳優スティーヴン・ユァンだったからです。
[バーニング 劇場版]の原作は村上春樹の短編小説[納屋を焼く]です。原作小説と映画を読み比べてみると面白いのですが、かなり筋立てが違います。イ・チャンドン監督は、取材に対して「この映画はメタファーである」と応えていました。その言葉聞いて以来、ボクは「納屋を焼く」ことが何のメタファーなんだろうと不可解な気持ちを抱えたまま過ごしていました。
遠まわりしましたが、そのわだかまりを解決するヒントが[ミナリ]の中に展開されていたわけです。
納屋は燃えるべくして燃えていました。燃えなければならなかったのです。
納屋にしまっておいた出荷前の農作物も燃えてしまいました。父ジェイコブは落胆します。
しかし、そんなことで世界は終わりません。大地と水があれば植物はまた生えてきます。
父ジェイコブは父(夫)であるという肩の荷を降ろしました。
そして彼もボクも、名もなき小さな生物なのだと自覚します。
父ジェイコブが最後に見せたピュアな笑顔が眩しい。
映画の二本立ては久しぶりの体験でしたが、カップリングの妙もあって、淀んだ心根を水洗いしてもらったような回復感がありました。
名画座ギンレイホールにはまた行きます。